ブログ「日々整体」

2023年の書き始め

「しんねん」とタイピングして変換したら信念となりました。
信念なんていう言葉を使った記憶がないのですが、真っ先に変換されたのですからどこかで使ったのでしょう。どうも私の頭というか心の中は怒りの気持ちが渦巻いているようです。そうでなければ、信念なんていう言葉を使う事はないと思います。

新年になりました。
年末から正月にかけては体の状態は悪くなったと感じるはずです。そういう事が起こるぐらい大きな変化が体に起こります。は虫類が脱皮しているのを想像してもらって、それぐらいの変化が我々の体に起こっていると考えると良いでしょう。カニなんかがそうだったと思いますけど、生物によっては脱皮がうまくできなくてそのまま死んでしまう事もあるぐらいの大きなイベントです。多少、しんどくなるのは当たり前なのです。

この先、節分の頃にさらに大きな変化が起こります。
1年でももっとも体調が悪いと感じるのはたいていこのあたりです。気分も当然落ち込みますから、豆まきをして無理矢理と元気になるようにしましょう。豆まきというのがどれぐらい昔からあるのかは知りませんが、古くからあるイベントだと思われます。豆まきなんていうのは元気をだすために行われるようになった行事で、それなりに長く続く風習には何かしら体の変化に応じたものであると考える良いでしょう。

今年もこれまで通り淡々とと整体に取り組んで行くつもりです。
ただ、世間の変化がかなり大きいもののですから、私自身も穏やかでいる訳にはいきそうにありません。船の上でのんびり釣り糸を垂らしていたら、大きな波がやってくるようなものです。ぼけーっとしていたら船が転覆してしまいますから、それなりの対応はしていかなくてはなりません。正直にいってめんどうくさいとおもわないではないのですが、社会とか秩序みたいなものの崩壊を感じさせる兆候をひしひしと感じていますからそれなりの対応はしなくてはいけなさそうです。こういう難しい時代に生まれてしまった事は不幸なのか思ってしまうのですが、難しいからこそそれを乗り越えるだけの力量を身につける機会を得るわけで、それはそれで悪くないという気持ちも浮かんできます。

最初にも述べました、心の中に怒りが潜んでいるとその怒りの発散のために無茶苦茶な理屈を正当化してしまうのが人間という生き物です。平和に、そして穏やかにお互いが幸福になるための道を模索することができるといいと思うのですけどね。

さて、お知らせが1つあります。
四面楚歌のブログを今年で終了にします。もちろんまだまだ書き続けますが、以降は廃止して新しいサイトを作ろうとしています。基本的には私は書くことしか継続できないようなので何かを書くためのサイトになります。まぁ、何かを書くといっても体の事についてしか書きませんけどね。
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年末に思うこと

「毎年こんな感じで過ごしていつか死んでしまって、そんな事を思う事がなく歳が 暮れてゆくのだろうなぁ。」

ふと、そんな事を思って寂しいような、悲しいような気分に浸りました。
他人には、

「とっとと元気になって早く死んでしまえ。」

とか言っているのに、自分が死ぬのはどうも嫌なようです。
おそらくまだこの人生においてやらなきゃいけないことが残っているのでしょう。そんな事に気がつくと、疑問がわいてきます。

「自分は何を成し遂げたら満足して死んでいけるのだろうか?」

たぶん一昨年前までは、今の医療の問題点をいろいろ書き残して、死んだ後にも医療に関わる連中をあざ笑い続けてやれば満足できると思っていました。でも、どうやらそれだけではダメになってきたのかもしれません。

おそらくこの2年で欲が増大してたのでしょう。
もっと強烈な嫌がらせをしてやりたいという気持ちが大きくなってきたのです。このまま生き続ければ、その欲は益々膨れ上がっていくかもしれません。これは、私は絶対に人生に満足して死ぬというのが無理だという事を意味しているような気がします。私はろくな死に方をしない事が確定してしたかもしれません。ほんと、穏やかに死にたいし、変な死に方をするのは嫌なんですけどね。

これは関西に住んでいる人にか伝わらないかもしれませんが・・・

円広志をご存じでしょうか?
円広志は、「飛んで飛んで飛んで飛んで・・・、回って回ってまわーるー。」っていう歌を歌っていた人です。今ではちょっと良い感じのじいさんという印象で関西のローカル番組に出演しています。それで、私は以前から円広志って、口から血を吐きながら苦しいとか言いながら死にそうな気がすると言っていました。伝え聞く彼の人生から、その死に様を想像すると、そんな死に方こそ円広志だっていう印象をもってしまう訳のです。

