ブログ「日々整体」

整体師が音楽家に口出しする話

整体という仕事ですが、音楽に関わる人に偉そうに口を出す機会が増えてきます。
私が音楽に詳しいかというと全く知りません。楽器の演奏はできませんし、歌は歌えなくはないですが音痴ではない程度でカラオケで気持ちよくなれるぐらいでしょうか。


でも、偉そうに口をだすと案外受け入れられる事が多いのです。
そして、口出しした内容を実践してみたら本当に演奏がよくなったなんて言われることがあります。なんで音楽の経験のない私のアドバイスが適切なことがあるかというと、歌とか演奏というのは、効率的に体を使えたときによい演奏ができるからでしょう。

もうちょっと付け足すなら、よい音がでていれば体を痛めて壊すこともありません。
楽器というのは体を効率的に使えた時にもっともよい音がでるはずです。楽器なんて、何百年も前に形が完成しているわけで、それがどういう事を意味しているかと考えみてください。だから、演奏していて体を壊すという事は演奏技術に難があると言えます。簡単にいうなら余計な力が入っている演奏を長くやっていれば体を痛めてしまうわけです。

余談ですが、ピアノで腕や指を痛めた人が集まる演奏会なるものがあると最近聞きました。
そこへ参加している人たちには気の毒な物言いになりますが、演奏技術に難があるからそういう状態になっていることは明白だと思えます。いずれそういう方の体の状態をみることもあるでしょうから、その確認の機会待ちですけどね。

書いていて思い出しましたが、数年前までこられていた人に難聴になって片耳が聞こえないというピアニストがいました。当時はどうしてあげればいいかかわかりませんでしたが、いまならちゃんと解決してあげることができるかもしれません。


話を元に戻します。


体を上手に使うにはこうするのがいいといのが私なりにあるわけです。
それになぞって考えると、演奏をするときには手をこうやって使うし、足はこういう状態で立つし、座る時の姿勢で大事なポイントはこうだとか、のどはこうやって使うはずだよということがを説明できるわけです。

体の調子を悪くしてやってきた音楽家の人たちに、


「たぶん演奏の時にはこういう体の使い方をしていてそれで体を壊しているはず。」
「演奏が上手になれば体はよくなってくるから、こういう事を意識して演奏してみて。」


なんてアドバイスをして、それがうまくはまったとき私は最もほっとしますね。
関わった方がよい音を出せるようになって嬉しいという気持ちがないわけでもないですが、おそらく私が考えていること、やっていることが間違いではなかったということが確認できるからでしょう。

私は自分のやっていることに自信をもって取り組んではいますが、私が間違えていると関わった人の人生を台無しにしてしまう可能性があります。
だから、


「本当に自分は間違えていないのか?」


私のような人間でも、こういう不安を日々抱えているみたいですね。
どうもこんなことでもなければ私はなかなか安心するということができないようです。これは自分でもちょっと驚く心の動きだったりします。おそらく、あまりにも大きな世間と自分のずれの事を思うとこういう感情を抱えないでいることはなかなか難しいのでしょう。


スポーツなんかでもうんちくはいくらでも語れますけどね。
ただ、スポーツをやっている人は筋肉を崇拝すること神のごとしなのでたいてい聞く耳がありません。運動ばかりやって頭の悪い人の事を脳みそ筋肉、略して脳筋なんていいますが、スポーツの世界は脳筋の人が圧倒的に多いようです。芸術関連の方が視野が広く柔軟性をもった人が多いようで、話が予想以上に会話が盛り上がったりすることがありますかね。


さしあたって、毎日チョコレート食べなきゃやってられないみたいな体の状態になっていればよい音は出せなくなっていると思っていいでしょう。ただ、演奏の面白いところは実力ある指揮者がいたりすると奏者の実力以上の演奏ができてしまったりするところがあるということでしょうか。このあたりの事についてもちょっと語ってみたい気もしますが、それは整体の領域を超えているような気もしますから今は辞めておくのが無難ですかね。
関連カテゴリー< ブログ

