ブログ「日々整体」

膵炎の理解と治療:整体の視点から

膵炎の整体についての質問がいくつか溜まってきたので紹介しようと思います。
膵炎とは膵臓がなんらかの理由で腫れるという病気です。ネットで調べてみるとすぐにわかるかと思いますが、簡単に説明すると、

"理由はよくわかりませんが、腫れているから炎症に対する処置をして様子をみましょう。"

というような治療が行われます。
膵炎はいくつかのケースに別れていて原因がはっきりしないケースの方が圧倒的に多いようです。急激に膵臓が腫れてしまうことがあるようですが、この場合は、急性膵炎といって、お酒の飲み過ぎや胆石といって胆嚢の異常が原因で急激に腫れてしまうことがあるようです。ただし、このケースでも、お酒の飲み過ぎが必ずしも膵炎を引き起こすわけではありません。実際、お酒の過剰摂取が膵臓の炎症を引き起こすケースは稀です。一応、このケースにおいては治療法が明確に確立されているようですが、結局のところは対処療法でしかありません。

以前に私が実際にみたケースも紹介しておきましょう。
その方は医師の診断ミスによって苦しんでいました。背中がいたいということで通院したのですが、腰痛という診断を受け、湿布薬を処方してもらっていました。しかし、どうも変だということで私のところへ相談にこられたのです。体の様子を観察して腰痛という診断は誤りであると判断し、内臓になんらかの変調が起きているからどうしても医者の治療を受けたければ、他の病院へ行くようにアドバイスをしました。すると、私の見立ての通り急性の膵炎だという診断を受けて適切な治療を受けていました。

余談ですが、この方は急性膵炎という診断を受けていましたが、体を壊すほどの飲酒はしていませんでした。

このように大半の場合は原因不明というのが現実であろうと思われます。
少なくともこれまで私が膵炎ということで関わった人たちの中に、なにかしらはっきりとした原因がわかっている人は皆無です。

さて、このように悩ましい膵炎ですが、整体的に診ると体のどこに問題があるかは割とはっきりとしています。ポイントになるのは、頸椎1,2番、7番、胸椎1番です。この4つの椎骨は深く関わりがあるのでそのうちのどれかに問題があると全てに問題が生じるといってよい関係性をもっています。また、頸椎1,2番に問題があると、医学的には自律神経失調症といわれる様々な不調や症状が起こります。

この点から考えると、自律神経の働きに不調が起こってその結果、消化器系の内臓である膵臓が炎症を起こすというのが正確な表現になるのではないかと考えています。多くの人にとって残念なことは、自律神経系と消化器系というように、複数の系統にわかれて生じる体の不調を解決するのは医学がとても苦手にしているということでしょう。

膵炎に関してはどのような問題なのかをきちんと把握できていなかった時期もあるのですが、最近、うまく解決できるケースが続いています。おそらくかなり正確に理解できるようになってきたのではないかと考えています。膵炎は症状が軽くても原因がはっきりしないので、延々と薬を飲み続けなければいけないという煩わしさもついてまわることもありますので、もししっかりと対処したいのであればご相談頂ければと思います。
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時間とともに変わる答え: 人生最後の日についての考察

20代後半に自己啓発セミナーに傾倒した時期がありました。。
その時に頻繁に投げかけられた質問に、

「明日、死ぬとしたら今日はどのように行動しますか?」

というものがあります。
自己啓発セミナーに参加しているということは現状に大いに不満を持っているのですから、この質問は私の心を大きく揺さぶります。しかし、熱心に仕事に取り組んでいる時期にこの質問を投げられたとしても、それほど大きな影響は与えないと思います。

この話は、癌といった不治の病に対しての医療の姿勢を思い出させます。
私が子供のころは、癌の本人への告知は行わないというのが当たり前でした。もうすぐ自分が死んでしまうという状況に直面したときに、ほとんどの人は生きる気力を失ってしまうと考えられていたからです。ところが、本人への病気の告知をしないままの病院での治療は家族の負担がかなり大きなものになるそうです。だからこそ、次第に本人へ告知した方がよいという考えが生じてきたようです。