それで、きっと私も円広志と似たような死に方をするような気がしてきました。
人の事を悪し様にいっていると必ずその報いは受けるというのを実感したように思います。私は残りの人生で自身の死に怯えながら暮らしてゆかねばいけないのかと思うと、とっとと死んでしまった方が楽な気がしてきます。

話が大きくそれたので戻します。
最初に述べていた、

「自分は何を成し遂げたら満足して死んでいけるのだろうか?」

についてです。
苦しむような死に方をするのは仕方ないとして、でも自分の人生に対して納得なり満足なりはしたい訳です。

そんな事を考えていると来年の方針なんてのが浮かびあがってきます。
ポイントは、私が何をすれば連中がもっとも嫌がるか?という事です。この答えは簡単で、医療ではどうにもならかった人を私がどうにかすればよいだけです。この考えにたどり着くと、未来がちょっと明るくなったような気がしますね。まぁ、未来なんていう言葉をあてはめると、胡散臭い事をいっているような気になりますけど。

ただ、この思考にはちょっとまずい点があるような気がました。
それは、私が嫌いな連中に嫌がらせをするために、関係のない人をダシにしているという点です。でも、よく考えれば体の調子が整えば、その人は充実した人生を送って満足して死んでいけるはずなので、そこは目をつむってもらえないでしょうか。

私は嫌いな人間に嫌がらせをするために幸福な人生を送れる人を増やす活動をする訳です。ちょっとひねくれすぎているような気もしますけど、私としてはかなりしっくりくる落とし所という気もします。まぁ、人生をこじらせてしまうとこんな風になるという事で、これはある意味自分らしいかもしれません。なんか格好いい気もしますしね。

そんな訳で、今年1年も無事過ごせました。
私は今年も大きく飛躍できたという手応えを感じていますから、来年も思う存分に嫌がらせをすることができそうです。
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物事を前向きに考える方法

「物事を前向きに考えなくてはいけない。」

どこででも聞くアドバイスです。
私も20代のころにこの考えに取り憑かれた事がありましたが、30代になったらダメだと考えるようになりました。なぜかというと、臭い物にふたをするためにこの言葉を使っている人が多いという事に気がついたからです。

さて、英語の勉強をはじめて4ヶ月ほど経っています。
それなりの英語力にはまだまだ時間がかかりそうですが、勉強していて気がついた事があります。それは自分の思考が使う言語によって大きく影響を受けるという事です。これは受験のために英語を勉強していたときにはまったく気がつきませんでしたね。でも、会話をするための勉強をしていると、そういう事がなんとなく肌で感じられます。例えば、英語でなにかを表現するときは日本語の時より1.5割増しぐらいで誇張して表現しないとうまく相手に伝わらないように思います。

それで、最初の

「物事を前向きに考えなくてはいけない。」

というのもおそらく英語話者の発想だという事もなんとなくわかってきます。
太宰治が書いた手紙を読んだ事があるのですけど、現代に生きる私が読むと稚拙な内容になっていると感じました。その手紙には、

「私はその賞が欲しい、賞がもらえれば私は元気になります、活気がでます、・・・。」

なんていう言葉が書き連ねてありました。
これは芥川賞だったかなにかの賞の審査員に宛てた手紙です。どうも彼が生きていた頃には物事を前向きに考えるという言葉や思考がなかったようだというのがわかります。

「物事を前向きに考えなくてはいけない。」

を英語で表現すると、

Look at the bright side.(明るい面を見てみて、探してみて)

といった具合になります。より直接的に表現するなら、

Think positively. (ポジティブに考えてみよう。)

です。
これが、日本語に置き換わった時に、

You have to tihink positively.(物事を前向きに考えなくてはいけない。)

に変わってしまったのです。

Look at the bright side.
Think positively.