有料の記事をはじめます。

学生の頃、印象に残った言葉でなにかあるかなぁと振り返ってみると、思い出したのは、


「この味がいいねといったから6月7日はサラダ記念日。」


という俵万智の俳句です。
日付は、違うかもしれませんが6とか7とか17とかそんな数字がはいっていたんじゃないでしょうか?調べればすぐにでてくるのでしょうけど、ここはあえて曖昧なままにしておきましょう。全然違う、間違えてやがるとバカにしてもらって全然構いません。俳句の韻はなんとなく踏んでいるけど、五七五の俳句のルールは完全に破ってしまっていますよね。でも、私はこれは新しい表現だなぁとそんな風に感じたわけです。


言葉というのは、どう伝わるかが大切で、内容が正確である必要はないと考えています。
仕事だったり、状況だったりで正確さが重視されるケースというのはありますけどね。正確さを重視する職業だと役人なんかがそうですかね。ただ、お役人ってのは正確さを重視するあまりてにをはをいじって正確に伝わらないようにする技術に長けてしまっているという印象であまりいい感情をもっていません。法律やら憲法の条文なんかわけわからんのが多いですよね。

書いていて気が付きましたが、医療なんかも正確さが要求されますね。
私に会って話をしたことがなくても、私が医療にどういう印象をもっているかというのを感じ取っている人もいるでしょう。たぶん、言葉の正確さを重視する人とは私は根本的に合わないのでしょう。


実は、整体というのは正確さを必要としない、かえって邪魔な仕事だったりします。
私にとっては病院の検査の結果なぞどうでもいいのです。手で体に触れた感触で、その人が元気に生活する力があるかどうかを判断します。ですから、医者にOKもらっていても私がみるとダメダメだったりすることは少なくありません。だから、


「人間はいつか必ず死ぬのだから、それまで精一杯生きるのが元気になるコツだよ。」


ということをいいます。
精一杯というのがどういうものかは、人それぞれなんじゃないでしょうかね。でも、手抜きして元気に生活したいという人、そして手抜きした生き方を推奨する人が口にだすセリフが、


「自律神経の働きが悪い。」


というものだったりします。
私はいつも思うわけです、めまいが、耳なりがつらいのでなんとかなりませんか?とストレートに聞いてくれりゃいいのに、なんで、


「私は自律神経が悪いのです。」


みたいな小賢しい物言いをしたがるのでしょかね?




で、ここからが本題です。


有料で読める記事を作ろうと思います。
実は、昨年末ぐらいから、このままじゃ駄目だなぁと、そんな事を考えて準備をしていました。ずいぶん前からこのブログが書きにくくなっていたのです。使ってはいけない言葉が増えてきていたり、医学的な根拠がないものについてどうこういうのは駄目だみたいな世の中になってしまっています。医療が万能ですべての人の助けになっているのであればそれでいいのですけどね。

ところが、私が関わる場合はお医者さんではどうにもならないものをどうにかしましょうみたいな事が大半なのです。ですから、あまりストレートな書き方をしたものを誰にでも見れるようにしておくというのは具合が悪いのです。サイトを作るときには、あれこれ細かいことに注意していないとどこから苦情がくるかわからないわけですよ。そこで、突っ込んだとか、わりとストレートに書いてあるような内容は、印刷して配布してはいたのですけどね。

ちなみに、最近つづいたオカルトチックな記事は、元々は印刷するために書いた記事で、もとの原稿からちょっと表現を柔らかめにしたものだったりしますね。


最近の相談として多いのは、やはり耳鳴り、めまいです。


「死ぬわけではないから、気にせずに前向きに生きてください。」


なんて言われてもそんなことができる人はほとんどいないのですよ。
できると思う人間は頭がおかしいのじゃないかと思いますね。そこで、そういう人たちに、こういう考え方でこのようなやり方で取り組めばなんとかなりますよという情報を、私はちゃんとその人が手を伸ばせば届くところにおいておきたいのです。