そして、実際に病気の告知をうけた人の大半は、残された人生において自身の仕事に熱心に取り組むようになったそうです。自分の死に対して正面から向き合うことによって、残った時間を有意義なものにしたいと考えるようです。

この話を聞いて面白いと感じましたし、私自身もこうなるだろうと思えました。
だから、明日、死ぬとしたら今日はどのように行動しますかと問われたら、

「別になにも変わりません、いつもどおり仕事をすると思います。」

と答えるような気がします。
また、常にこのように答えられるよう、日々過ごしています。

ちなみに、日本人は、仕事とアイデンティティが密接に関わっているそうです。
その結果、自分の仕事への役割や責任感がとても大切だと考えられているようです。家族を顧みずに仕事に没頭するというと、問題があるような風潮があるようですが、それもまた生き方の1つと言えるのかもしれません。

さて、先日、ある本を読んでいて、

「明日、死ぬとしたら今日はどのように行動しますか?」

という質問がありました。
その時、思ったことは、

「息子にちょっといい肉を買って帰ろうか。」

ということでした。
年をとることで、自分の内面も結構変化しているなと自覚した次第です。
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LGBTQ+と社会:理解には時間がかかる

最近、LGBTQ+の話題を目にする機会が増えてきましたのでそれに纏わる話をしてみようと思います。
私は身体は女性だが内面は男性だと感じている人に会って話をしたことがあります。その方は、基本は男性的な感覚で生活をしているそうなのですが、まれに女性としての面がでてきて混乱してしまうようです。

それで、以前にテレビでみたある男性の話をしました。
その男性は自身の中に女性的な面があったそうです。それで休日に女装してでかけるようにしたそうです。女性としての振る舞いは最初うまくできませんでしたが慣れるにしたがって、周囲からも女性として扱われるようになったそうです。平日は男性として仕事をして、休日は女性として過ごす、この方はそのような生活でうまくバランスがとれたようです。

この男性を真似て、男性面が強くでているときは車でドライブに行ったりして、女性の面が強くでてきているときは料理したり、裁縫したりすればいいのじゃないかといいました。実際、その女は普段はフットワークが軽く車であちこちにでかけてましたし、女性面が強いときに裁縫や料理に興味が湧いてくると言っていたからです。うまくバランスがとれれば、休日に女装する男性のように、男性としての良い面と女性としての良い面が両方楽しめかもしれません。

彼女にとってこのような発想は新鮮だったようです。
若い頃には体が女性であることが受け入れられないようなこともあったそうです。ただ、この感覚は先入観や罪悪感といったものから生じるのではないかと考えました。おそらく、内面として男性であるという感覚があるにも関わらず、自身の体が女性の形であるという事実が受け入れられないことが原因なのではないかと私には思えます。

過去の中国の宮廷には宦官という地位がありました。
皇帝の後宮で仕事に従事するために、男性器を切り落とした役人です。著名な宦官に史記をまとめた司馬遷という人がいます。彼は、真っ当な発言をしたにも関わらずその内容が王の意に沿わず死刑になるか宦官になるかを選択させられた人です。それで、この宦官という役割は2000年ほど続いたのですが、宦官が男性器がないことを苦にしていたというような記述は見たことがありません。

また、アマゾネスという民族のことを聞いたことがある人もいることでしょう。
女性だけで部族を形成していてたまに男性をさらってきて子供を作ったらすぐに殺してしまうという生活をしていたとか。アマゾネスは、弓を引くときの邪魔になるという理由で片方の乳房を切り落としていたそうです。おそらくですけど、アマゾネスには乳房がないことを嘆くような女性はいなかったのではないでしょうか。

私の考えが一部の人には強引に感じるかもしれませんが、存在するべきでないものが存在しない、また存在するはずのものが存在するという事実、どちらも私にとっては同じ意味を持つのではないでしょうか。
もちろん全く違う性質や状況であれば話も変わってくるとは思うのですが、性に関わる体の特徴の問題だと捉えてしまえば同じものなのだろうと考えられます。そう考えれば、自身の体に関わる違和感の本質は、

