ブログ「日々整体」

客観的に自分をみた話

ある日、


「耳鼻科にいって、ほっておくと耳が聴こえなくなるから、薬をちゃんと飲むように。」


なんていわれたそうですが、


「医者がいまいち信用できないし、薬も嫌だから飲んでない。」


なんていう人がやってきました。
いわゆる突発性難聴というやつで、耳鳴りもかなりきつめに鳴っているようです。


平たく言うと非常に私の考えに近い方といえるのです。
しかし、実際にそういう人が目の前に現れた時に、私は、


ドン引き


しました。
それで、


「私に接した人は私にこういう印象を持つわけか・・・。」


と、いうことに気が付かされたわけです。

似たもの同士は反発するといいますからそのせいかもしれません。
ただ、ちょっと掘り下げて話を聞いてみたら、それなりに筋の通った考えをもっておられる方でした。だから、むやみに医療に対して不信感をもっているというわけではありませんでした。

医療に対する考え方は人それぞれでいいのじゃないでしょうか?
ところが、今は、医療に対して120%信頼して自分と自分の家族の体を全て託さなければならないみたいな風潮があったりします。

例えば、


「子供が熱をだしたときにどうするか?」


というケースです。
病院に連れて行かないのは虐待だとか言われるケースが増えてきているように感じています。病院は全知でも万能でもないのですし、ついさっきこられた方なんかは、


「風邪なんか長くても2日寝ていれば治る。」


と言っていました。
薬で強引に症状を抑え込むのをよしとせず、本人の体の治癒力で治すのがいいなんて考える親がいたって別にいいと思うのです。ところが、それを許さない人がかなりいたりします。

起立性調節障害なんかは医療のやり方が原因で起こっているケースがあります。
ほかでは、ニュースになっていましたが、ネプチューンの名倉潤さんはお医者さんの言うとおりにしたら仕事ができなくなりました。これ、私は同様の事例をいくつもみていますのでどういうことが起こっているかは四面楚歌の方に書いておきました。さっき述べたとおり医療が全知でも万能でもないという例はいくらでも転がっているわけです。


それで、ドン引きしてしまった理由ですが、盲目的に医者に身も心もすべてを投げ出さなくてはいけないというのと逆に、


「医療はまったく信ずるに足りない。」


と言ってるように最初は感じてしまったのだろうと思えます。


「極端な物言いは相手をドン引きさせるのだなぁ。」


と、ちょっとだけ我が身を振り返って反省してみようと思いました。
関連カテゴリー< ブログ突発性難聴耳鳴り(耳なり)

それは前世の因縁が原因です

どの本だったか忘れましたが、整体という技術の創始者である野口晴哉氏の著書に息子さんが大腿骨を折ってしまった時の逸話があります。ぶらんこに乗って遊んでいたら転落してその際にへし折れてしまったそうです。

いわゆる完全骨折という奴だったと思われます。
大腿骨は人間の骨で一番堅いと言われている骨でそれが完全にへし折れてしまうなんてのは他で聞いたことがありません。しいてあげるならいうならゴミ収集車のプレスに挟まれたとか、そういう事故の話を聞いたことはありますがそれぐらいの出来事がなければ起こることはまずない怪我といえるでしょう。

私の感覚からすると大腿骨が折れてしまうと、生きる力を失ってそのまま亡くなってしまう事もありそうな気がします。そして、もし安静な体勢を保って骨が繋がっても、元通りに歩けるようになることもほぼないのじゃないでしょうか。骨は折れてもまた繋がってさえいればいいというほど単純ではありません。

そういえば以前に、スキーで足の骨を折った後、食品アレルギーで頻繁に寝込むようになったなんていう人が整体にこられていました。
骨の故障が元になってアレルギーを起こすなんてのは理解できない人の方がおおいのじゃないでしょうかね。よく勉強して頭のいい人ほど、関係なんかあるはずがないというかもしれません。でも、骨というのが体を支えるためのものではなく、もっと他の役割の方が大きいはずなんですけどね。そういうことがわかっていれば、生まれついてのアレルギーなんてのは発育にちょっと問題があるだけというケースがほとんどだと思われます。


