ブログ「日々整体」

整体師の目から見た生と死

整体師である私には全く理解できない考えなのですが、 「損をするぐらいなら不健康な方がよい。」 という人が一定の割合で存在しています。 もちろん必要以上にお金をかける必要はありません。しかし、 「生きてさえいればそれでよい。」 と考えている人の考えは私には全く理解できません。 私からすると、人生(生とも言えますが。)は可能な限り充実させて死ぬときに、 「いい人生だったな。」 とふり返ることができるような生き方と死に方をしたいと考えています。これまで整体師として、一番驚いた方は、私に対して、 「もうすぐ死んでしまうのでしょうか?」 と質問してきた方です。
整体師は健康な人、そうでない不健康な人に日常的に触れる仕事です。
そういった経験を積み重ねていくことで身についた特技だと思いますが、余命がある程度わかることがあります。生きる力のない体は体から精気が漏れている、あるいは生命力がないとでもいうのでしょうか、体に触れたとき弾力がなくなって弱々しく感じるのです。当然ですが、整体師であれば、医者の検査で問題がなくても、体の変化を指摘することができます。人間は生物ですから、生きる力が残っていない人は体になんらかの形で観察できるのです。だから、もうダメだと思った人はたいていその数ヶ月に亡くなったと聞かされます。 それで、もうすぐ死んでしまうのですかと質問してきた人には、すぐに死ぬような状態ではないとアドバイスをしたのです。 すると、 「よかった!」 と満面の笑みを浮かべていました。 ただ、自律神経の状態はお世辞にもいいとは言えませんから、具体的にどのようにすればよいかの話をつづけようとしたら、 「生きてさえいればいいんです。」 と言い切るので、それで話が終わってしまいました。 ずいぶん前の話ですが、今でもこの人のことを考えて振り返ることがあります。 もしかしたら、私のように考えられるようになるためにはある一定レベル以上の元気さが必要で、そのレベルにまで達していなかったのかもしれません。それとも、死なない程度の健康状態であることがその人にとって最も幸福な状態であることもあるのかもしれません。 生き方はそれぞれですから、その考えは尊重したいと思いますが、私としてはもったいない生き方だと思ってしまいます。 現代の人々は完全に死生観をなくしてしまっていると感じています。 だから、ほとんどの人は、死なないようにすることが生きるということだと考えてしまっているように思えます。だから、生きるということはどういうことなのかを年に1回ぐらいは考え直してみることをおすすめします。生き方についての感じ方、考え方は年をとるにつれて変化するものです。だから、年に1回ぐらいは自身を振り返ってみるとよいでしょう。自分の感覚や感性が変化することに気がつけるのもまた生きていく上での楽しみの一つだと思います。
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GiverかTakerか:『GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』から学ぶ人生の教訓

最近アダム・グラントという学者の書いた『GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』という本を読んでいます。まだ読み終えてはいないのですが、この本にもっと若い頃に出会えていれば違った人生を歩めたかもしれないと考えています。

著者はこの本の中で人を3種に分類しています。
1つはこの本のタイトルにあるとおりGiver、つまり与える人です。あとの2つはTakerとMatcherといって、Takerは言葉からわかる通り奪う人、MatcherはGive&Takeを基本とした思考と行動をとるタイプのことです。

もちろん、人間のことですから相手によって行動が変わることもあるでしょう。
例えば、家族に対してはGiverだけど仕事になるとTakerになるといった具合にです。しかし、根本的な性質は変わらないのであろうということを読んでいて感じました。Takerとして仕事をしている人は、家族に対してもTakerであるように思います。

人生を成功させる、あるいは大きな成功をした人が必ずしもGiverという訳ではありません。
この本の中ではTakerとして元NBAの選手であるマイケル・ジョーダンの事例を紹介していました。ご存じの方もいるかもしれませんが、彼はバスケットボールの選手として非常に偉大な成績を持っています。しかし、プレー外のことになるとあまり評判のよくない人物で、典型体なTakerであることが実際の行動から判断されています。

日本人で成功したTakerというと、宮崎駿の例がわかりやすいでしょう。
スタジオジブリには後継者が育ちませんでした。宮崎駿は、ジブリのスタッフを育てようとは一切しなかったと言われています。ジブリにおいて彼自身が製作に関わらないアニメに対してまでも異様なまでに口出しをして、スタジオ内を支配しつづけていたそうです。以前にYoutubeに動画に上がっていたのをみたことがありますので興味のある方は探してみるとよいでしょう。

