ブログ「日々整体」

無意識に骨を折るという話

最近、電車に乗ると右足を怪我をするイメージが頭に浮かんできます。
電車ならすべてそうなるわけではなく、阪急電車限定です。揺れ方がそうさせるのか、はたまた違う何かが私にそれを連想させるのか、そのあたりのことについて考えてみました。


以前はもっとひどいイメージでした。
阪急電車に乗ると、床にいきなり丸く穴があいてそこから落ちるという映像が頭の中にに浮かんでいたのです。そんな事が実際に起これば、間違いなく死んでしまいますから、いやだなぁ、怖いなぁと、


「死ぬまでにやりたい事がおぼろげに見えてきて、死ぬのが怖くなってきたのかなぁ。」


なんて考えていましたが、どうも違うようです。
おそらくではありますが、偏り疲労というものがあるからです。実は、私が整体をする際の体の使い方というのはかなりひどいものでしてね。変な疲れを残したり、あちこち痛くなったりする事など珍しくもありません。


「体の使い方=技術レベル」と言えます。
私が自分をたまに卑下しているのをあれこれいってくれる人がいてありがたいのですけどね。自分の技術、体の使い方がかなりダメなことについては自分でわかっているというか、わからされてしまっています。


私が満足できるレベルはどんなものかというと、


「目の前に人がいたとして、その人が気がついた時にはもう死んでました。


という事ができるようになったら、我が一生に一遍の悔いなしみたいな事を言って死んでいけるでしょう。こういう事が実際にできる人に数名会った事があって、実際にその技を体験してみたわけですが、今のところ、そのレベルは遙か彼方で、死ぬまでにそこに到達できるような気が全くしていません。


この事を踏まえておいて、話を変えます。


足の骨を折ったとか、以前に折っていましたという人の体を観ると折るべくして折っていると感じることがあります。折ったところに体のひずみというか負荷が集中しているのです。ただ、負荷が集中してその疲労で折ったというわけではありません。スキーで転んだとか、交通事故だとかが直接の原因ではあります。

でも、折れたところは負荷が集中しているところなのです。
これはどういう事かというと、


「負荷が集中して体に対しての負担が大きくなりすぎている。そして、その負荷を分散するためにスキーで転んだり、車で交通事故を起こす。」


という事です。


怪我の仕方は、

 ・タンスの角に小指をぶつける
 ・階段を踏み外す
 ・熱いやかんを落とす
 ・何かが落ちてくる工事現場向かう
 ・車を運転していて信号無視をする

などなど、ほかにもいろいろあるでしょう。


「そんな自らの意思で怪我をすることがない。」


と思うかもしれません。
しかし、怪我をしたあとの状態をみると、怪我をするべくしている怪我、無意識にここを怪我するような行動をしていたと思える怪我をしている人は珍しくない程度にはみかけます。


さらにすすめて、私の頭にに浮かんでくるイメージについて考えます。
電車に飛び込む人って衝動的に駅のホームから飛び降りるそうですけど、私が感じてたイメージをもっと強烈に感じてしまったのだろうと思われます。

私はイメージの中では右足に一番大きな怪我をします。
右足のスネに偏り疲労があって、それを解消するために右足を怪我したいという欲求が無意識にでてきてしまうわけです。電車から落ちてほぼ命がないイメージの中で、右足がどうとかいうのはおかしなことではありますけどね。偏り疲労があるレベルを超えるとイメージが飛躍するのだと思われます。


で、いつものことではありますが、自分の体の問題にがあるというわけで、それを解消するべく取り組んでいました。
すると阪急電車に乗っても突然穴が開いて落ちる事はなくなりましたが、未だに右足を怪我するイメージが残っています。こういう時にスキーに行くと木に向かって滑ってゆくし、車を運転するとスピードを出しすぎるし、切れ味鋭い包丁を持ったりすると誰かを刺してみたくなったりするわけです。私の日々の行動を振り返って考てみると、通勤で原付に乗っているのですがこのままほっておくと事故を起こして右足を怪我する可能性が高いのでしょうね。