なんでそんなことを考えるのかというと、私にはどうしても治せるようになりたい病気があります。
先人、先輩たちの話を聞いたり、文献を紐解いたりすると、どうもその病気の治し方というのは何十年か前には確立されていたようです。ところが、その情報が今現在にはどこにも残っていないのです。もしかしたら、知っているのに黙っている人がいるということなのかもしれません。それが私には許せないのです。最近になって、やっとこれならば・・・、と思えるところまでたどりついたのですけど、ここまで来るのに3年もかかってしまいました。

でも、この3年間、ずっと


「なんで残してないっ!なんで苦しんでいる人がいるのにその情報がその人のもとに届かないのだ!」


そういう怒り、もしかしたら憎悪みたいなものが私の中にはずっとありました。
はっきり言って逆恨みですが、私は愚かでくだらない人間ですから、気に入らないものはどうしたって気に入らないし、腹がたつものは腹が立ちます。だから、私はそういう嫌いで嫌なやつにはなりたくないと、そんなことを思うわけです。


で、どういう形にするかは別としていずれやりたい事として頭の中にあったのです。
ただ、一番の問題としてあげられるのが、私の技術と知識の不足だったりするので二の足を踏んでいました。ただ、そろそろ書いていけるかもしれないとちょっと思えるようになってきたのでしょう。


問い合わせで意外に多いのが北海道だったりします。
だから、北海道の人で私に会いに来ることができない人でも読んでもらえれば体を変えるきっかけになるようなものでなければならない。そういう内容のものにするつもりです。


今月末ぐらいには、サイトの改修が終わってぼちぼちスタートできる予定です。
費用ですが、横着した生き方をしようという人にはバカ高いですが、体のことで困っている、悩んでいるという人にとっては問題ない程度に設定するつもりです。

まぁ、こんなモノを作ってしまうと、私が書きたいことを書きたいように書くためだけのモノ、単なる誰かさんたちの悪口になってしまう可能性が高いですから、そこらあたりは十分注意して書いていこうと考えています。
関連カテゴリー< ブログ

マスクに感じる違和感

当時としては、まっとうな事でも後になってみると馬鹿な事をやっていたなぁと思われる事があります。
医療で言えば、戦後ある特定の病気の特効として開発された薬が、年数が経過すると毛がはえる薬としてしか利用されなくなったなんて話を聞いたことがあります。


ただ、医療の話は今回はおいておいて、歴史にちょっと触れてみたいと思います。
蘇我入鹿を暗殺して大化の改新の立役者になった藤原鎌足を知らない人はいない事でしょう。暗殺の時には、中臣性を名乗っていましたが、後に藤原に性を変え、その後、日本の歴史ではどんな時代でもでてくる藤原家を起こした人でもあるようです。遣唐使として儒学を学んだ人に師事して、秀才とうたわれる非常に優秀な人だったそうですね。

藤原鎌足の墓は大阪の高槻市にあります。
私は高槻の生まれでしたので小学生の頃から山の上に遺跡があるのは知っていました。ただ、発見だけされて発掘はまだという状態の遺跡でした。発掘が始まったときはたしか高校生で、この墓はどうやら藤原鎌足の墓らしいとかなり大きな報道になっていましたのが記憶に残っています。

藤原鎌足ですが、遺体を調査したところ髪の毛からヒ素が検出されたそうです。
ヒ素はいわゆる毒です。で、どうも藤原鎌足の死因はヒ素を飲んだ事による衰弱死らしいと、当時そういう風に報道されていました。その後、違った情報は聞いたことがありませんから、今でもその見解は変わっていないのでしょう。ヒ素を摂取した理由ですが、不老長寿の薬として飲んだものに含まれていたのだろうということです。当時は、不老不死の薬なんてものを権力者に売って金銭を得るような輩がいたわけですね。


不老不死というワードで私が連想するのは秦の始皇帝です。
秦の始皇帝は暴君として扱われる事の多い人物です。しかし、中国の歴史上で誰もなしえなかった中華統一を初めて達成した人物です。当然ですが、その部下にも優秀な人たちがたくさんいます。実は、私にもっとも強い影響を与えている歴史上の人物は始皇帝の宰相を務めた李斯という人だったりします。