それではダメだということでおそらくジブリのプロデューサーの鈴木氏が、宮崎駿が干渉しない体制でアニメを作ろうとしたのでしょう。それが「猫の恩返し」や「ゲド戦記」です。しかし、そのような工夫は大した成果をあげることなく、スタジオジブリを引き継げる人物が育つことはありませんでした。才能のある人たちは皆ジブリを離れてしまったのです。ジブリがテレビ局の傘下に入ったのはつい最近のことなのでご存じの方も多いでしょう。ジブリの成果はすべて宮崎駿だけのものとして扱われたのではないでしょうか。Takerは、成果のすべてを自分の手柄にしてしまいそれを助けた周囲の人たちはその恩恵を受けることがないのです。

Takerに対して、Giverはまったく違う成果を産み出します。
Giverは、自分の成果を誇るより、顧客や会社の利益を優先します。だから、自身の名が表にでてくることはあまりありません。しかし、周囲の人たちは皆、

「我々の仕事がうまく言っているのは彼のおかげだ。」
「彼のおかげで豊かな生活ができている。」

とGiverを評価するし、再び一緒に仕事がしたいと望むのです。

この本を読んでいて、

「私もGiverとしての人生を歩み、そのような仕事をしたかった。」

と心底思いました。
もちろん、私自身は勤めていたときは、常に自分のことより会社のことを考えて判断、行動してきたつもりです。しかし、Takerとしての本質が頻繁にでてしまっていたのでしょう。それ故に会社に留まることができませんでした。そして、会社を辞めてからは独立して好き勝手にTakerとして生きてきてしまいました。

私は今年50歳になりました。
今からでは変わるのは遅いでしょうか?でも、死ぬまで仕事をするつもりですから、そう思うとあと10~20年ぐらいはあるかもしれません。そうであれば今からでも生き方、仕事のやり方を変えることは不可能ではないかもしれません。もし仮にうまくGiverになることができなくても、そうあろうという思いがあれば何か変わってくるかもしれません。

それでさしあたって息子との接し方を変えてみようと思いました。
私は息子にTakerとして接していたとは思えません。しかし、Takerとしての私の側面が息子の人間の成長を阻害していたかもしれないと考えました。息子にはまだまだ何十年も人生が残っていますから、いくらでも修正はきくでしょう。だから、私は変われなくても、変わろうとする意志を持てば、それが息子へよい影響を与えられるGiverとしての最初の活動になるのではないかと思うのです。



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整体師の視点:バイクで見つけた身体への理解

私はバイクで出かけることが多いのですが、先日、阪神高速を走行していたときに、もっと車格のある大きなバイクが欲しいと思いました。理由は簡単で、私のバイクが軽量でコンパクトなバイクだからです。

阪神高速のような狭い道路を小さなバイクで走行しているときに、大型車に囲まれると恐怖を感じるのです。いままでは高速といっても名神高速のような広い道路を走っていたのであまり感じなかったのだと思います。なお、排気量は150ccなのですが、重量は150kgほどはありますから原付バイクなんかと比べると倍程度はあると思ってもらうとよいでしょう。

一方で、整体をしている時のことです。
細身の骨格の方が、もっと筋肉をつけて重い体になりたいといっているのをよく聞かされるのです。それに対しては、骨格が華奢な方が、筋肉の量を増やしても怪我や病気になりやすいだけだと助言をしています。健康になるための工夫や努力をするのは問題ないですが、別の人間になろうとする行為だから体にとって良いことはないのです。

大きなバイクが欲しいと感じる私の感覚と、筋肉をつけて強くなりたいと思う華奢な人の感覚は同じなのだろうなと思えました。

おそらく華奢な体格の人は、自分より大きな人間に囲まれたときに強い圧を感じてしまうのでしょう。
人によっては、自分らしい発言や行動ができなくなるのかもしれません。だから、重く強くなって自分らしくあろうと考えるのは理にかなっているのではないでしょうか。大型車に囲まれているとき、そういうことに気がついたのです。