という表現がすでに、日本語の感覚からすると1.5割増しに誇張されたと考えてちょうどよいのです。おそらく英語ネイティブからすると、ちょっとだけでも良い面を探してみよう、どうす ればいいかヒントを見つけようというぐらいのニュアンスな訳ですね。have to は

『遅刻をしてはいけない。』
『約束は守らなくてはいけない』
『人を殺してはいけない』

といった強いルールや規則を表現するフレーズなのだというと、言いたいことは伝わるでしょうか。

このように変化してしまうのは、我々が日本語を使っているからだと思うわけです。
平たくいうと、日本語で考えていると、あらゆる事が「ねばならない。」というルールに変化しまうという事です。日本語の表現はあいまいでわかりにくいと外国人によく指摘されていますけど、日本語が数多くのルールや前提があるから成立する言語なのではないかと思うのです。そして、それらのルールを理解していなければ何を言っているのかわからなくなってしまうという事でもあります。

このことは、体と健康についても同様です。
日本人は皆、

「死んではいけない。」

という思考、思想に偏ってしまっているように思います。
いつか必ず死はやってくるのですから、死んではいけないというはとんでもない矛盾なのです。これもなるべく長生きしたいよねぐらいのニュアンスだったのが、日本語の特性のせいでいつの間にか変化してきたのではないでしょうか。その結果、寝たきりになったり、認知症になったりしている訳ですけど、そんな生き方を本当に望んでいるのかをよく考え直してみた方がよいと思うのです。

さて、物事をポジティブに考える方法です。
これはとても簡単で、英語で考えばよいだけです。日本語で考えると、それは必ずねばならないに繋がってしまって、自分を縛りつける鎖を増やしてしまう事になります。

ただ、英語は習得に時間がかかりますから、はじめの一歩としては、前向きに考えるではなくて、太宰治のように、

「どうすれば自分は元気になるのか?」

と、考えるのがいいのじゃないかと思います。

外来的な思考や思想が混じっていない日本語で考えてみるのは今の我々には不可能だと思えます。
いずれ翻訳機も普及するだろうと思いますが、細かなニュアンスを理解するのはまだまだ何十年とかかかるでしょう。それよりは英語のコミュニケーションを身につけて、掘り下げてちゃんと考えた方がよいなと今は思います。
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回復反応の話

回復反応とか好転反応という言葉が嫌いです。
体の状態を無視して適当に誤魔化しているように聞こえるからです。体に起こっている事にどのようなネーミングをしたってその実態はなにも変わらないのに、回復反応とかいって安心しようとする思考が働いているように感じるのです。まぁ、そういう気持ちがわいてくるのは理解はできるつもりですけどね。

回復を恢復と表現しているのをまれに見かけます。
調べてみると回復という漢字は昔は恢復と表現したそうです。どのタイミングでそうなったかは知りませんが、全く同じ意味だそうです。恢の字は大きいとか、広いといった意味をもつそうです。天網恢々疎にして漏らさずなんて言葉がありますが、これはお天道様の目は広く見渡しているから悪い事をしても必ず見つかるよみたいな意味ですね。一方、回の字には、まわすとか巡るといった意味がありますから、回復の方が適切な字が当たっているような気がします。なんとなくですが、恢復という字は、暴走族が夜露死苦とか書いているのと同じような雰囲気を感じますね。まぁ、もうちょっと国語の事を勉強したら完全に間違えている可能性はあるかもと思わないでもありませんが。

回復反応がどういうものかというと雪崩を想像するとよいでしょう。

続きは四面楚歌へ(会員登録で無料で読めます。)
https://www.shimensoka.jp/2022/12/18/%e5%9b%9e%e5%be%a9%e5%8f%8d%e5%bf%9c%e3%81%ae%e8%a9%b1%ef%bc%88%e7%84%a1%e6%96%99%e8%a8%98%e4%ba%8b%ef%bc%89/
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徳川家康の死因

「徳川家康は天ぷらの食あたりが原因で亡くなった。」

わりとよく聞く話ではないでしょうか。
当時は、今と違って精油技術が不十分だったので油で腹をこわしたのだとかいう説をよく見かけます。死因についての話はほかの偉人でもよく聞きますが、根本的に間違いのある考えです。

何を間違えているかというと、この手の話は、

「病気にならなければ基本的に死なない。」

という発想が前提にあるからです。
少ない情報からこういう病気で死んだなんて推測するのは専門家なので、専門家であるほどこういう考えに陥っているように思います。

現在の人間の体についての専門家は、病気にさえならなければ120歳まで元気に生活できると信じて疑っていない訳です。

少しまろやかに、

「病気にならなければ老衰で死ねる。」

と言い換えてもいいかもしれません。
しかし、この前提はおかしいといいきってしまってよいでしょう。
なぜなら、

「人は寿命が尽きたときに死ぬ。」

からです。
寿命が尽きた時、どのような病気になるかは体質や、生活習慣だったりで様々です。だから、寿命が尽きたときに、癌、心不全や、脳梗塞を起こすのです。この部分をなぜか多くの人がひっくり返して考えるから、おかしな行動や判断をしているのでしょうね。