李斯は、始皇帝に、


「大事業をなすものは、広い心を持ち、他人の意見をよく取り入れなければなりません。泰山が大きいのは土を選り好みしたりしないからで、長江が豊かな水量を蓄えているのは流れてくる水をすべて受けて入れているからだ。」


なんていう意見をした人です。
始皇帝はこの意見を受け入れて外国人である李斯やほかの優秀な人たちに重要な仕事を任せて中華統一を達成しました。愚かな暴君と宰相として描かれている事が多い始皇帝と李斯ですが、この一事だけみても非凡な人たちだっというのがわかるんじゃないでしょうかね。

で、始皇帝ですが中華統一後、詐欺師に騙されています。
海の向こうにある仙人の国にいって不老不死の薬を取ってくるといわれて、船、金、女、ほか様々な貢ぎ物を差し出してしまったのです。何年たっても返ってこない、詐欺師に始皇帝は何を思ったでしょうね。

ちなみに、この詐欺師ですが日本にやってきて奈良あたりに国を作ったなんて言われています。実際に、それらしい遺跡も残っているらしいです。その子孫が藤原鎌足だったりしたら笑えないジョークなんですけどね。

不老不死を追い求める気持ちというのは当時であれば不自然な事ではなかったのでしょう。藤原鎌足や始皇帝といった優秀で偉業を成し遂げた人たちですらそこに違和感は感じていなかったのではないかと思われます。


聖徳太子が仏教を取り入れるのは大化の改新より前ですけどね。
小学校じゃ、仏教をとりれた理由なんていうのは一切説明されませんでした。おそらく権力をもった人たちの規範となる考え方というのか必要だったんじゃないかなぁと。でも、藤原鎌足の死因なんかをみてみると諸行無常が定着するのはまだまだもうちょっと先の事になるということなのでしょうかね。

さて、今の時代に生きる私たちからみると不老不死を求めた始皇帝や藤原鎌足は馬鹿な事を考えていたと言えます。しかし、彼らは非常に優秀な人たちでした。毛生え薬しかり、振り返って考えると愚かな事であっても、その当時の感覚だと常識だったり当然の考えだったりする事があるわけです。


で、今現在の社会で行われている事で馬鹿な事をやっているなぁと思うことがいくつもありますが、その際たるものが、


「マスクによる感染予防」


です。

私の感覚からすると、マスクによる風邪の予防は非常におかしな考えと行動です。
このことを説明するのに、


「家の中を無菌にして生活していれば健康で元気に暮らせる体になるのですか?」


と、いつもこのような質問をします。
たいていの方はこの質問をすると気がつくようです。そんな暮らしをしていればどうなるか、答えは簡単で、


「外出した瞬間に病気になるようになる。」


という事です。


健康であるということはどういう事かを考えてみてください。
健康であるということは丈夫であるという事です。家の中を無菌状態にして生活していれば、菌に対抗することができない体になります。家の中に引きこもって外出できない体になって、


「でも、私は病気はしていないから健康だ。」


こんな事をいっている人がいたらどう思いますかね?


子育てで考えてもわかりやすいですかね。
子供を過保護にしすぎれば貧弱、虚弱な人間として育つだけです。世の中には楽しい事や嬉しい事はいくらでもあります。でも、それ以上に辛いこと、悲しいこともたくさんあります。自分の子供には辛い思いを一切させたくない、楽しい思いだけ感じて育ってほしいなんていう子育てをやっていれば人の気持ちがわからない人間になるだけのことです。他人との関わり合い方や距離感なんてのは、生活してゆく中で喜怒哀楽を感じながら身につけてゆくものではないでしょうか。だから、子育てに必要なのは守ってあげる事ではなく支えてあげることなんじゃないでしょうかね。

そういえば昨年どうしても耳鳴りが止まらないという人がいました
ずっとおかしいなぁと考えていたのですが、原因に気がつくのに1年近くかかってしまいました。しかし、唐突に思いついて、