そう考えると、「筋肉の量を増やしても怪我や病気になりやすいだけだ。」というこれまでの助言は的をはずしていたということがわかります。

「骨格が小さいために筋肉をつけてもあまり意味がないから、スピードを高めたり、知力を向上させたりして違う面で対抗するべきである。」

このような指導の方が適切だといえるかもしれません。

さて、こういうことを踏まえて、やはりもっと大きなバイクが欲しいかと考えてみたのです。
答えは、やはり『欲しい』でした。なぜなら、150kg程度の重量では高速道路でちょっと強めの風が吹いたら飛ばされそうになるからです。太って強くなりたいと考える人には、一概に適切な助言がないかもしれません。
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パフォーマンス向上の鍵:楽しみながらのプレーと顎の力を抜く秘訣

「楽しみながらプレーすることができました。」

なんらかの成果をあげたスポーツ選手がこんなことをいっているのを聞いたことがあるでしょう。
ただ、多くの人はこの言葉の意味を額面通りに受け取ってしまっていると考えています。なぜかというと、身体的に高いパフォーマンスを発揮するためには楽しむことはそれほど重要ではないからです。

このように考えるのは私が古武道の経験があるからでしょう。
真剣を使って藁を切る稽古をしたのことがあるのですが、真剣は楽しみながら扱うようなものではありません。しかし、身体のパフォーマンスを十分に発揮できなくては真剣をうまく扱うことなどできないことをはっきりと自覚することができました。

また、もし楽しむことが必ず結果に繋がるのであれば、好きなことに取り組んだ人は必ず満足のゆく成果や結果を得ることになります。しかし、現実は一部の選手がそうであることはあっても、すべの選手がそうではありません。例えば、水泳選手だった北島康介氏はオリンピックで金メダルを獲得したときのコメントが、

「超気持ちいい。」

だったということを多くの人が知っていることでしょう。
私はこのコメントは、絶対に金メダルを取るという意志、周囲からもそれを期待されるプレッシャーを乗り越えたんだという達成感が現れていると感じました。決して楽しんで泳いでいたとはいえない状態での競技だったのではないでしょうか。つまり、スポーツにおいて楽しむということは成果を上げる、あるいは一定以上のパフォーマンスを上げるための一つの方法ではあるけれど、楽しんだからといって必ず成果があがる訳ではないということです。

最近では、思うような結果を得られなかったけど、

「楽しめたから。」

だから、結果は重要ではないと、言い訳として使われているのを見かけることもあるように思います。しかし、先の述べたとおり楽しむということは間違いのないノウハウの1つであることも確かではあります。

そこで、楽しむということを言い訳にしない、本当の楽しみ方について説明しようと思います。

人が楽しんでいるときには、どのような表情になるでしょうか?
答えは簡単で、人は楽しんでいる時に笑みが浮かびます。ただ、表情は人それぞれで、文字通り微笑んでいることもあるでしょう。一方で周囲から見たらなんの感情も感じ取れない無表情であるということもあるかもしれません。楽しんでいるからといって必ずしも笑みを浮かんでくる訳ではありません。

この微笑みについて整体の知識から逆に考えてみれば良いのです。
人が笑みを浮かべるときというのは、実はあごの力が抜けている状態です。ですから、あごの力が抜けていれば微笑んでいる状態になりますし、その状態であれば楽しんでいる状態であるということが言えます。この論法では、笑みというのは心の状態が現れるものだから、体の状態は関係ないのではないと思う人もいるかもしれません。しかし、整体的に考えれば体の状態は心理状態に完全に繋がっているものだということがいえます。なぜなら、顎の力が抜けるということは体の中心に力が集まる、つまり自然と丹田に力が集中して人間がもっとも力を発揮できる状態になるからです。

具体的なスポーツ選手を二名ほどあげてみましょう。
まず、NBAのバスケットボール選手だったマイケル・ジョーダンはよい例でしょう。彼はスーパープレイを披露するときには必ず舌を口から出して伸ばすのです。口を開けているのですから、顎の力は抜けているのは言うまでもありません。試しに舌を口から出して伸ばしてみてください、横隔膜が動くのわかる人もいるかもしれません。その状態がいわゆる体の余計な力が抜けた状態だと知っておくといいことがあるかもしれません。