さらに余談が続きます。
当時だとこのあたりの関連についての理解が浅かったです。しかし、この方のアレルギーの事も今ならわかるかもしれないと、ここのところずっと考えていました。実は、この記事のテーマもそうなのですが、わからなかった事がわかるようになるというのは、たいていある日突然です。皆目見当がつかない、手の施しようのなかったものが、ある日突然にどうにかできるようになったりします。日頃の行いのよい人なんかだとそういうタイミングで私のところへやってきて、ささっと解決して、ささっといなくなったりしますね。


話を戻します。

野口晴哉氏の骨折の手当は独特でした。
骨がおれた場合、曲がってくっつくといけないからギブスで固定するというのが常識的な感覚でしょう。しかし、野口氏はガチガチに固定せず太ももに新聞紙を巻いたそうです。当然ですが、新聞紙には固定する力はありませんから、ぷらんぷらんの足の状態です。

「人間の体には、骨をまっすぐにつなげようとする力がある。」

という考えだそうです。
骨自身、骨の周囲の筋肉やその他の細胞などすべてが足をまっすぐに伸ばそうという働きをするからギブスがあるとそれを邪魔してしまうということのようです。他の部位の骨でしたら多少は曲がってくっついても誤魔化しはきくのでしょうけど、大腿骨ですとそういう訳にはいきません。大腿骨がうまく機能しなければ走るどころか、歩くことすらままなりません。もし、多少は歩けてもすぐに足が痛くなって動けなくなるというような状態では、骨がきっちりくっついて治ったとは言えません。

そういえばちょうど私がいま見ている人に、腕の骨折が原因でパニックを起こしている人と、同じく腕の骨折が原因で耳なりで困っている人がいますね。一人は10年以上前、もうひとりは30年以上前の怪我です。こういうのは骨の状態がきちんとみれる人でなければどうしたらいいのか検討もつかないでしょう。

さらに付け加えて、


「どうしても辛くてどうしたらいいのかわからなくて前世を見てもらったことがあります。」


なんて人が最近来られました。
別に、そういう事を吹聴しているわけでなく、あまりに辛かったからでしょう。かなりがっついて原因を教えてくれといってくるので、


「前世でなんか悪いことしたみたいですね。」


と冗談で言ったら、冗談になっていなかったという話です。
まぁ、この方はまた全然違うことが原因だったみたいで、まだはっきりとは言えないけど多分体のここにこういう問題があるからですよと伝えたところちょっと安心したようです。


話を戻します。


他の本で見たと思うのですが、雪山で遭難して骨折したけど、その骨折した足で自力で山を下りてきたなんていう人の体の状態を観察した事があるようです。

「折れていても歩けるじゃないか。」

と、そういうことが事実として起こったわけです。
私自身でもそんな話は2~3聞いたことがありますから、雪山を歩いておりるぐらいであれば骨は折れていても大丈夫らしいというのは間違いないわけです。そこから端を発して骨、骨折というものについて考えを深めていくと、こういう結論というか発想にたどり着くのではないでしょうかね。

もちろん、折れた足を新聞紙でくるんでおわりではありません。


「もし、うまく繋がらなかったらは僕は整体を辞めるよ。」


そういって目に手当てをしはじめたそうです。
先ほど述べた骨をまっすぐにくっつけようという働きを高めるために、目に意識と力を集めたわけです。


「どうして目なんだ?」


この記述をみたのは5年前だったか、10年前だったか忘れました。ただ、目に意識と力を集めることで折れた大腿骨がまっすぐにくっつくなんていう理屈が私の想像や理解の完全な外にあります。それで、


「いつかわかる時が来るのだろうか・・・?」


死ぬまでたぶん無理だろうなぁなんて思っていたのですけどね。


それがつい先週のことですけど、


「なるほど、そういうことか・・・。」


と突然、気がつくことができました。
確かに、目がしっかりしていると太ももの力というか働きがたかまりますね。それは逆もいえて太ももが力を失っていると目がうまく見えなくなってくるはずです。