「あほみたいにうがいをしていませんか?」


と質問してみました。
すると、正解だったようです。うがいだってやらずにすむ体が丈夫だという事です。のどだって過保護にしてしまうと弱ります。喉は弱いけど体はばっちりですなんていうのも当然ありえませんかあら、耳鳴りだって止まらなくなってしまいます。


マスクをして生活していれば、マスクなしでは生きていけない体になります。
そんな体で、


「私はマスクをしていれば健康でいられる。」


なんて考えているのです。
私には不老不死を追い求めた藤原鎌足や始皇帝の姿が浮かんできますね。きっと頭がいいからこんな勘違いをしてしまうということなのでしょう。


まぁ、この考えが妥当なものかは、後世の歴史家たちに委ねる事にしましょう。
始皇帝、李斯、そして藤原鎌足は自分の生き方を恥じるような事はなかったと思います。後生の人たちに何をいわれようが、私は私の生き方を全うするだけですかね。マスクを利用したければすればいいでしょう。しかし、マスクをするということの意味をちょっとは考えてみてもいいんじゃないでしょうかね。


関連カテゴリー< ブログ耳鳴り(耳なり)

整体をする上での共通認識

品川で整体に来られている方にある本をいただきました。
曰く、


「読んでみたけど2~3割程度しか頭に入ってこなかった。」


との事でした。
そこで、私が読んだらちゃんと理解できるのかと、そんな事を考えたのだそうです。それじゃあということで本を受け取って感想文を書くことにしました。ところが、頂いてもう数ヶ月が経過しているのですがいまだに感想文を書くことができずにいます。一応、これまで4回ほど書いてみようとはしたんですが、書き始めたら全部途中で違うテーマになってしまったのです。このままではいかんという思いはずっとあったのですが、この本の事をどう紹介すればいいかについてずっと迷い続けていたのです。


本の内容ですが、私にとってはほとんど当たり前の事でした。


「それは知らなかった!」


みたいな事は皆無といっていいかもしれません。
でも、その当たり前の事が書いてある事が私にとっては心地よいです。読み進めていくと、


「そうそう、世間のやつらは何もわかっちゃいないんだよね。」


こういう共感が生まれてくるからです。
まぁ、これだと世間を見下してちょっといい気分になれるというだけのことで、あまりよい心地よさではありませんし、そんなことで悦に浸っているのはくだらないことではあります。


わかりやすそうな部分をちょっと紹介してみましょう。
この本の内容は運動についての著名な研究家とスポーツトレーナーの対談です。で、その中で筋力についての考え方に触れる部分があります。スポーツトレーナの方は、指導をしていくなかで、


「筋肉は不要、筋トレはやらない。」


という事を説明していくのですが、この考え方はほとんどの人に理解されないそうです。この傾向は指導者の立場にある人などは特に顕著なようですね。で、筋道立てて説明をしていくのですが、


「それでも最低筋力っていうのは必要でしょ?」


という反論が必ず返ってくるそうです。
で、私ならそういう質問が飛んできたら、


そんなもん立って歩くことができる程度の筋力があれば問題ない。


という具合に返事するはずですが、このトレーナーも全く同じ返事をしていました。
ちょっと前に日本人が100mで10秒切ったそうですけど、その選手にはこの対談の人たちがコーチ役として存在していたりします。筋力が必要だとか考えていると走るスピードがでなくなってくるのです。


理想的な体の動きを追求してゆくと、


「筋力を使うな!」


という結論に達します。
私にしたら当たり前というか常識以前の問題です。トップアスリートたちはまれにそういう発言をしているのをみかけますけどね。そういう非常に大事な事をほぼすべての人が無視したり、聞き流してしまっています。さっきもいったようにコーチやトレーナをやっている人たちほどこの傾向が顕著ですから、多くの才能が潰されてきているのだろうと思われます。


ただ、ほとんどの人は体は筋力で動かしているものと信じ込んでいます。
だから、筋力を使うなと言われたらどうやって体を動かしたらいいのかわからなくなってしまいます。頭のいい人達は体のどこかが痛くなったら、


