ブログ「日々整体」

1年前の私と今日の私:整体師としての進化

毎年のように年末に思うことは、

「1年前の自分はよく整体師を名乗っていられたな。」

ということです。

今年のこの思いはかなり強いものになっています。
このように考えるのは、私自身が進歩しているからですが、振り返って考えると1年前の自分は半端な知識、経験、そして技術で整体に取り組んでうまく成果をあげられなかったのです。そのことを思うと人前にでるのが本当に嫌になります。だから、もう仕事を辞めて、すべてを忘れて放浪の旅に出たくなるというのも毎年末の恒例行事のようなものです。

私はそこから転じて宮本武蔵のことをよく思い出します。

宮本武蔵は晩年、絵や書を描いたりしていました。
兵法を極めたので、絵や書はそれを応用して描いていたそうです。刀を使った兵法は、体の動きや運動として捉えると理解しやすいかもしれません。その運動を極めたのですから、刀を筆に持ち変えても同様に巧みに扱うのはかなり容易だったのでしょう。

現代の感覚だと、野球を極めたら他のこともなんでもできるようになるというようなものです。
だからこの表現に多くの人は違和感を感じるかもしれません。しかし、私の見る限りダルビッシュやイチローなら野球以外のこともこなせそうな気がします。運動を極めるとは、体の動かし方を極めるということを意味しています。だから、野球しかできない、あるいは、刀しか扱えないというのでは極めたとは言えないのです。

自らの技術を振り返ってみて思うことは、私自身はまだまだその領域には達していないのです。
結局、来年以降も、多分ですけど、死ぬまで毎年、

「1年前の自分はよく整体師を名乗っていられたな。」

と思い続けることになるのでしょう。

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時代遅れの思考:21世紀の日本における政治と教育の対応

某政党の政治を見ていて思ったことは、

「頭の中が昭和で止まっている。」

ということです。
この政党はきっと昔がよかったと思っているように思います。それで政策を昭和に戻したらかつての日本の繁栄が再びやってくると考えているのでしょう。万博にこだわるのはこういう考えが根本にあるのではないかと思えます。

このことを踏まえると、今、話題になっている政治資金集めのパーティの開催は、代わり映えのしない古いことをやっているようにも見えます。しかし、そのお金の動きは創意工夫があるのではないでしょうか。だからこそ、これまでは表にでることがなかったのかもしれません。ただ、残念なのは、酒樽の見栄えが良くなるように変えただけということのように思えます。当然、中の酒は昔と何も変わっていませんから、その味、つまり実態は何も変わっていないのでしょう。

もちろん、古くからあってそれでも現在にも通じる良いものはあります。
だから、それを現代風にアレンジするだけでよいという物も多く存在していることでしょう。ただ、政治というものに関してはこの考えは全く当てはまらないと思えます。その理由は非常に簡単なもので、時代の移り変わりによって、正しいこと、良いことというのは変化するからです。

例えば、80年前の価値観で現代の政治が行われたらいったいどのようなことになるでしょうか?当時の雑誌や新聞には、

「鬼畜米兵。」

なんていう言葉が踊っていました。
それで最近の新聞や報道を見ると、プーチンは悪、ハマスは殺戮者といった表現が見受けられます。もちろん、その表現は悪意や憎悪がストレートに文言として表現されている訳ではありません。しかし、結局は酒樽の見栄えが80年前に比べると少しきれいで立派に見えるだけで、中身はなんら変わっていないように感じられます。

傍から見るとこういうことは理解しやすいのです。
しかし、自らのことになると似たようなことをやっていることに気がつきます。私が最近、気がついたのは、

「今の日本社会において学校へ通う意味があるのだろうか。」

ということです。
少なくとも単純に勉強することが目的であれば学校という場所は、今日では非常に非効率的と言わざるを得ません。例えば、私は英語の勉強をはじめて1年以上が経過していますが、学習に必要な教材は書店や通販で十二分に用意することが可能です。そして、不足があってもYouTubeといった動画サービスにアクセスすることで補うことができます。そして、わからない部分があってもAIに相談することですぐに解決することができます。ご存じない方もいるかもしれませんが、AIの質問に対する解答は学校の教師よりも適切でさらに深い理解を得ることが可能です。また、スピーキングが必要であればオンラインレッスンでネイティブをはじめとする世界中の英語話者と直接コミュニケーションをとることも可能です。学校へいかないとできないことなど一つもないのです。

当然ですが、このような状態であるのは英語だけではありません。あらゆる学科、科目を学ぶ上で学校が不要になっています。ですから、何かを学ぶために学校へ行く必要は完全になくなっています。

友達をつくるため、コミュニケーションを学ぶため、集団生活を営めるようになるため学校は必要だという人もいるかもしれません。しかし、この目的のためにも学校は適切な環境を用意することができなくなっています。理由はいくつかあげれますが、その中でもっともわかりやすいものは登校拒否をしている子供の数です。今年の秋ごろの新聞記事では、29万人の学生が学校へ通えておらず増加傾向に歯止めがかからないと報じられていました。これは全小中学生の22%にあたる数になります。集団にうまくなじめない子供たちを排除してしまっている。教師たち、教育関係者の意図は別にあるかもしれませんが、学校は既に集団生活のコミュニケーションを学ぶ場としての機能も失っていると言い切ってしまってよいでしょう。


さて、現実がこのような状態であるにも関わらず私は、

「子供は学校へ通った方がよい。」

という考えを捨てられないでいます。
おそらく私が学生の頃、非常に楽しい時間を過ごしたという経験を持っているからでしょう。だから、息子にもそのような形で青春を謳歌してもらいたいと思ってしまうのではないかと思います。

この考えは、

「再び万博を開催して、あの頃の繁栄をもう一度!」

と考える政治家たちとなんら変わらない非常に愚かなものであると言わざるを得ません。このことに気がついて、私がするべきことが一つ思い当たりました。それは、

「新しいOSをインストールする。」

ということです。
ただ、困るのはどうやったらその新しいOSをインストールできるのかということです。もしかしたら、宇宙に行ってそこから地球を眺めてみるといいかもしれないと思うのですが、とある実業家が宇宙に行くのに1億円かかったとかいっていたのを思い出します。近所のスーパーで販売してくれていたら楽なんだけどなぁと、ぼやきたくなります。

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