もう一人は、プロテニスプレイヤーのピート・サンプラスです。
彼は、プレーの合間に顎をよく動かして、ニヤつくような表情を頻繁にしていました。女性のテニスファンからはしまりのない顔だと評されているのを聞いたことがあります。高いパフォーマンを発揮するために体の力を抜くためのテクニックなのですが、わかっていない人が見たら顔から緊張感がなくなりますから間抜けな顔に映ることもあるようです。

スポーツ選手が

「肩の力を抜け。」

と言われているのを聞いたことがある人も多いでしょう。
肩の力を抜くというのを、整体的に説明すると頸椎6番の力を抜くということになります。そして、頸椎6番の力が抜けると顎の力も同時に抜けます。だから、楽しむことで肩の力が抜け高いパフォーマンスが発揮できるようになることもまた間違いではありません。

究極の言い方をしてしまうと、

「顎の力さえ抜けていれば楽しむ必要などない。」

ということがいえます。
試しに、口を開いて体を動かしてみるとよいでしょう。もしかしたら普段とは違う動きになることをすぐに実感できるかもしれません。その実感が得られれば、楽しむことを意識するより、顎の力を抜く方が効率的に能力を発揮できることもあるでしょう。

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最善の治療と最良の人生

「死んでから3日は救急車を呼んではいけないよ。」

冗談まじりにそんな助言をすることがあります。
なんらかの体の不調があって動けなくなった際に、すぐさま救急車を呼ぶというのはほぼすべての人が当然だと考えることでしょう。しかし、私は数年前からこういった当たり前と思われる判断と行動について考え直した方がよいと思うようになりました。なぜなら、脳梗塞を起こして倒れた人が病院から帰ってきたときには人が変わっているケースを何回か見てきたからです。

実際に、私自身の母にもそのようなことが起こっています。
救急車で運ばれる前と後では明らかに人格が変わってしまっていました。他の場合では、自分一人では話すどころか、体を動かすこともできずかなり重度の要介護状態になってしまった人もいます。そういう状況を見るにつけ、医師はいったいどういうつもりで治療を行ったのだろうかという疑問が沸いてきます。当事者になってみて感じたのは、

「とりあえず心臓だけは止まらないようにしたから、あとはあなたたちの心の問題です。」

と突き放されたということでしょうか。

こういった経験を経て思うことがあります。
それは、医師は『死んではいけない』という否定することが難しい正義を振りかざしているだけではないかということです。医師たちが、死は憎むべき敵であり、絶対に受け入れてはいけないものであると主張しているように感じるのです。心臓さえ止まらなければ、何をしてもいいとまで考えているのではないかと思うことすらあります。

医師たちが持つ「死んではいけないという」正義の解釈は、ある意味で、強い権力を持つ人々や組織が持つ正義の解釈と重なる部分があるのではないでしょうか。

死に直面した人を救うためには、医師たちはこう言っているように感じられます。

「心臓を動かし続けるためには、今、生きている人の人生や夢といった、その人の人生に関わるあらゆることを犠牲にしてもよい。」

人格が変わってしまった人、一人での生活ができなくなった人、そういう人たちを見ているとそのように感じてしまいます。命さえ守られれば、命を奪うのではなければ何をしてもよいというのでしょうか。

さて、人間はいつか必ず死んでしまう生き物です。
死を迎えて世代交代をしてゆくことは、地球環境の変化に適切に対応するための人類の能力の一つです。我々は、世代交代をしてゆくことでDNAを適切に変化さてきたのです。つまり、世代交代をしてゆくということはホモサピエンスが繁栄していくために最も必要なものだということができます。

だから、充実した人生を送って、最後には、「よい人生だった。」と自身の人生を振り返りながら亡くなるというのがもっとも人にとって幸福な人生だといえるのではないかと思います。だから、「死んではいけない。」という理由で、その幸福な人生を台無しにしてしまうのは間違いなのではないでしょうか。

あと、私は、自分が自分で無くなるのは絶対に嫌です。
そうなってしまった結果、私の息子が何かを諦めなくてはいけないことになったら生きてきたことをすら後悔するようになるかもしれません。それだったら、さっさと死んだ方がいいと私は思います。だから、もし倒れでもしたときには、

「心臓が止まったのを確認してから3日後に病院なり119番なりして欲しい。」

と、そう思うのです。
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