徳川家康の場合だと天ぷらを食べた事によって体の調子をくずしたのでしょう。
家康は、晩年、自身で帯を締める事ができなくなるぐらい太っていたなんて聞いたことがあります。彼の行動、判断、思考をたどると徳川家康は10種体癖であったであろうと私は推測しています。10主体癖は平たく言うと天才性をもっており、おおらかな気性で身内や味方にはとても細やかな配慮ができるタイプの人間です。現代の人で例えると、マツコデラックスがおそらく10種傾向が強いと感じています。

10主体癖の人は、歳をとるにつれて太る傾向があります。
おおらかな気性を持つという事は骨盤が大きく開く傾向が顕著にでますから、年齢を重ねるに連れてどんどん太るのです。細身の人と太っている人を並んでいるのを想像してみてください。どちらの方が、おおらかなで接しやすい人でしょうか?

余談ですが、骨盤が開くなら締めればいいと考える人が多くいます。
骨盤は締めるということは、家康から徳川家康らしさを失わせる事になります。おおらかで接しやすい人柄でなくなった時、江戸幕府は毛利家や島津家におこなったような仕打を全国の大名にしたかもしれません。もしそのような事になっていれば徳川幕府400年の天下太平はなかったと思いますね。骨盤は締めるというのは、人格や思考にまで影響を与えるという事をし知っておかなくてはなりません。マツコ・デラックスだって骨盤を締めたらやたらときつい事をいう気持ちの悪い嫌なおっさんにしかみえなくなるのじゃないでしょうかね。骨盤を締めさえすれば人生がすべてうまくいくみたいな安易な発想は早々に捨てることです。

徳川家康は75歳で亡くなったとされています。
10体癖は骨盤が開く傾向があると考えると、かなり長生きした方だといえます。彼自身の天才性と骨盤が開く傾向から寿命を早めに消費してしまいがちな体癖だといえます。また、太っていたということから考えると免疫になにかしらの問題を抱えていたのかも知れません。天ぷらで食あたり説が浮上したのはそのあたりが理由でしょう。

通常、健全な人であれば悪い物を食べると嘔吐、吐くという運動が行われます。
嘔吐すると驚いて慌てる人が多いのですが、吐けるというのは元気があるからできるのです。だから、吐けないで苦しんでいる方が心配な状態です。

なお、嘔吐するという事を、難しい表現で説明すると、悪い物を体の外に排泄しようとする自律運動が起こるわけです。だから、悪いものを食べれば同時に下痢を起こすはずです。

吐くためには頸椎6番の運動が不可欠です。
6番がうまく動いてくれないと吐くという運動ができないのです。おそらく家康は天ぷらを食べて調子をくずしていた時には頸椎6番に異常が生じていたのだろうと思われます。太っている人は首のくびれがなくなる人が多いのですが、おそらく甲状腺が肥大していたのではないかと思われます。

そこから察するに。天ぷらをうまく飲み込めなかったか、あるいは悪い油だと気がついても吐く事ができなかったのでしょう。頸椎6番の動きが悪いと、飲み込む運動もうまくできません。正月によく聞かされる、もちを喉に詰まらせたりするのはそれが理由です。喉に餅が詰まるのは、餅が悪いのではなく飲み込めない状態の人間げ餅みたいな詰まりやすい食べ物を食べるからです。

結果、天ぷらを食べた3ヶ月後に亡くなったそうです。最近でへ、訳知り顔で胃がんだったに違いないなんていう優秀な人が多いみたいですね。

それで結論です。

徳川家康は寿命でなくなったとしか思えません。
体にいくつかの不調は生じていたのでしょうが、寿命がつきていたのですから当然です。生物として存在する、生命を維持することができなくなっている訳ですから体のあちこちが壊れてくるのは自然な事です。

なお、現代の医療であれば、そういう状態、いわゆる死に体でも多少の生命維持(?)はできるみたいですね。ただ、それは心臓を動かし続けるだけの技術でしかありませんから、そのような治療を受けるかはよく考えてから判断する方がよいでしょう。

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