余談ですけど、よく当たる占い師なんていうのはこういうのを私とは違った方法で観たり、感じたりすることができるのです。占いで事故に注意だと言われたら、本当に事故にあったなんていう話はいくらでも聞いたことがあるでしょう。占ってもらったせいでその占いの通りの行動を無意識にとるなんていう説もあったりしますが、実力のある占い師であれば私とはまた違った見方で占う相手のことが見えているであろうと思われます。

さらに余談ですが、最近話題のメンタリストを自称している人は、まがい物であろうという気はしています、ちょっと前に話題になっていた井原さんでしたっけ?彼なんかはたぶんそういうのがみれてるんじゃないかなぁと思ったりもします。まぁ、私は彼らのことをほとんど知らず、漏れ聞く情報だけでそうじゃないかなぁと感じているだけの話ですけどね。


まぁ、トラブルや不運というものは偶然で片付けられがちでしょうけどね。
そういった出来事に必然性があると考えれば、体にはその兆候は必ず現れていると私は考えます。


「この人危ないなぁ。」


と思ったら本当に事故を起こした事もありますしね。



まぁ、そんなわけで、私自身が怪我をしたり、凶行に及ぶのはちょっと世間体が悪いですから、なんとかしなくてはいけないなぁと考えていたりします。まぁ、この手の問題は自覚さえしていれば実際に起こることはほぼないはずなんですけどね。


書いている途中で、手塚治虫の漫画で事故を起こして寿司職人に大怪我をさせたトラック運転手が、


「魔が差した。」


といっていたのを思い出しました。
魔が差したなんていうのは、体に偏り疲労があって普段では考えられない思考や行動をしたときの様子を表現しているといえば非常にしっくりきますかね。


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品川、日暮里での整体 2月受付け開始します

今日、初回の方が来たのですが、


「1回でよくなりますか?」


私の顔をみるなりこんな事を言ってきました。
私は、


「こういう人は来たらダメですよ。」


というか


「来んな!」


と、割とストレートにこのブログで延々と書いているつもりなんですけどね。この人の場合、来てみてたら思っていた以上に遠かったので継続して通うのが辛いと考えたのだとか。


私は体のことが後回しでいい人間を尊敬できないというか、軽蔑してしまいますからね。
で、つまんねぇ人が来たなぁと思っていたら、ある事にふと気が付きました。私は、実は体のしくみとか働きにはあまり興味がありません。実際に、そういう言葉を口に出したりもしていますから聞いたことのある人もいるでしょう。興味があればもっと熱心に勉強しそうなものですからね。


でも、生き方ということには興味がつきないのではないかなぁと。
言葉にするといろいろな表現があると思いますけど、最近は溌剌という言葉が妙にしっくりきています。幸せとか、元気とか、充実しているとか、他にも言葉はいろいろありますけどね。手足がうまく動かなくても、腰とか背中が痛くても、なにかの病気だとしても、毎日を溌剌と幸せに過ごすにはどういう体であればできるのかと、そんなことばかり考えてきたかもしれません。


だから、世の中にはいろいろ言いたいことがありますけど、今、ひとつ選ぶとしたら


「病気でなければ溌剌とできるわけではない。」


ということでしょうかね。


で、そんなわけで溌剌とすることが第一で病気かそうでないかはどうでもいいっていう人は遠慮なく相談にきてくれればいいと思います。


2月の品川、日暮里の募集を開始しています。
病気に怯えて日々、戦々恐々とする生活を強いてくるようななにかに対して、


「くそくらえっ!」


というためにはどうしたらいいかを考えることぐらいはできると思います。




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選挙と老後の生活と整体と

先日、出勤中、整体院のすぐ近くの踏切でのことです。
緊急出動中の救急車が通せんぼにあっていました。最寄りの阪急長岡天神駅の踏切です。知っている人もいるでしょうが、この踏切はあかないときは本当に10分ぐらい開きません。サイレンを鳴らして出動しているんですから、緊急性が高いわけで10分も遅れたら助かった命が助からなかったという事も起こるでしょうね。


で、そんな事を考えて到着してみると政治チラシが入っていました。
ちょうど市長選挙のタイミングだったようで、駅前の開発に反対しますという事が公約に掲げてありました。私は長岡京市の市民ではありませんから投票にいくわけではありませんけど、まぁ、間の悪い事です。