「筋力が足りないからだ。」


なんていますから余計にそうなるのでしょうけどね。
こんなことを言われたら、その人がトレーナーやコーチになったときに選手にオリンピックで金メダルをとらせることができるか?それができないにしても日本一の選手にできるかぐらいは考えてみてもいいんじゃないでしょうかね。たいていは、運動にたいして詳しくないのに、したり顔で語っているはずです。


まぁ、厳密にいうなら筋力はまったく使っていないわけではなく屈筋を使うのではなく、伸筋を使うんですよとか、筋肉は単体で使うものではなく、連携して使うものなんですよとかそういう話になってくるんですけどね。

もうちょっと砕いてみましょうか。

野球のピッチャーがボールを投げる運動を思い描いてください。
ピッチャーが足を怪我したとします。でも、ボールは手、腕で投げるものですから、


「足の怪我なんて関係なくボールを投げれるはずだ。」


なんてことをいっているコーチがいたらどう思うでしょうか。筋力を高めて体を動かすというのは、実はこういう発想に近いんですけどね。


さぁて、ここまで言い出すとほとんどの人はついてこれないんじゃないでしょうかね。
2~3割ぐらいしか頭に入ってこなかったなんていうのはおそらくこういうことだと思われます。残念ながら、今の世の中では、人の体の動き、運動についてたいして知りもしないし、知ろうともしないで多くの人が知ったつもりになっています。ネットで勉強したとか、調べてみたとかそういう人ほど重症だったりしますかね。


ちなみに、この辺りの話ですが、演劇や音楽に関わっている人たちには割合さらっと通じたりします。
運動についての話なのに、なんでそういう分野の人は理解できるのか?なにか私が、考え違いをしているに違いないとほとんどの人がそう思うのじゃないでしょかね。


「だから、体を痛めたり、壊したりするんだ。」


そういうことなんですけどね。
本は以下にリンクを貼っておきますので、考え違いに気づくきっかけが欲しい人は読んで見ればいいんじゃないでしょうかね。




関連カテゴリー< ブログ

無意識に骨を折るという話

最近、電車に乗ると右足を怪我をするイメージが頭に浮かんできます。
電車ならすべてそうなるわけではなく、阪急電車限定です。揺れ方がそうさせるのか、はたまた違う何かが私にそれを連想させるのか、そのあたりのことについて考えてみました。


以前はもっとひどいイメージでした。
阪急電車に乗ると、床にいきなり丸く穴があいてそこから落ちるという映像が頭の中にに浮かんでいたのです。そんな事が実際に起これば、間違いなく死んでしまいますから、いやだなぁ、怖いなぁと、


「死ぬまでにやりたい事がおぼろげに見えてきて、死ぬのが怖くなってきたのかなぁ。」


なんて考えていましたが、どうも違うようです。
おそらくではありますが、偏り疲労というものがあるからです。実は、私が整体をする際の体の使い方というのはかなりひどいものでしてね。変な疲れを残したり、あちこち痛くなったりする事など珍しくもありません。


「体の使い方=技術レベル」と言えます。
私が自分をたまに卑下しているのをあれこれいってくれる人がいてありがたいのですけどね。自分の技術、体の使い方がかなりダメなことについては自分でわかっているというか、わからされてしまっています。


私が満足できるレベルはどんなものかというと、


「目の前に人がいたとして、その人が気がついた時にはもう死んでました。


という事ができるようになったら、我が一生に一遍の悔いなしみたいな事を言って死んでいけるでしょう。こういう事が実際にできる人に数名会った事があって、実際にその技を体験してみたわけですが、今のところ、そのレベルは遙か彼方で、死ぬまでにそこに到達できるような気が全くしていません。


この事を踏まえておいて、話を変えます。


足の骨を折ったとか、以前に折っていましたという人の体を観ると折るべくして折っていると感じることがあります。折ったところに体のひずみというか負荷が集中しているのです。ただ、負荷が集中してその疲労で折ったというわけではありません。スキーで転んだとか、交通事故だとかが直接の原因ではあります。

