ブログ「日々整体」

断と生命:整体師から見た斬首の謎

江戸時代には、打ち首という処刑がありました。ほぼ全ての人が知っているでしょうが、あえて説明を加えておくと、人の首を切り落とす処刑方法です。

実は、この処刑を行うには達人といっていいほどの技量が必要です。

「刀を振り回せば、首なんて簡単に切れるだろう。」

と思う人もいるかもしれません。
しかし、頸椎3番と4番の間に正確に刃を当てないとうまく刀が通らないそうです。骨に当たると刃がはじかれますし、おそらく刃こぼれもしてしまうことでしょう。技量のない人間が斬首をしようとしても、うまく首を切り落とせず、相手を苦しめ、刀もダメにしてしまうのです。また、達人と呼ばれるような人でも失敗することがあったそうで、切り落とす動作は3回までと決められていたそうです。

打ち首をするのは特殊な地位の人間だったそうです。
繰り返しますが、刀の扱いに相当長けていなければいけません。ですから、処刑人としての役割を請け負うためだけに武芸の技を高める一族があったそうです。どれぐらいの人間が斬首を行っていたのかはわかりませんが、それほど多いとも思えませんからほんの一握りの人間が日本中の斬首を請け負っていたのかもしれません。ちなみに、私は歴史の勉強をしていて、そういう人がいたとういことを知りました。ちなみに、とんでもない高給取りだったそうですが、その収入の大半を首を落とした人の供養のために使っていたそうです。

そんなことを知ったときに、ふと、

「首が切断されるのはどのような感覚なのだろうか?」

ということを疑問に思いました。

首が落ちてもほんのちょっとの間は意識があって、その時に目を開いていたら目が見えていたりするのでしょうか。そして、その間には痛みや苦しみを感じるものなのでしょうか。

それとも首が落ちた瞬間に意識がなくなるのでしょうか。
すると、刀が頸椎に到達して、首の神経を切断した瞬間に意識や思考が断ち切られてしまうということになるのでしょうか。そう考えると刀が首にから頸椎に至るまでのほんの一瞬は痛みを感じるのかもしれません。

そこまで考えて、自分が整体師だったことを思い出します。
整体という技術を通じての理解で答えを考えてみます。すると、正解は後者だとはっきりとと言えます。どういうことかというと、頸椎を通る神経が切断された瞬間に人間は生命体ではなくなるからです。生命の中にはプラナリアのような体を切断しても生命であることを保っていられる生物も存在していますが、多細胞生物である人間では事情が異なります。

人間という生き物は複雑すぎるのです。
その複雑さを保っているためには幾つかの要素があって、その中の一つが頸椎の神経が健全に繋がった状態であるということです。手や足なら切断されても生存は可能ですが、頸椎が切断されると生存は不可能です。

昔の人もそういう事がわかっていたから、首を切断するという処刑方法を採用したのではないでしょうか。
斬首というのは、日本だけでなく、西洋でもギロチンによる処刑というのが実際に存在していました。科学的な知識ではなく、経験や直感から人の命を確実に奪う方法を理解していたのでしょう。
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体は繋がっている:頸椎と腰痛の不思議な関係

「頸椎の異常が影響していますね。」 

このような私の説明を聞いて不思議そうな顔をしていたのは腰痛で相談に来た方です。 頸椎の狂いのせいで腰痛が生じるというのは理解できない人がほとんどでしょう。ただ、体の繋がりをなんとなく感じている人などは、 

「繋がっているんですね。」

と言って納得する方もそれなりに存在しています。 

そういう方は、医師の説明に納得できずに整体師である私のところにこられるのでしょう。今回の方は、ご家族に無理矢理連れてこられた方だったので理解の及ばぬ範疇の話だったようです。

気の毒だと思うのは、腰が痛いから腰に問題があるはずだとしか考えられない医療を完全に信頼してしまっている人たちです。そういう人たちは、 

「整体師の考えなど信用できない。」

と考えることがほとんどですから、私などの言葉に耳を貸すことはないでしょう。
それでもそういう人の中には、医師の言うとおりに様々な治療を済ませた結果、どうにもならなくなってから相談にこられることがたまにあります。鎮痛剤が体の感覚に影響を与えていたりすると、その改善にはかなりの時間が必要になります。また、背骨にメスを入れてしまっているとどうしようもないことも多いので緩和する方向で対処を考えるしかない人もいます。

それにもかかわらず、

「やはり整体なんぞ信用できない。」 

と言い出す訳ですから、

「最初からこちらに来てくれていれば今頃は腰痛のことを気にすることなどなくなっているだろうに。」

と愚痴りたくなってしまいます。
結果、腰痛をとやかくいう人にはあまり関わりたくないなぁというのが私の本当の気持ちになっていたりします。 

そういえば、今、腰が痛いといって3ヶ月ほど通っている人がいます。 
かなり辛いようで、早く何とかならないかと私に催促してくるので、

「おそらく数年前から体がおかしかったはずですけど今までほったらかしにしていたんでしょ?そういう長年かけて悪化した体の問題が1~2ヶ月で治るはずがありません。どうししてもというのなら病院へ行って優しい先生に相談してください。」

