ブログ「日々整体」

日本の教育は詰みか? 親子のろんぱー議論

正月に、息子と教育についての議論をしました。
私が日本の教育はもう改善が不可能、つまり詰みの状態であるという考えなのに対して、息子はそれでも改善をしていくべきだと考える点が争点です。

私の主張はこのようなものです。
もし仮に今年から理想的な学校教育が行われるとして、その成果がでるのは一体いつになるのか。どんなに速くてもそれは30年程度は先のことになります。その頃には、日本という国は今とはまったく違う姿をしていることでしょう。国家としての体裁を整えることができないかもしれないとまで思えます。しかし、このような急激な変革は不可能ですし、理想的な教育がどのようなものかということについてもはっきりとした形はありません。教育というものは試行錯誤をしながら時間をかけて少しずつ改善をしてゆく必要があると言えますから30年程度でどうにかしようというのは無理なのです。

それに対して、息子の主張はそれでも少しづつ改善をはじめてゆくべきだろうというものです。
その意見は気持ちとしてわからなくはないのですが、その改善は一体、誰によって行われるのかという点が大きな問題です。つまり、改革をまとめる役人がいったいどういう人間性をもっているのかという点が重要な問題点になってきます。

「役人がどういう人間なのか?」

この疑問が頭に浮かんだときに真っ先に浮かぶのは、飯塚幸三という人です。
新宿で幼児とその母親を運転ミスで死に追いやった人というと思い出す人も多いことでしょう。彼は、ずっと自身の誤りを認めようとしませんでした。裁判の結果に対して控訴しなかったことで非を認めたとする判断はできるかもしれませんが、一切の謝罪を行いませんでした。

この行動は、役人、特に高級官僚の判断と行動原理に完全則っているのではないかと感じられるのです。
一言でいうと、

「ミスがあってもその責任は絶対に認めない。」

ということです。
実際、飯塚幸三氏は勲章までもらっている人ですから、優秀でかなりの業績もあげていた人です。仕事と人間的な評価は別だと考えるのが正当と思えなくはないですが、車の運転ミスで2人を死亡10人に怪我をさせたことに対して一言も発することができなかったのでは擁護のしようがないと思えます。ちなみに、彼は通産省に勤めた後、測定技術に関する研究で重要な地位についていたようです。

それに加えて、先日のJAL便と海上保安庁の航空機の事故です。
海保機の機長は、管制塔から滑走路への侵入指示あったと発言をしているようです。しかし、空港での飛行機と管制塔のやりとりは記録が残っていて、そんな指示がなかったことははっきりしているのに現時点では、自分には一切の非がなかったと主張しているようです。

この海保機長の発言と主張には飯塚幸三氏と同じ匂いを感じます。
海上保安庁は国土交通省の組織になります。通産省と国土交通省の役人が全く同じような発言をしている、つまり決して自身のミスや過ちを認めることはないという行動規範が、役人全体に広まっているようだと思えるのです。

さて、そのことを踏まえて教育はどうでしょうか?
2022年の小学から高校生の自殺数は、500人を越えておりこれは1980年以来過去最多の数字です。また、不登校は50万人程度です。(※発表されている数字が複雑で全容がわかりにくいものになっていますのでおおよその数字になります。)少子化にも関わらずこの数字なのだということを付け加えておきたいと思います。

余談ながら加えておくと、自殺数に関しては厚労省、不登校は文科省の管轄になっているようです。これは根本的な問題の解決をする意志がない対応のように私には見えます。

このように断片的な情報を集めてみても、役人が自身の誤りを認めそれを反省して改善してゆくということができない人たちなのであろうというイメージが私の中で固まってきています。

さて、教育改革をするとなるとおそらく文科省が主導で行うことでしょう。
このような責任感、使命感を欠片も感じることのできない役人の集まりである文科省という組織で、時代の変化を捉えてそれに柔軟に対応しつつ適切な教育システムを作っていけるでしょうか。残念ながら、答えはノーといわざるをえません。

では、どうすればよいのか。
私は、外からの改革をするしかないという提案をしました。このような腐りきった組織の中で変革を行うのは不可能だからです。

ここまで話したところで、息子は私の考えを受けれるしかなかったようです。

「はい、ろんぱー!」

ということで新年の親子議論は私の勝利に終わったのでした。

なお、JAL便の事故についてはこれを書いている時点でまだ調査中です。この日の朝に新聞記事を見ながら、感想を話しあっていた流れがあっての会話なので、その後の調査で判断が変わる可能性は十分にあるとういことを踏まえておいてください。
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1年前の私と今日の私:整体師としての進化