「女の体、あるいは男の体についてのイメージ、先入観、そして周囲からの視線。」

という点に集約されるのではないかと私には思えます。

LGBTQ+の問題をこのように捉えると体と性の感覚がずれている人がいるということを多くの人が認識することができればそれでおしまいなのではないかと私には思えます。中国の宦官のように、宦官としてのその地位と立場が保証されていれば男性器がないことを苦にする人はおらず、むしろ宦官になることを自ら選んだ人が大勢いたのですから。

最近、LGBTQ+に関わる様々な問題はその認識を広める過程で必要な手順のほとんどを省略してしまっているせいで起こっているように思います。

先日見たニュースによれば、都心のある駅の女性用トイレを利用しようとした女性が、明らかに男性に見える人を見つけて、そのことを駅員に伝えたところ、駅員からは

「その方は、内面が女性なので女子トイレの利用は適切で注意ができません。」

という返答があったそうです。
男性にしか見えない人が女性用トイレを利用するという事態は、女性にとっては怖い経験になり得ます。しかし、この女性がトイレの利用について問題提起をしたことで、

「その女性の認識が古い。」

と批判されるような風潮があるようです。

この話を聞いて、私はタスマニア人が同じことを感じているのではないかと思いました。
タスマニア人はイギリスのクック船長がタスマニア島に到着した際に存在していた先住民族です。キリスト教信者ではないから未開の野蛮人であるという考えに基づいて西洋人の文化とキリスト教を教え込まれようとしました。しかし、タスマニア人は誰一人として、それを受け入れることができず全ての人が亡くなってしまいました。彼らには彼らの習慣や信仰があったと思うのですが、ある日、突然にそれらすべて間違っていると取り上げられてしまったら、生きていることができなくなってしまったのです。

もしかしたら、その思想を受け入れられなければ生きていけないとしても、今でもそれなりに快適に、そして幸せに暮らしてきた古い私の頭では、

「そんな急激に価値観や考えを入れ替えるのは無理。」

タスマニア人も同じように感じていたのではないかと思うのです。

もちろん、LGBTQ+の人々は自分たちのアイデンティティを認めてもらい、社会がそれを尊重し認識することを求めていることは理解しているつもりです。繰り返しになりますが、認識や価値観はすぐさま切り替えられるものではないということを念頭において欲しいと思うのです。
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「2040年の日本」から見える高齢化社会の真実

『2040年の日本』 野口悠紀雄著 幻冬舎新書を読んでいたら興味深い記述があったので紹介したいと思います。

世間でいういわゆる介護が必要な状態を要介護、要支援といいます。
薄々感づいている人もいるかと思いますが、85歳から90歳の人々が自力で生活できない、要介護または要支援の状態になる確率は50%、そして、その年齢が90歳を越えると、この数字はさらに増加して78.2%に達します。楽天家なあなたが、21.8%という介護不要の確率を見て、健康を気を配り、日々運動を続ければきっと大丈夫だと思うかもしれません。しかし、もしあなたが結婚して夫なり妻なりがいた場合、その夫婦が2人とも介護が不要な状態でいる確率は4.75%になります。四捨五入して5%として、自分がその5%に入ることがきっとできると思う人は、楽天家ではなく夢想家と言わざるを得ないのではないでしょうか。

しかも、悪い話はこれだけではありません。
これから老齢を迎える夫婦には両親がいるはずです。私は父が25歳のときに生まれたので、それを例にして考えてみますが、両親が80代を迎える事になります。結婚をしていますから、妻に両親がいる訳です。だいたい同じ年代だろうと考えて電卓を叩くと、私が55歳のときに4人の父母が介護が不要な状態である可能性は、6.25%、65歳になった時には全員が元気で介護が不要な状態である確率は0.21%になります。