と返事をしました。
どうやら3年ほど前から体の調子がおかしかったようで、いままで薬漬けになってしまっていたようです。その結果、不眠になってさらに腰痛が悪化となるわけですから、時間がかかるのは当たり前だと考えるべきです。私から見ると、随分と様子がよくなってきて、睡眠導入剤なしで眠れるようになってきているので、かなり回復が早いと感じます。

「余計なことをする前にまずはこっちに相談してくれませんか?」

と、つい言いたくなってしまうのでした。
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生きるとは何か:認知症の拡大と寿命の延長についての考察

認知症に対して整体師として意見を述べさせていただくと、認知症に対する治療や手当は根本的に間違っていると思います。2025年には5人に1人が認知症を発症する予測です。そして2060年には3人に1人が認知症を発症する見込みです。


認知症の人の推定人数・有病率の将来予測


このグラフは、生命保険文化センターというところが発表している認知症患者数と将来の予測をグラフにしたものです。棒グラフが認知症患者の人数で、折れ線グラフが認知症を発症する割合です。


一方で、こちらは厚労省が発表している平均余命と推移です。



この2つのグラフからのみで判断するのは早計です。

しかし、そんな悠長なことをいっている場合ではないということははっきりとわかります。女性は90歳、男性は84歳まで平均寿命が伸びる見込みです。2060年で80~90歳ということは現時点で45~55歳の人たちがそれにあたるのですが、実は私がちょうどこの年代です。


悪い方の予測を元に考えると、この世代が長生きした場合、30%の確率で認知症を発症するということです。そして、もし結婚していたら夫婦両方ともが認知症を発症していない確率は約44%です。数字がまろやかな予測を元に考えるにしてもその差は8%程度です。その差は、100人中33人が認知症になるか、25人が認知症になるかどうかの違いしかありませんから重要ではないといえるでしょう。


認知症を発症しないようにするノウハウというのは現在のところありません。また、カリフォルニア大学が発表している2050年までに達成される医学的な成果にも認知症の治療の成果はあがっていません。



自分が認知症になった時、


「家族、子供、親族が果たして自分を介護をする余力をもっているのか?」


と、考えてみてください。

ほとんどの人は、そんな余力はないだろうと思うのではないでしょうか。もし、そうであればこれはもう認知症と寿命についての認識を改めるべきではないでしょうか?


私は認知症について話をする時に、


「生きているとはどういうことかという定義を考え直す必要がある」


といつも話をしています。


私は生きているということはどういうことかというと、


「自分で考えて行動して、そして幸せを感じられる状態が人間が生きている状態である。」


と考えています。

そして、


「長生きすることに至上の価値を見出さない方がいい。死ぬまで精一杯生きることがもっとも幸せなことで、100歳まで生きたからといって100年分の幸せを享受できるとは限らない。」


と思うのです。

ところが、医療においては「心臓さえ動いていれば生きている。」という認識が根強く残っているように思います。そのため、私自身にも覚えがありますが、


「とりあえず心臓が止まるのを防いだから、あとはあなたの心の問題です。」


と言われてしまうことがよくあるように思います。

私の近所にも入院して帰ってきたら、認知症をかなり悪化させて完全な介護が必要な状態に陥っている人がいます。奥さんが世話をなさっていますが、ベッドの下などにへたり込んでしまったりすると、動かすことができず助けてほしいと頼まれることがしばしばあります。


昨年の出生数は80万人を下回っていました。

その世代が働き盛りの30代になったころの話になります。そのうちのどの程度の人がこのような老人介護の仕事に就いているのかデータをチェックするのは恐ろしいとはおもいませんか?ネットではすでに介護職の人手不足は深刻だという話をよく耳にするようになってきていますね。


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"自由意志"は本当に子供にとって最良の選択なのか?

ある日、よく知らない人間に批判されました。

息子の進路についての発言に対して、

「そんなことは親のあんたが決めることでなく、子供が自身の判断で決めることだろが。」

という指摘をされて、少し気分を害しました。
言われることは全くその通りのことなのですけど、

「そんなことはオタクに言われるまでもなくわかっている。」

と言い返したいところでしたが、黙ることにしました。
私は、自分自身が物事に対して他人とは異なった視点で見ていることが多いのです、だから、こういう意見に対してまともに返事をしてもコミュニケーションは成立しないことを知っています。私にとってこのような出来事は珍しくないのです。

自主性は単なるトレンドでしかない

自主性を大切に、子供の意思を尊重してという考えは単なるトレンドです。
このような考えは、大昔からあった人類の唯一絶対の正義ではなく、むしろつい最近になって生まれてきたものです。私の感覚からすると、ここ30~40年間で主流になってきたものですね。

