ブログ「日々整体」

全生と健康と

長寿必ずしも健康でない、しかし全生といふことは、真の健康者以外には不可能な事である。

(意訳)
長寿は必ずしも健康である必要はない、しかし全生という生き方は、真の健康者以外には不可能な事である。


実は健康ではない方が長生きであるというのが事実です。
この点はほぼすべての人が勘違いをしています。 親の介護なんかを経験した人ならわかると思うのですが要介護の状態心臓が止まりにくいのです。必要な栄養を摂取してずっと安静にしているのですから当然です。 

介護を続けていると、 

『弱っているのになかなか死なない』 

なんて思う事がある事でしょう。 
実際、介護を経験した人にきいたらほぼ100%同意をしてもらえます。ほとんどの人は実際に口にすることはないと思いますが、介護を苦にして自殺なんていう事件が実際にあるのはどうしてなのかちょっと考えてみればわかるのではないでしょうか。

現在の医療は健康という言葉の定義がかなりおかしくなっています。 
医療における健康という言葉は、 

『心臓が止まりにくい』 

という状態を意味しています。 
だから寝たきりである状態を良しとするのです。でも、介護を受けている人たちがどういう状態かをよく考えてみてください。自分の考え、意思というものをもたず、歩くどころか、自分の力で食事を食べることもできません。人間のもっとも幸せな生き方は全生であると考える私からすると、そんな状態は生きているとは言えません。 

私は泣いたり、笑ったり、苦しんだり、喜んだりしながら、熱心に生きてそして最後は、息子に、 

「俺が死んだ後は、俺の墓の事なんて考えないでいいから自分の好きなように生きるんだぞ。」 

といって死んで生きたいと考えています。それが私にとっての全生です。 

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歳を実感できず、現実も見えない男の話

ちょっと前に競馬場に息子と2人ででかけました。息子が、ウマ娘というアプリのゲームで競馬に興味をもったから一度、生の競馬を見せてやろうと思ったのです。


自宅は京都競馬場の近くなのですが、現在改修工事中という事で仁川の阪神競馬場です。

出かける時には、三冠馬のディープインパクの2戦目のレースを見に行った時以来だなぁと考えていました。でも、よく考えれば息子が幼稚園のころに、馬を見せてやろうと思ってピクニックがてらでかけた事を思い出しました。だから6~7年ぶりぐらいですね。その時は馬、牛、豚といった家畜がもつウイルスに触れておくと体が丈夫になるなんていう論文だったかの情報をみかけて、直接、馬に触れる機会を作っておこうと考えていたと思います。だから馬をさわりに行ったという感覚で、競馬を楽しむという形で競馬場にいくのはやはり15~20年ぶりぐらいになります。


そんな訳で、私の競馬に関する知識は15年前で止まっています。

その日は天皇賞の日だったのですけど、出走する馬の血統をチェックしようとすると、父親をにはキングカメハメハ、ディープインパクト、ステイゴールドとか私が競馬場で応援していた馬たちの名が並びます。


また、リーディング1位の騎手が武豊じゃないんですよね。

この日は関東で天皇賞がありましたから、他の有力騎手がそろって関東へ出張していたのもあってか武豊は大半のレースに乗っていました。私にしたら武豊が天皇賞に乗鞍がないというだけでも驚きなのです。この日は、それなりのレース数に乗っていても1勝もしていませんでしたからちょっと残念な気持ちになったりします。15年前なら、このレースで武豊は勝つか?なんていう思考が中心になるレースも珍しくなかったですから、ずいぶん大きな変化です。


武豊は私より4つ年上で、大きな落馬事故にもあっています。

だから、いまでもよく乗っていられるなぁというのが本当なんですけどね。15年ぐらい前だと、岡部幸雄といってシンボリルドルフの主戦騎手だった人の引退のころで、確か55歳あたりだったように思います。そういうところから踏まえると私が当時岡部という騎手に感じていた印象を、現在の若い競馬ファンたちは感じているのかもしれないなぁと思うわけです。ちなみに、私の岡部幸雄に対する印象というと年寄りがでかい顔をしてんじゃねぇって感じでしたね。