なんで気がついたかというと、大腿骨の力が抜けている人の体を見ていたからなんですけどね。で、その人が訴えているのは、


「膝が痛くてまともに歩けない。」


という事だったりします。
おそらく読んでいる人は、私がいったい何を伝えようとしているのか全くわからないと思いますけどね。こんなものは現時点での私にはうまく説明なんてできませんから、詳しい説明をするなんて事はもう諦めてしまおうと思います。そのうち、気が向いたらというか、言葉になりそうになってきたらこっそり開始している闇ブログの方へまとめてみようと思います。

それまでは、こういう事は、


「前世の因縁が原因です。」


ということにしておこうと思います。


いい忘れていましたが折れた大腿骨はちゃんとくっついて、数年たった時には、


「どっちの骨を折ったんだっけ?」


と本人でもわかららないぐらいなんの後遺症もなくきれいに繋がったそうです。

日本くよくよ協会の発足を提唱します

「くよくよ考えるのはダメなことだ。」


誰が言い出したか知りませんが、とんでもない勘違いです。
くよくよ考えてしまうのであれば、そうして考えて迷っておけばいいのです。ところが、プラス思考でなければ人間としては認めないみたいな世の中になってきてしまっているせいでしょうかね。くよくよと考えこんでいると人格を否定するような事をいってくる人がかなり増えてきてしまっています。まぁ、確かに周囲にそういう人がいて、心配してもしょうがないような話を延々とされるのは私だって煩わしいですけどね。

ただ、この煩わしいというがポイントです。
煩わしいから聞いてられないだけなのです。で、


「プラス思考で前向きにならなければダメだ。」


なんて言って口封じをしてしまうわけです。


ただ、これは共感できない人に話かけるからそうなるだけだといえます。
ですから、共感してもらえる人にくよくよと話かければすべて解決するはずです。ですから、くよくよと考えこんでしまう人たちが週に1回ぐらい集まって、日々の心配事についてお互いに話あえばみんなが幸せになれるはずなんですけどね。


くよくよするという事はどういうことでしょうか?
辞書を紐解くと、『いつまでも気にかけて思い悩む様子』なんて書いてありました。このいつまでもっていうのはどれぐらいの期間を意味するのでしょうかね?それで思うわけです。


「人間というのはどれぐらいくよくよし続けていられるものでしょうか?」


いつもくよくよしてしまうという人はどれぐらいの時間くよくよできるか試してみるといいのです。
おそらくですが、かなり頑張って1~2日ぐらいじゃないでしょうかね?くよくよするというのは結構エネルギーを消費するもので、そんなに膨大なエネルギーを抱えている人はあまりくよくよはしませんから、すぐにくよくよする力を不足させてしまって、気持ちが切り替わってしまうはずです。つまり、半端にくよくよするから延々とくよくよしてしまっているわけですね。


このエネルギーってのはどういうものかはうまく説明するのがなかなか難しいのです。
整体においてだと気の集まりとか、気の流れとかそういう表現になってしまうのですけどね。ちょっと誤解をさせてしまうでしょうけど、平易な言葉で解説すると、胃に力が集まっているとか、頭に力が集まりすぎているとか、そういう状態のときに人間っていう生き物はくよくよしはじめます。ただ、今の世の中ってこういうものをストレスとかいう言葉で説明しようとするから、耳鳴りとか、めまいとか、不安症とか、そういう体の問題が原因不明みたいな事になってしまうのです。つまり、ストレスなんかとはまったく別物なんです。


単純に、手を握りしめて拳を作ってください。
ぎゅっと握りしめれば手に力が集まっている事はどんな人でも自覚ができることでしょう。また、隣にいる知人、友人に、


「手を強く握ってください。」


と頼んで、その拳の様子を観察してみてください。
ある程度の観察力のある人だったら、手の様子をみているだけで拳に力が集まっていることがわかるでしょう。そして見てわからない人でも、手で拳にふれてみてください。すると、手にどれぐらいの力が集まってどれぐらい固くなっているかを確認することができるはずです。