でも、折れたところは負荷が集中しているところなのです。
これはどういう事かというと、


「負荷が集中して体に対しての負担が大きくなりすぎている。そして、その負荷を分散するためにスキーで転んだり、車で交通事故を起こす。」


という事です。


怪我の仕方は、

 ・タンスの角に小指をぶつける
 ・階段を踏み外す
 ・熱いやかんを落とす
 ・何かが落ちてくる工事現場向かう
 ・車を運転していて信号無視をする

などなど、ほかにもいろいろあるでしょう。


「そんな自らの意思で怪我をすることがない。」


と思うかもしれません。
しかし、怪我をしたあとの状態をみると、怪我をするべくしている怪我、無意識にここを怪我するような行動をしていたと思える怪我をしている人は珍しくない程度にはみかけます。


さらにすすめて、私の頭にに浮かんでくるイメージについて考えます。
電車に飛び込む人って衝動的に駅のホームから飛び降りるそうですけど、私が感じてたイメージをもっと強烈に感じてしまったのだろうと思われます。

私はイメージの中では右足に一番大きな怪我をします。
右足のスネに偏り疲労があって、それを解消するために右足を怪我したいという欲求が無意識にでてきてしまうわけです。電車から落ちてほぼ命がないイメージの中で、右足がどうとかいうのはおかしなことではありますけどね。偏り疲労があるレベルを超えるとイメージが飛躍するのだと思われます。


で、いつものことではありますが、自分の体の問題にがあるというわけで、それを解消するべく取り組んでいました。
すると阪急電車に乗っても突然穴が開いて落ちる事はなくなりましたが、未だに右足を怪我するイメージが残っています。こういう時にスキーに行くと木に向かって滑ってゆくし、車を運転するとスピードを出しすぎるし、切れ味鋭い包丁を持ったりすると誰かを刺してみたくなったりするわけです。私の日々の行動を振り返って考てみると、通勤で原付に乗っているのですがこのままほっておくと事故を起こして右足を怪我する可能性が高いのでしょうね。


余談ですけど、よく当たる占い師なんていうのはこういうのを私とは違った方法で観たり、感じたりすることができるのです。占いで事故に注意だと言われたら、本当に事故にあったなんていう話はいくらでも聞いたことがあるでしょう。占ってもらったせいでその占いの通りの行動を無意識にとるなんていう説もあったりしますが、実力のある占い師であれば私とはまた違った見方で占う相手のことが見えているであろうと思われます。

さらに余談ですが、最近話題のメンタリストを自称している人は、まがい物であろうという気はしています、ちょっと前に話題になっていた井原さんでしたっけ?彼なんかはたぶんそういうのがみれてるんじゃないかなぁと思ったりもします。まぁ、私は彼らのことをほとんど知らず、漏れ聞く情報だけでそうじゃないかなぁと感じているだけの話ですけどね。


まぁ、トラブルや不運というものは偶然で片付けられがちでしょうけどね。
そういった出来事に必然性があると考えれば、体にはその兆候は必ず現れていると私は考えます。


「この人危ないなぁ。」


と思ったら本当に事故を起こした事もありますしね。



まぁ、そんなわけで、私自身が怪我をしたり、凶行に及ぶのはちょっと世間体が悪いですから、なんとかしなくてはいけないなぁと考えていたりします。まぁ、この手の問題は自覚さえしていれば実際に起こることはほぼないはずなんですけどね。


書いている途中で、手塚治虫の漫画で事故を起こして寿司職人に大怪我をさせたトラック運転手が、


「魔が差した。」


といっていたのを思い出しました。
魔が差したなんていうのは、体に偏り疲労があって普段では考えられない思考や行動をしたときの様子を表現しているといえば非常にしっくりきますかね。


関連カテゴリー< ブログ
1234567891011
品川での整体指導予約受付中

RSS
自律神経整体院

京都府長岡京市天神1丁目1-56
ながおかスタジオビル2F
(阪急長岡天神駅から徒歩1分)


075-954-0036