反対する理由は、20年もの長期の開発事業で莫大な費用がかかるという事でした。
どう考えるかは人それぞれでしょうけど、救急車だけでなく、消防車やパトカーだって足止めをくらうのじゃないでしょうか?長岡京市の発展に安全という要素は非常に重要で、それを考えれば駅周辺の開発というのは必須だと私は思いますけどね。


まぁ、こんなことは私にはどうでもいいことではあるのです。
思ったのはこの政治家は体とか健康に対しても同じような考え方をするだろうなぁということです。本当に大事な事は後回しにして、とっつきやすいわかりやすい問題だけをピックアップしてそれに対応する人でしょう。それで何かをした気分に浸って結果として大きな問題は先送りになるということが、目の前で起きた出来事とチラシの主張から読み取れるわけです。なんでそうなるというと、駅周辺の開発を辞めて浮いたお金でやることが老人の福祉というわけですよ。


別に福祉をやるのがダメというわけではありません。
年齢を重ねた老人が寝たきりだとかいう具合に介護が必要になることが前提の考えなわけですよ。そりゃ、そうなってしまう人は一定数いるわけですから、ある程度は必要でしょう。ただ、もっとも優先して考えなきゃいけないのは年齢を重ねた人たちが活気ある生活をおくれる街を作るという事でしょう。そんな街を作ることで、要介護の人たちを減らしていくという発想が必要だと私なら考えます。

その場合に考えなきゃいけないことは、福祉にかける予算を減らすという事です。

書いてて思い出しましたけど、四国の山奥に実際にそういう村がありましたね。
料亭の料理に添える葉っぱを村ぐるみで採取して販売している農村の話は聞いたことがありませんか?人口2000人もいない山奥の農村で年商2億だとかあって、年収2000万を超えるおばぁちゃんがいるのです。それを踏まえて考えれば、長岡京市ぐらいの規模があればいくらでもやりようはあるはずで、そういう年寄りがゴロゴロいる街を目指すべきだと思うのですけどね。


学生の頃、生徒会なんてちょっとやってましたからその経験を生かして表現してみましょう。
寝たきりの年寄りにお金をかけるんじゃなくて、元気な年寄りにお金を使って街に活力を生み出すのです。活気のある街になれば、寝たきりの年寄りもむくりと起きて元気に活動をしはじめるはずです。

よく考えてください。
福祉の予算を増やすということは、安心して寝たきりになれる状況をつくるという事なんです。つまり、予算を増やせば増やすほど寝たきりの年寄りが増えることになります。2000万稼ぐ才能のあった年寄りも寝たきりで穀潰し生活をするわけです。しかも、救急車や消防車が必要な状況になっても踏切は開くことはありませんから、急な手当が必要になったら死ぬしかありませし、火事が起こったら焼け死ぬ事でしょう。とんでもない選挙の公約だと私なんかには思えますけどね。


まぁ、この考え方は整体に対しての考え方をそのまま市政に置き換えただけのものです。
逆にいうと、この考え方をベースに整体をしていると考えてもらうとよいでしょう。まぁ、今回のはチラシを見た時に、ちょいちょいと考えた程度の内容ですけどね。ただ、これを読んで、


「いや、やっぱり福祉は必要だ。」


と考える人は、整体というものについて理解することは無理かもしれません。


さて、自分でも珍しく政治について書いてみました。
ただ、私はこんな事を公約に掲げても選挙で当選できるとは思ってはいません。それに、私が政治に関わる事は絶対もないでしょう。政治家を目指すぐらいなら死んだ方がましだと思っていますからね。
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ゴーストの囁きに耳を傾けてみては?

