死なないようにする事と、生きる事は同じ意味か?
2020年12月09日
どうも医者は人が死ぬことを許しません。
人間という生き物にはいつか必ず死が訪れるのにです。いつか必ず死ぬ生物に対して死んではいけないというのはおかしな事だとは思いませんか?
人はどのように死んでいくことがいい事なのか?
どのような死に方をするのが幸せでしょうか?私はいつもそんな事を考えています。そして、残念ながら医療のお世話になりながら亡くなるという過程は、とてもじゃありませんがよい死を迎える事ができないと感じられます。
寿命のある限り精一杯生きて、それで死んでいく事ができれば、人間は幸せに一生を終える事ができると考えています。たったそれだけの事だけが重要だと思うのですが、医療においてはそういう風に考えることはできないようです。なぜなら、
「死んではいけない。」
という考えが縛りになっているからだと思います。
今の世の中で、亡くなっていく人たちは精一杯生きていたと言えるでしょうか?
「死なないようにしていただけ。」
そういう事になっていると私には感じられます。
死なないようにするのと、生きるという事が違う意味になっている訳です。
「生きてさえいればきっと良い事がある。」
それは確かにそのとおりでしょう。
人間は死んでしまえばそれでお終いです。生まれ代わりとか、魂とか、極楽浄土とか、天国とか、そういう考えはありますし、もしかしたら本当にそういうものはあるかもしれませんけど確認はできないものばかりです。いったん亡くなってから生き返ったみたいな人、臨死体験をした方も現実にいますけど、あの世の記憶をもって帰ってくることはありませんからね。
ちなみに、天国とか極楽とか仏教がそう謳っていると思っていないでしょうか?
でも、実際は、仏陀は天国や極楽浄土があるなんて事は言ってはいないのだとか。どうも信者を獲得するために後付けで加えられた考えというのが本当のところみたいです。こういう現実を知るとほとんどの人は死について考えるのが本当に恐ろしいのだろうなぁというのを実感できますね。
さて、千の風という歌があります。
日本ではなくなった方は火葬されますから、体は塵やガスになって空気中に散らばってしまいます。その分子の量は、世界中を覆い尽くすほどの数になります。 だから墓の中には自分はほとんどいなくて、ほとんどは大気の中に散らばってしまっているわけですね。
今現在、生きている世界中の人はかつて人間だった分子や粒子を呼吸や食事の時に、いつも吸い込んでいると考えて間違いがないそうです。この辺りの話は、生物学的には動的平行とかいますけど、我々の世界はこのように循環して成り立っている訳です。
例えば、このような考えがあると、
「死んだら行けない。」
という発想から抜け出す事ができないでしょうか?
まぁ、本当のところはもうちょっと様々な事を知らないと、死というものがただただ恐ろしいものだと思うのかもしれません。ただ、少なくとも生の終わりが死であるのであれば、死というものは生にはなくてはならないものだとは思いませんか?生きるという事は死から遠ざかる事ではなくて、死にまっすぐ向かっていく事だとは思いませんか?
逆の状況を考えてみてください。
我々に寿命がなくなって永遠に生きる事ができるようになってしまったときに、自分は今の自分のままでいられるのかと想像をしてみてください。私が知っている話だと、銀河鉄道999なんかですが、機械の体を手に入れて永遠に生きるようになった人たちは生きる意味を見失ってしまっていました。
ただ、死ななくなるなんてとても素晴らしいと考えてしまう人の方が多いでしょうか。
単純に不老不死と思われる生物は実際に存在しています。でも、そういう生物って性がなかったり、人間なんかと比べてもっと原始的な生き物です。性を捨てて、人間を辞めて、そういう生物となるという事と、機械の体を手に入れる事に差はないのじゃないでしょうか。星野哲朗の母親は、機械化した人間に殺されて剥製にされていました。そのような行為に問題意識を感じる事ができなくなる、それが不老不死になるという事だと私は思いますね。
それで、最初の質問に帰ってみましょう。
「死なないようするという事と、生きるという事は同じ事を意味しているか?」
私にはまったく違う事を意味していると思われます。
この疑問は、
「人は死んでいなければ生きているといっていいのか?」
と言い換える事ができます。
簡単に例をあげるなら寝たきりの老人です。
そのような状態になった人のなかには、自分の力で着替えも、食事もできないどころか、トレイもできない、自分で物事をちゃんと考えられているかも怪しいなんていう人いるわけです。この状態ではおそらくですが幸せを感じる事ができない状態になっているとは思いませんか?
生きるという定義を考え直してみてはいかがでしょうか?
お医者さんって、寝たきりにしてしまう事を良しとするのです。とにかく心臓がとまらないようにすることに全力で、あとのことは一切考えていないのですからね。介護をする人間の負担なんか一切考えていないといっていいでしょう。まぁ、彼らにとっては、
「生きてさえいればきっと良いことはあるし、死んだらすべておしまい。」
だからです。
でも、それを受け入れるかどうかは1回よく考えたほうがいいのじゃないでしょうかね。
単純に考えてみてください。
心臓がとまらないように必死になって、そのいきつく先が寝たきりだったり、介護が必要な状態になるというのは面白くないのではないですか?整体にこられた人に聞いたら、全員がそんな状態になるのは嫌だといいます。
そこで、私は、
「幸せを感じる事ができる状態を生きているとする。」
なんていうのを提案しています。
ここから先は私の印象とか感想の話になってしまいますけどね。
心臓をとめない、動かす事を優先させすぎると大事なモノをなくしてしまっています。それは何かというと、
「幸せを感じる力。」
です。
こちらの動画でちょっと寿命について話をしているのでご覧になってもらうといいでしょう。
「人間という生き物は一生に消費できるエネルギーは決まっている。」
という事です。
この事は、
「人間という生き物は一生に感じることのできる幸せの量は決まっている。」
という事とも言えます。
この事を踏まえて考えると、死なないようにするという事が何を意味しているか?
「幸せを感じる事をできないようにしている。」
という事です。
寝たきりになるというのは、医学が定義する生存という状態をもっとも長期間維持できる状態です。最低限度の栄養だけ摂取して、ひたすら体を安静にしているわけですからね。
この事は薬の副作用なんかで体をおかしくしてしまった人たちを見ていると手の感覚でも確認はできますけどね。幸せというのは心臓の動きそのもので、心臓の動き悪くなったり、弱まったりしていると幸せを感じる事ができなくなってしまう訳です。そういう人たちに、
「ストレスだ、心の問題だ!」
「ADHDだ。」
とかいろいろ好き勝手な事をいっている印象です。
私は、亡くなるときには、
「ありがとう。そして、さよなら。」
シンプルにそんな言葉を残していけたらいいと考えています。
ひたすら死なないように努力したときに、この目標は達成できるでしょうか?医師に体をあずけてしまうと、ひたすら心臓を動かす努力を続けられる訳ですから怪しいと言わざるを得ません。
まぁ、私自身はまだ死にそうな気配はありませんが、もう人生の折り返しは回ったように思いますからぼちぼち亡くなる時の準備をはじめているつもりです。
早ければ10年も生きていないような気もしますし、下手をするともっと長生きしていしまいそうな気もしています。何を残して死んでいくのがいいかと、そんな事を日々考えているわけです。なにしろ、死ぬ準備ってのは元気でなければできませんからね。
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