この思想の変化のわかりやすい事例をあげるなら結婚がそうでしょう。
私の子供の頃は、見合いで結婚しましたという人を珍しくない程度に見かけた記憶があります。むしろ恋愛結婚したという人の方が珍しかったぐらいかもしれません。それが、恋愛をして本当に好きな人と結婚するのが幸福だという考えが主流になりました。我が家では、休日に「新婚さんいらっしゃい。」という新婚さんが登場してトークするテレビ番組をみるのが日常でしたから、この変化を生で実感したように思います。

内閣府が発表しているデータをみると

リンクはこちら

婚姻数は1973年をピークに右肩下がりの傾向が顕著です。
1990~2000年ごろに多少上向きがありますが、これはネットバブルと呼ばれる時期ではないでしょうか。なお、この表の意地悪なところは2019年までしか表示されていないところで、昨年の結婚数は50万件と、表示されている部分より大きく減少しています。

この減少の原因が、自身の主体性で婚姻するようになったことであると結論づけるのはちょっと短絡すぎでしょう。しかし、かつての日本では婚姻率が99%、ほぼ全員が結婚していたことを考えると少なくない影響があると考えるべきではないでしょうか。



こういうことを踏まえて、息子の進路についてすべて本人の考えと意思に任せてしまってよいのかというと違う、むしろダメだろうというのが私の考えです。自由意志による結婚が一般的になってしまった結果、未婚率が増えたのです。これを息子が成人した時の状況に置き換えると、自身で稼いで自立した生活を営むことができない、ということを意味するからです。

子供の自主性に完全に任せられない理由

ほかにも理由はいくつかあります。
そのなかで最も大きなものは、10年後の世界の様子が全く想像がつかないという一点です。

AIが実用化されていて、その能力が人間の知能を近々超えるかもしれません。
この地点をシンギュラリティポイントというのですけど、この言葉を聞いたことがある人も少なくないことでしょう。その場合、これまで高給取りであった頭脳労働者、つまりホワイトカラーが職を失う可能性が高いと言われています。実際、米ではその傾向がすでに表面化してきているという話も伝わってきています。

また、世界中で20から30代の若者は高齢者たちに搾取されているという意識が非常に強いようです。日本での健康保険や年金の扱いと同様のことが世界で起こっているというとわかりやすいでしょうか。

そのような意識が強い若者は、様々な名称で呼ばれています。
韓国ではMZ世代、中国ではタンピン、米国ではDoomer(ドゥーマー)、日本ではニートです。フランスでは、「犠牲にされた世代」と呼ばれ政治活動にまで発展したこともあります。

若者たちは搾取されていると感じているのです。
それ故に、将来に夢や希望が持てなくなっているのだと思います。おそらく大半の高齢者たちは悪意をもって若者に接してはいないでしょう。しかし、少なくない若者の現実は、毎月15~20万円程度の所得しか得られず、その所得が増える見込みが全く感じられない状態です。

先に述べた通り、大学で苦労して身につけた教養も役に立ちません。
その教養で取り組む仕事はAIにすでに奪われ始めているのです。少し前から奨学金を返済できなくて破産する若者のニュースを頻繁に聞くようになりました。奨学金の返済については、米国ではかなり深刻で、大統領選を左右する可能性もある問題として捉えられています。

このような世界の状況で、

「お前の好きなように生きていきなさい。」

というのはあまりにも無責任です。
未来に対して希望をもって、なにかに取り組むことができるようなガイドラインを示してあげなければいけないと思うのです。

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ストレスの正体:気持ちよく逃げるか、真面目に発散するか

「ストレスの発散が大事である。」


使い古されたセリフです。
しかし、この言葉はたいていの人は、都合のよい、あるいは便利な使い方でしか使っていない表現といえるでしょう。

具体的な例をあげると、

「1日1杯のビールは健康によい。」

といって毎晩のように晩酌をしている人にとって、飲酒はストレスの発散になっていないといえるのです。

一方で、先日、蒲田の駅前でギターを弾きながら歌を歌っている若者をみました。
私がこの人はストレスを解放しているなと感じました。彼は自分の歌を聞いてもらおうと一生懸命になっているように見えたのです。

毎晩のように晩酌をする人と、駅前で歌を歌っている若者の違いを説明するのは簡単です。
その行動がエネルギーの発散を行っているかを考えてみるのです。すると、酒を飲む人はアルコールを自分の体で分解することにエネルギーを消費しているだけで、真のストレス発散にはなっていないと言えます。体の中に溜め込んだフラストレーションをアルコールと一緒に分解しているのですから、この行動をストレス発散としてしまうのは不適切なのです。それに対して、歌う若者は歌に自分のエネルギーをのせて放出しているのです。そのエネルギーは、学校や社会に対する不満かもしれませんし、将来に対する夢や希望かもしれません。

さて、あることに気がついた人もいるかもしれません。
ストレスというものは、歌う若者にとってはエネルギーと呼んでよいものです。そのように考えると、発散するストレスは本来はエネルギーだということです。

「ストレスを溜め込んではいけない。」

というのはよく聞く言葉です。
しかし、発散することができるストレスは本当はエネルギーなのだからどんどん溜めてゆけばよいのです。このように考えると、ストレスの発散がどのようなものか明らかになります。
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