攻殻機動隊というアニメがとても面白いのです。
技術の進歩によって体を義体化、つまりサイボーグ化してしまう事が一般的になった世の中のSFアニメです。舞台が日本の2030年あたりだたったりするのがちょっと笑えますかね。私が10代の頃に原作が書店に並んでいたように思いますから、当時からすると今の世の中がそんな風になっているということが想像できるぐらいの未来だったわけですが、実際にその時代に近づいてみると車が空を飛ぶ気配すらありません。人間の想像力のスピードは、科学技術の進歩のスピードを遙かに凌駕しているということなのでしょう。

ちなみに、義体化といっても見た目がロボットになるわけではありません。
あえてそういう義体を選んでいるという人もいたりするんですけどね。見た目は完全に人の姿で表情もかなり自然なものに近づきつつあるという状況でしょうか。首筋には通信ケーブルを差し込むコネクタがありますからそれで義体だという事がわかったりします。見た目はただの人間なのですけど、視力、運動能力、記憶力なんかは元の人間をはるかに超えていますし、通信によってあらゆるコンピュータ、ほかの義体なんかにもアクセス可能で、他人の義体をハッキングして記憶や行動を操作するなんていう犯罪も起こるわけです。

この物語の主人公は草薙素子という女性です。
生まれたときは人間の女の子だったようですが、事故で体を失ってしまったために全身を義体化しています。だから、見た目は女性ですが女性といってしまっていいかはかなり曖昧です。物語の中じゃ、体の義体化率なんていう言葉がでてくるわけですが義体化率が100%なのです。


さて、ここで


「義体化率100%ということは人間としての要素は残っているのか?」


という疑問がでてきます。
体を構成する要素として生物である部分が一切ないのですから生きている人間として考えてよいのかわからなくなるわけです。物語の中でも、あまり詳しい解説はないのですが、人工知能が進歩してAIが人間として振る舞っている世界でもありますから、人間とロボットの境目が非常に曖昧なのです。


草薙素子本人も自分が自分である確かなものを一切もっていません
そして、


「今の自分はただのAIなのではないのか?」


自分のアイデンティティが非常に曖昧であることを自覚しています。


この物語では人格というものは脳の中にある情報として考えられているようです。
ですから、体を義体化するときに、脳の情報を電脳というコンピュータに移し替えています。しかし、それが正確に移っているのか、電脳の自分が本当に自分なのかを確認する方法がありません。

ちなみに、私の考えでは、人格というのは内臓、筋肉、骨など体の状態を反映して形作られるもので、脳というのはそれを補助する役割をしているだけのものです。ですから、脳の情報を電脳に移すことで人格をアンドロイドに移動させるなんていうことは成立させることは不可能です。まぁ、そんな事を言い出すと話が進みませんからこの話はまた別の機会に考えてみたいと思います。


彼女は、公安9課の現場のリーダー、警察では扱えないような犯罪を取り締まるという仕事をしています。脳が電脳、つまりコンピュータなわけですから論理的思考する際の演算能力というのは通常の人間が及ぶようなものではありません。しかし、得られた情報から論理的に導き出された結論では捜査が行き詰まってしまう事があるわけで、そんな時には彼女の第六感が犯罪の真相にたどり着くヒントになることがしばしばあります。そんな時に彼女が口にするセリフが、


「私のゴースト囁くの。」


というものです。
この物語では自分というものをゴーストと呼んでいるのです。


さて、これだけ長々とこのお話の説明をしてきたのは、この物語では動いているというのと、生きているということの境界線が非常に曖昧になっているということを紹介したかったからです。全身を義体化した人間と、AIを搭載したロボットの違いはいったいどこにあるのかというとゴーストのあるなしでしか判断できません。ところがゴーストの存在なんて確かめようがなく、あるようでないような幻のようなものでしかありません。しかも、AIが進化してゴーストを持つようになったと思えるような状況もしばしばあるわけで、草薙素子の状態を人間として認めるなら、進化したAIもまた人間として認めなければいけなくなります。そういうおぼろげではっきりしないものが人間の核の部分であり、それをゴーストと呼ぶなんてのはうまくネーミングしたものです。


さて、生についての概念が曖昧じゃ駄目だろうと思うかもしれませんが、今の世の中は、


「心臓が動いている状態が生きているということ。」


というはっきりした線引きをしてしまっているために、死んでしまっている状態なのに、生きていると判断されてしまっている人たちがたくさんいます。私は生きているということは、


「目的をもって溌剌と生活すること。」


だと考えています。
そして、それができるのはどういう体の状態であるかというのが私なりに答えがあったりします。ただ、その考えに従って人々の体をみていくとほとんどの人が生きているといえない、つまりゾンビのような状態なのです。私には大勢のゾンビが社会を形成して、仕事して、主婦して、学校にいっていたりするわけです。ストレス社会なんて言葉がありますが、今の世の中はゾンビ社会であるというのが本当の状態なんじゃないでしょうかね。