ちょっと嬉しかったのは幸英明という騎手がリーディングの10位以内に入っていた事でしょうか。

彼は若手の騎手の中でかなり注目している人でした。馬の実力を堅実に発揮させる実力のある騎手だったのですけど、その力量に見合わない成績だなぁと思っていたのです。そういう人が、ちゃんと周囲に認められて力量に見合う成績をあげるようになっているのはちょっと嬉しく感じます。


阪神競馬場の一番大きな変化はコースが大きく変わっていた事です。

阪神競馬場はちょっと変な形のコースで枠順での有利不利があったりしたのですけど、それがほぼなくなっているという印象でした。コースも大きくなっていましかたらかなり大規模な用地買収が行われたのだろうなんて事を考えていました。


ただ、かわっていないところがって、それはフードコートだったりします。

当時は改装がおわった直後という感じのきれいな食べ物のお店が並んでいるという印象でした。ところが、古ぼけた商店街という雰囲気が漂っていました。設備としては大きな問題はないから今でも使われているのだと思いますが、変わらないでいると寂れた印象があるのだなぁというのが印象的でした。


自分は日々歳をとっていくのですけどそれを自覚する事はあまりないのです。

高校生だったころをつい先日のように思ってしまうぐらいです。ところが、競馬場に行くと自分がかなり歳をとってしまっているという事に気がつかされてしまいました。とても当たり前の事なのですけど、そういう当たり前の事に気がつけていないということを確認してしまった時、自分がお伽話の登場人物になったような不思議な気持ちになりました。


たぶん、現実感がまったくないんですよね。


「この歳になっても、まだ自分の存在がぼやけている。」


というのは、ちょっと恥ずかしい事のように感じていました。


さて、朝一番からメインレースまで馬券はかすりもしませんでした。

それで最終レースは荒れて大きな配当がでそうな気配がプンプンしていましたので一発当ててやろうと。そのレースには目を付けた馬がいてその馬から総長しで確か1400円買いました。予想通りその馬は1着でしたが配当は1000円程度で的中したのにマイナスになってしまいました。勝負には勝ったけど、馬券で負けるという競馬によくある奴です。


私は帰りの電車で、


「息子には予想と馬券をあてるところを生で見せる事ができたので父親としての面目はかろうじて守られたはずだ。」


自分にそう言い聞かせるのでした。

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体の切除と薬の効能と

又人体は総体的のもので、之を切離しては考へえらぬ。身体の一部を切除するが如きは、身体全部に対する違和感を惹起し、自然療能の活動を妨ぐること大で、徒に疾病に冒さるゝの機会を多くするに過ぎぬ。かくして何れの時にか「医は医なきを期する」事を実現せんやである。医術は増加の一方なるに拘わらず、病弱者は益々急激なる増加をみるといふ皮肉なる現象を呈する、亦宜ならずやと言わねばならぬ。 

(略) 

病患者が胃散を常用しその服する毎に分量を増し、ついに胃散なくしては食する事能わざるに至つた事を見聞したることなきか。便秘症に服用をなし、遂に薬なくしては排便の出来ぬ習慣となり、結局便秘の促進にしかならなかつた例を知らざるか。

言葉の意味 
惹起(じゃっき) 事件、問題を引き起こす
徒に(いたずらに) 無駄に  
亦宜ならずや(またむべならずや) 当然だ、当たり前だ 

(意訳) 
人の体は総体的、つまり部品を寄せ集めて作られているのではないので、その一部に注目して考えてはいけないものです。体の一部を切除、切り離すと体全体に違和感を感じるようになり、体の持つ治癒力の働きを大きく阻害、結果として病気になる機会を多くしてしまいます。そんな事をやっていていつになったら、「医とは医なきを期する」という事を実現できるのか。病院は増加の一途であるのに、病気に悩む人たちがどんどん増えていくいう皮肉な事がおこるのは当然の事といわねばなりません。 