ところが、これをレントゲンとかMRIで確認しようとしたらどうなりますかね?
私が言う、気の流れとか、気の集まりとか、体のどこにどう力が集まっているかなんてことはわからないんじゃないでしょうか。ちゃんと観察できているようなら私のところへやってきてトンチンカンな事をいう人はもっと少ないはずです。

おそらくある程度経験を積んだ人が見ればわかるはずですけどね。
ただ、撮影する人も、それを確認する人もそういう視点をもっては見てないのであろうと思われます。だから映っているけどそれを認識できていないというのが正確な表現になるのじゃないでしょうか。まぁ、ひと目見てわかるようなことを、わざわざ何億円もするような機械を使って確認しようなんて事をやってりゃ見えるものも見えなくなってしまうのでしょう。



さて、くよくよするというのは頭だったり胃だったりに力が集まったときにするものです。
何のためかと言うと、集まった力を発散するためのものです。だから、ちゃんとくよくよしていれば、発散されてくよくよしなくなるし、たいした量の力が集まるわけではありませんから、そんなに長い間くよくよしていられません。半端にくよくよして、気持ちを切り替えようとするから、うまく力が発散されなくて延々とくよくよしてしまうわけですね。人間、落ちるところまで落ちればあとは這い上がるしかないなんていうのはこういう体の変化を表現している言葉だと思いますけどね。


ついでにいうと、こういうのは頭とか胃に力が集まりやすい体質みたいなものです。
ですからくよくよしないようになりたいなんていうのであれば、1回死んで生まれ変わるしか方法がありません。来世があるとして、生まれ変わっても人間として生まれてくるかなんてのは怪しいし、ミジンコあたりに生まれ変わったら目もあてられませんから諦めてくよくよしておくことですね。


ただ、そうでない体質の人に向けてそういうエネルギーを発散するのはあまり面白くありません。
そこで、私は日本くよくよ協会というものの発足を提唱しています。くよくよしてしまうという、似たもの同士で集まって一緒にくよくよしておけばよいのです。定期的に近所のファミレスあたりに集まって、お互いにくよくよ自慢をしましょう。そして、もっともくよくよしている人を表彰して称えましょう。そうすれば、きっとみんなが幸せになれるのは間違いありません。





私を馬鹿にするためだけにやってきたのだろうか?

ある日のことです。
京都の北部からやってこられた人がいたのですけど、体を見る前におかしなことをいいだしたので帰ってもらうという事がありました。耳鳴りが辛いということで相談にこられたのですけど、話を聞いたらその耳鳴りの原因は体をみるまでもなくすぐにわかりました。こちらのブログで紹介したこともあるような非常に多いパターンでしたから、おそらくそれほど難しいという事はなかったでしょう。


その方は、耳鳴りが起こるのは、


「これこれこういうことですよ。」


と説明したら、


「いや、それは・・・。」


なんて返事です。
それで、何を言い出すかと思えば、お医者さんにどういう診断をされているかということを延々と説明してきます。どうも私が医者と違うことを言うのが気に食わないらしいのです。それでも担当した医師が言うとおりにして、耳鳴りがとまるのであれば、それでもいいのですけど、全然トンチンカンなことをずっとやってきていたようで体がどんどん悪くなっているのが話からわかりました。まぁ、現在の医療のやり方では耳鳴りの原因なんてのはまったく検討がついていないわけですから、そんなことになってしまっているのはやはり珍しくもないわけですよ。