現実としては、私と妻の父は既に亡くなっていますから状況は少し違いますが・・・。

厚生労働省が提唱する「人生100年時代」の現実は、実はこのような状況なのです。
もし日本という国が医療が行き届いておらず、これから医療状況が劇的に改善してゆく余地が残っているというのであればまだ希望も残っていたかもしれません。しかし、現実は医療が隅々にまで行き渡っており、必要と思われる医療的なケアは、既に十分に受けることが可能という状況です。しかも、私の家の近所には広場があるのですが、その広場では早朝に老人たちが集まってラジオ体操をしていました。そういう人たちはきっと食事などにも十分に気を配っていることでしょう。私は、医療の進歩が本当に我々を幸福にしているのか、そして、医療が本当に進歩しているのかを再評価すべきだと考えます。

さて、ここまでは現時点での医療技術の話で将来的にはきっと改善しているはずだと思う人もいるかもしれません。米カリフォルニア大学において、2050年までに達成される医療技術として以下のようなものが挙げられています。

・ガンが克服される
・バイオニックアイによって視覚障害者はいなくなる
・遺伝子編集が可能になる
・精神医療剤が抗生物質と同じぐらい効果がでるようになる
・人工内臓が開発される
・失った歯が再生される

などをあげているそうですが、残念ながら要介護の人がむくりと起き上がって元気に活動をしはじめるということについての医療技術の研究は達成される見込みはないようです。

医療技術の進歩は少し誤った方向に進んでしまっているのではないでしょうか?
実は、最も死ににくいのは認知症の寝たきりの状態です。必要な栄養を摂取して、心臓が止まらないように常に細心の注意が払われているのですから当然です。つまり、死なないようにしているとその行きつく先は寝たきりの状態だということがいえます。ところが、多くの人に、寝たきりになりたいですかと問うと、すべての人がそれは嫌だと答えます。

死なないようにするということと、生きるということは現在ではまったく違う意味を持っているのです。この書籍で紹介している数字を確認してもらうと私の意図する意味を理解してもらえるかもしれません。

なお、老いを克服するという研究に資金が集まっていますからその研究成果に期待するのでもよいかもしれません。しかし、もしその研究で成果がでなかったときにどういうことになるかは考えておいた方がよいのではないでしょうか。

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3ヶ月間の体の変化:骨盤の安定と自覚の大切さ

先日、トレッドミルでジョギングをしている時に、骨盤の動きに違いが生じてきたことに気がつきました。違いを簡単に説明すると、ブレが小さくなって、安定している感触が生まれてきたのです。ちょうど運動をはじめて3ヶ月ぐらい経過した頃なのですが、この3ヶ月という期間は、身体が変化し、それを自覚するためにはちょうどよい期間だなといつも思います。逆にいうと、3ヶ月かけて起こした体の変化は確実で間違いのない変化だと思いますね。

この骨盤の変化ですが、スポーツ選手でいう下半身が安定するという状態を想像してもらうとわかりやすかもしれません。走っていて体のブレが小さくなって上半身が安定したように感じます。面白いのは、ジョギングをはじめた頃に下半身が不安定で、上半身がぶれているという感覚はまったくないということです。

ですから安定しはじめた時に、はじめて自分の体の動きは不安定だったことに気がつくのです。また、より高みを目指すのであれば、もっと早いペースで走っても、長時間走っても安定するようにトレーニングしてゆけばよいのでしょう。

ただ、このような変化は気が付けない人も少なくないだろうと思います。
私の場合は、自分の体の小さな変化に他の人より注意を払っているから気がつけるのです。しかし、ほとんどの人はその変化がわからないので、いくらやっても成果があがらないとか言い出しているように思います。実際、整体で体が変化しているのにその変化に気が付けない人は少なくありません。そういう方の中でも、1年前の自分と比べて今はどうですか?と聞くと、言われてみれば変わっていると気がつける人もいたりします。

ダイエットを例にあげるとわかりやすいでしょうか。
ダイエットというのは代謝と食事の変化を起こして安定する体重を変化させるというのがその本質なのです。ですから、その体質が変化したあとに体重に変化がでてくるのです。ところが、体重がいくら減ったかという点にしか注目していないから、自分の体に変化が起こっている事に気が付けず、成果が体重の変化という形で目に見える状態になる直前で辞めてしまう人がとても多い印象です。

こういうことを知っていると、10日で1kg痩せるといったキャッチコピーの商品が全く意味がないものだということも理解できるはずです。
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