生きているということはどういうことでしょうか?
義体化してサイボーグなった人間がいる世界を垣間見ることで、生きているということの境界線がいったいどこにあるのか考え直す事ができるような気がします。

草薙素子は全身を義体化していますが日々、人間であろうとしています。
その部下には、やはり全身を義体化していますが、その草薙素子の思いを理解して彼女を支えようとするサイボーグがいます。義体化率の低い人間はサイボーグ化した彼らの思いはなかなか理解が及ばないのですが、サイボーグ化した人間たちはそんな人間の考えや思いをちゃんと理解できているので人間らしいチームワークが成立してしまいます。人間離れしていて、人間として、生物して扱っていいのか怪しい人たちの活動をみることで人間らしさがいったいどういうものか感じ取ることができたように思えます


まぁ、そんなわけで、


「自分らしく生きるということはどういう事か?」
「朝起きて、仕事して、家に帰ったらご飯を食べて寝るのであればロボットにだってできるんじゃないのか?じゃあ、ロボットは生きているといえるのか?」
「毎日、快便することが生きているということなのか?」


こんな命題を考えるときに非常にいい肴になるアニメでしょう。
こういう人間として大切な部分を曖昧にしたまま健康になろうとか横着をするからみみんなうまくいかないのじゃないでしょうかね。繰り返しますけど、溌剌として内から元気がわいてくる状態を生きるということだと私は考えています。


ハリウッドで映画化もされているようですが、米国人にこういう微妙な心の動きを表現できるとは思えませんのでおそらくアニメで見る方が無難でしょう。まぁ、正直かなりとっつきにくいSFではあるのでほとんどの人は意味不明に感じるかもしれませんけどね。宮崎駿みたいにわかりやすいものばかりじゃなくて、たまには脳みそをフル回転して眠っているゴーストをたたき起こしてみてはいかがでしょうか。



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今年はまじめに仕事をする年

私は、昨年末に1回死んだわけですが、今年も早々に1回死んだことにしました。
もう、根本的に大きな間違いをしていたといってもいいのかもしれません。もういろいろ間違えすぎててどこをどう誤魔化せばいいか考えるのが時間の無駄だと思えたからです。そんなわけで、今年の私の整体に対する考え方は、


「こまけーことはいいんだよ。」


ということになりそうです。


で、そんなことを考えつつどういう具合に整体をしてゆくかと考え始めたら、どうも


「まじめに仕事をする年。」


ということになりそうです。
実は、ここ2~3年はいい加減にやってみるというのが私のテーマでした。頭でっかちになって、あれこれ考え込んでいると、人の体がどんどんわからなくなってゆくというのを感じていたからです。で、考えるのを辞めて、その時感じたことを中心にどうするか、意識をしないでも自然に体と手が動かすことで整体しようということを考えていたわけです。まぁ、考えている時点で、すでに意識しているわけですから、言葉にすると矛盾がでてきておかしなことになりますけどね。


「こまけーことはいいんだよ。」


というのはかなり便利な言葉かもしれません。



で、そんなことを数年続けてきたわけですが、頭も使って整体するというタイミングがやってきたような気がしています。本を読んで知識や情報を集めるなんていうのも極力やらないようにしていたんですが、


「読まなくてはいけない、読んだほうがいい。」


というように自分が変化してきました。
感性だけでは足りない部分がでてきたのでしょう。ただ、いい加減にやっていたおかげで感性がちょっとばかりは高まってきたようです。新幹線である本を読んでいたら、今までだったら読んでも理解できなかったであろう記述がわりとスルスルと頭にはいってくるようになっていました。で、思ったことは、


「感性で感じていたことを知性に変換するのが今年やること。」


という事でしょうか。
そんな気分を言葉にすると、


「まじめに仕事をする年。」


というのが適切な表現という気がします。
さしあたっては、読書量を増やそうかなぁと考えています。このブログの記事ネタもそろそろ枯渇してきているのを感じていましたからね。今年はまじめな記事が増えるかもしれません。

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