で、最初はそれなりに丁寧に説明をしていたんですけどね。


「いいや、それは違う。」
「それは受け入れられない。」


なんてことを言い出すもんで、


「あなたは私の説明は一切受け入れないのに、私にいったい何をしろというのですか?」


と聞くと、また医者にこれこれこういう診断を受けているなんていう話がはじまります。



「それじゃあ、仕方ないからもうお帰りください。」


という事をいいました。


結局、わざわざ遠方からやってきて、この人がやったことは、


『私の耳鳴りについての説明を全否定した。』


というだけのことだったりします。
それで、


「わざわざ遠くから来たのに無駄になってしまった。」



なんて捨て台詞をはいていくのです。
無駄にしたのは私ではないだろうと思いますけどね。ちょっと理解する事が難しい行動と発言で、いったい何を期待してわざわざやってきたのかと不思議で仕方がありません。少なくとも医療と違う考え方や技術について理解をしようとする気持ちが持てないのであれば私のような人間のところに来るべきではないと思うのですけどね。


ちなみに、こういう感じの人がこの1週間で3人ほど私に絡んできています。
で、私が思ったことは、


「あぁ、春がやってきた。」


ということですかね。
できればもうちょっと潤いのあるもので季節を感じたいものです。

関連カテゴリー< ブログ耳鳴り(耳なり)

マスクに感じる違和感

当時としては、まっとうな事でも後になってみると馬鹿な事をやっていたなぁと思われる事があります。
医療で言えば、戦後ある特定の病気の特効として開発された薬が、年数が経過すると毛がはえる薬としてしか利用されなくなったなんて話を聞いたことがあります。


ただ、医療の話は今回はおいておいて、歴史にちょっと触れてみたいと思います。
蘇我入鹿を暗殺して大化の改新の立役者になった藤原鎌足を知らない人はいない事でしょう。暗殺の時には、中臣性を名乗っていましたが、後に藤原に性を変え、その後、日本の歴史ではどんな時代でもでてくる藤原家を起こした人でもあるようです。遣唐使として儒学を学んだ人に師事して、秀才とうたわれる非常に優秀な人だったそうですね。

藤原鎌足の墓は大阪の高槻市にあります。
私は高槻の生まれでしたので小学生の頃から山の上に遺跡があるのは知っていました。ただ、発見だけされて発掘はまだという状態の遺跡でした。発掘が始まったときはたしか高校生で、この墓はどうやら藤原鎌足の墓らしいとかなり大きな報道になっていましたのが記憶に残っています。

藤原鎌足ですが、遺体を調査したところ髪の毛からヒ素が検出されたそうです。
ヒ素はいわゆる毒です。で、どうも藤原鎌足の死因はヒ素を飲んだ事による衰弱死らしいと、当時そういう風に報道されていました。その後、違った情報は聞いたことがありませんから、今でもその見解は変わっていないのでしょう。ヒ素を摂取した理由ですが、不老長寿の薬として飲んだものに含まれていたのだろうということです。当時は、不老不死の薬なんてものを権力者に売って金銭を得るような輩がいたわけですね。


不老不死というワードで私が連想するのは秦の始皇帝です。
秦の始皇帝は暴君として扱われる事の多い人物です。しかし、中国の歴史上で誰もなしえなかった中華統一を初めて達成した人物です。当然ですが、その部下にも優秀な人たちがたくさんいます。実は、私にもっとも強い影響を与えている歴史上の人物は始皇帝の宰相を務めた李斯という人だったりします。

李斯は、始皇帝に、


「大事業をなすものは、広い心を持ち、他人の意見をよく取り入れなければなりません。泰山が大きいのは土を選り好みしたりしないからで、長江が豊かな水量を蓄えているのは流れてくる水をすべて受けて入れているからだ。」


なんていう意見をした人です。
始皇帝はこの意見を受け入れて外国人である李斯やほかの優秀な人たちに重要な仕事を任せて中華統一を達成しました。愚かな暴君と宰相として描かれている事が多い始皇帝と李斯ですが、この一事だけみても非凡な人たちだっというのがわかるんじゃないでしょうかね。

で、始皇帝ですが中華統一後、詐欺師に騙されています。
海の向こうにある仙人の国にいって不老不死の薬を取ってくるといわれて、船、金、女、ほか様々な貢ぎ物を差し出してしまったのです。何年たっても返ってこない、詐欺師に始皇帝は何を思ったでしょうね。