患者が胃散の薬を常に服用するようになると必要になる薬の量は増加してゆき、ついには胃散なくしては食事を食べる事もできなくなる例をみた事はないだろうか?便秘を解消する薬を飲み続けてりると、薬がなくては排便できなくなってしまい、薬が便秘の促進になった例をしらないだろうか、きっと周囲を探せばすぐにそういう人は見つかるだろうと思う。 

(役ここまで)

興奮すると漢文のような口調になる高校教師という登場人物がいるマンガを読んだ事があります。 
例えば、怒る時のセリフが、 

「子曰く、○○○・・・・!!!!」 

という感じになります。 

この文からは野口晴哉師の感情が伝わってきます。 
書き始めは穏やかな口語であったのが、突然、文語調の文体に変貌してきます。きっと怒りや腹立たしいという気持ちが抑えられなかったのでしょう。野口師が整体師であって、文を書くのが本業ではないというのが私には感じられてちょっとニヤリとしてしまいます。 

本題に入ります。 

人間の体の一部を切除する。 
生きるために必要だといわれればその医師の判断には従うしかないと思うかもしれません。しかし、それは生きるという事の意味を間違えているからそのような判断になるのでしょう。 

例えば、手術で脾臓を取り出したという人が整体にこられた事があります。

続きは四面楚歌に掲載しています。
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病気や怪我が治るという事の意味

体にもこの適応作用があつて外界よりの刺激に抵抗する力を生じ、外界よりの変化に適応するの作用がある。俥屋の脚、鍛冶屋の腕が強く、乞食の皮膚は寒風に堪え、婦人の骨盤は大きく、熱帯人の皮膚が黒く、湿帯人の皮膚は黄色く、寒帯人は白い、髭は剃るほど濃く硬くなる、之皆適応作用んさるものである。適当な刺激はその能力を発達せしめ、その能力を用ひざるに於いては暫次衰退する。

(略)

現代医術の如く、他動的に体内の病毒を無毒にする方法のにみに腐心し、自然の能力を藉ることを知らざれば、人間固有の抵抗力、癒能力を減退せしむるの結果に至るは理の当然ではないか。

先日、

「野口晴哉師の著述が古典のようだ。」

という方がいたので、念のため現代風になおしておくことにします。
それほど難解ではないかもしれませんが、国語が苦手な人には理解が遠くなってはいけないと思いましたので。


<意訳>
人体には適応する力があって、外部からの刺激に抵抗する力をもち、変化に適応する力をもっています。人力車の引き手の脚や鍛冶屋の腕は太く強くなるし、ホームレスの皮膚は屋外の冷たい風に耐える事ができるようになり、女性の骨盤は大きくなり、熱帯地域に住む人は肌が黒く、湿度の高い地域に住む人は皮膚が黄色くなり、寒冷の地域に住む人たちの肌は白くなり、髭は剃るほどに濃くなります、これられは人間の体がもっている適応力が働いて得られたものです。様々な体への刺激は、その刺激に対して対応する能力を高めますが、その適応能力を使わずにいるとその能力は衰退していきます。

現代の医術のように、体の中にはいった毒素や病気の元を除去あるいは無毒にする事だけを考えて、本来、体が持っている適応能力を使わないでいると、人間が本来もっている抵抗力、癒能力は低下して機能しなくなるのは当然の事です。


この文の解説は四面楚歌に掲載しています。
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東京(蒲田、日暮里)の整体について

東京と日暮里の整体の日程です。
日暮里は空きが少なめですが、蒲田は余裕ありです。

希望される方は電話で申し込みください。



蒲田
日時11月21日(日)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~
 15:30~ 16:00~ 16:30~ 
 17:15~ 17:45~

日時12月5日(日)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~
 15:30~ 16:00~ 16:30~ 
 17:15~ 17:45~

日時12月19日(日)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~
 15:30~ 16:00~ 16:30~ 
 17:15~ 17:45~

日暮里
日時11月22日(月)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~ 15:00~
 15:45~ 16:15~

日時12月6日(月)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~ 15:00~
 15:45~ 16:15~

日時12月6日(月)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~ 15:00~
 15:45~ 16:15~

日時12月6日(月)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~ 15:00~
 15:45~ 16:15~ 16:45~
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