ちなみに、この詐欺師ですが日本にやってきて奈良あたりに国を作ったなんて言われています。実際に、それらしい遺跡も残っているらしいです。その子孫が藤原鎌足だったりしたら笑えないジョークなんですけどね。

不老不死を追い求める気持ちというのは当時であれば不自然な事ではなかったのでしょう。藤原鎌足や始皇帝といった優秀で偉業を成し遂げた人たちですらそこに違和感は感じていなかったのではないかと思われます。


聖徳太子が仏教を取り入れるのは大化の改新より前ですけどね。
小学校じゃ、仏教をとりれた理由なんていうのは一切説明されませんでした。おそらく権力をもった人たちの規範となる考え方というのか必要だったんじゃないかなぁと。でも、藤原鎌足の死因なんかをみてみると諸行無常が定着するのはまだまだもうちょっと先の事になるということなのでしょうかね。

さて、今の時代に生きる私たちからみると不老不死を求めた始皇帝や藤原鎌足は馬鹿な事を考えていたと言えます。しかし、彼らは非常に優秀な人たちでした。毛生え薬しかり、振り返って考えると愚かな事であっても、その当時の感覚だと常識だったり当然の考えだったりする事があるわけです。


で、今現在の社会で行われている事で馬鹿な事をやっているなぁと思うことがいくつもありますが、その際たるものが、


「マスクによる感染予防」


です。

私の感覚からすると、マスクによる風邪の予防は非常におかしな考えと行動です。
このことを説明するのに、


「家の中を無菌にして生活していれば健康で元気に暮らせる体になるのですか?」


と、いつもこのような質問をします。
たいていの方はこの質問をすると気がつくようです。そんな暮らしをしていればどうなるか、答えは簡単で、


「外出した瞬間に病気になるようになる。」


という事です。


健康であるということはどういう事かを考えてみてください。
健康であるということは丈夫であるという事です。家の中を無菌状態にして生活していれば、菌に対抗することができない体になります。家の中に引きこもって外出できない体になって、


「でも、私は病気はしていないから健康だ。」


こんな事をいっている人がいたらどう思いますかね?


子育てで考えてもわかりやすいですかね。
子供を過保護にしすぎれば貧弱、虚弱な人間として育つだけです。世の中には楽しい事や嬉しい事はいくらでもあります。でも、それ以上に辛いこと、悲しいこともたくさんあります。自分の子供には辛い思いを一切させたくない、楽しい思いだけ感じて育ってほしいなんていう子育てをやっていれば人の気持ちがわからない人間になるだけのことです。他人との関わり合い方や距離感なんてのは、生活してゆく中で喜怒哀楽を感じながら身につけてゆくものではないでしょうか。だから、子育てに必要なのは守ってあげる事ではなく支えてあげることなんじゃないでしょうかね。

そういえば昨年どうしても耳鳴りが止まらないという人がいました
ずっとおかしいなぁと考えていたのですが、原因に気がつくのに1年近くかかってしまいました。しかし、唐突に思いついて、


「あほみたいにうがいをしていませんか?」


と質問してみました。
すると、正解だったようです。うがいだってやらずにすむ体が丈夫だという事です。のどだって過保護にしてしまうと弱ります。喉は弱いけど体はばっちりですなんていうのも当然ありえませんかあら、耳鳴りだって止まらなくなってしまいます。


マスクをして生活していれば、マスクなしでは生きていけない体になります。
そんな体で、


「私はマスクをしていれば健康でいられる。」


なんて考えているのです。
私には不老不死を追い求めた藤原鎌足や始皇帝の姿が浮かんできますね。きっと頭がいいからこんな勘違いをしてしまうということなのでしょう。


まぁ、この考えが妥当なものかは、後世の歴史家たちに委ねる事にしましょう。
始皇帝、李斯、そして藤原鎌足は自分の生き方を恥じるような事はなかったと思います。後生の人たちに何をいわれようが、私は私の生き方を全うするだけですかね。マスクを利用したければすればいいでしょう。しかし、マスクをするということの意味をちょっとは考えてみてもいいんじゃないでしょうかね。


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