毎年のように年末に思うことは、

「1年前の自分はよく整体師を名乗っていられたな。」

ということです。

今年のこの思いはかなり強いものになっています。
このように考えるのは、私自身が進歩しているからですが、振り返って考えると1年前の自分は半端な知識、経験、そして技術で整体に取り組んでうまく成果をあげられなかったのです。そのことを思うと人前にでるのが本当に嫌になります。だから、もう仕事を辞めて、すべてを忘れて放浪の旅に出たくなるというのも毎年末の恒例行事のようなものです。

私はそこから転じて宮本武蔵のことをよく思い出します。

宮本武蔵は晩年、絵や書を描いたりしていました。
兵法を極めたので、絵や書はそれを応用して描いていたそうです。刀を使った兵法は、体の動きや運動として捉えると理解しやすいかもしれません。その運動を極めたのですから、刀を筆に持ち変えても同様に巧みに扱うのはかなり容易だったのでしょう。

現代の感覚だと、野球を極めたら他のこともなんでもできるようになるというようなものです。
だからこの表現に多くの人は違和感を感じるかもしれません。しかし、私の見る限りダルビッシュやイチローなら野球以外のこともこなせそうな気がします。運動を極めるとは、体の動かし方を極めるということを意味しています。だから、野球しかできない、あるいは、刀しか扱えないというのでは極めたとは言えないのです。

自らの技術を振り返ってみて思うことは、私自身はまだまだその領域には達していないのです。
結局、来年以降も、多分ですけど、死ぬまで毎年、

「1年前の自分はよく整体師を名乗っていられたな。」

と思い続けることになるのでしょう。

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時代遅れの思考:21世紀の日本における政治と教育の対応

某政党の政治を見ていて思ったことは、

「頭の中が昭和で止まっている。」

ということです。
この政党はきっと昔がよかったと思っているように思います。それで政策を昭和に戻したらかつての日本の繁栄が再びやってくると考えているのでしょう。万博にこだわるのはこういう考えが根本にあるのではないかと思えます。

このことを踏まえると、今、話題になっている政治資金集めのパーティの開催は、代わり映えのしない古いことをやっているようにも見えます。しかし、そのお金の動きは創意工夫があるのではないでしょうか。だからこそ、これまでは表にでることがなかったのかもしれません。ただ、残念なのは、酒樽の見栄えが良くなるように変えただけということのように思えます。当然、中の酒は昔と何も変わっていませんから、その味、つまり実態は何も変わっていないのでしょう。

もちろん、古くからあってそれでも現在にも通じる良いものはあります。
だから、それを現代風にアレンジするだけでよいという物も多く存在していることでしょう。ただ、政治というものに関してはこの考えは全く当てはまらないと思えます。その理由は非常に簡単なもので、時代の移り変わりによって、正しいこと、良いことというのは変化するからです。

例えば、80年前の価値観で現代の政治が行われたらいったいどのようなことになるでしょうか?当時の雑誌や新聞には、

「鬼畜米兵。」

なんていう言葉が踊っていました。
それで最近の新聞や報道を見ると、プーチンは悪、ハマスは殺戮者といった表現が見受けられます。もちろん、その表現は悪意や憎悪がストレートに文言として表現されている訳ではありません。しかし、結局は酒樽の見栄えが80年前に比べると少しきれいで立派に見えるだけで、中身はなんら変わっていないように感じられます。

傍から見るとこういうことは理解しやすいのです。
しかし、自らのことになると似たようなことをやっていることに気がつきます。私が最近、気がついたのは、

「今の日本社会において学校へ通う意味があるのだろうか。」

ということです。
少なくとも単純に勉強することが目的であれば学校という場所は、今日では非常に非効率的と言わざるを得ません。例えば、私は英語の勉強をはじめて1年以上が経過していますが、学習に必要な教材は書店や通販で十二分に用意することが可能です。そして、不足があってもYouTubeといった動画サービスにアクセスすることで補うことができます。そして、わからない部分があってもAIに相談することですぐに解決することができます。ご存じない方もいるかもしれませんが、AIの質問に対する解答は学校の教師よりも適切でさらに深い理解を得ることが可能です。また、スピーキングが必要であればオンラインレッスンでネイティブをはじめとする世界中の英語話者と直接コミュニケーションをとることも可能です。学校へいかないとできないことなど一つもないのです。

当然ですが、このような状態であるのは英語だけではありません。あらゆる学科、科目を学ぶ上で学校が不要になっています。ですから、何かを学ぶために学校へ行く必要は完全になくなっています。

友達をつくるため、コミュニケーションを学ぶため、集団生活を営めるようになるため学校は必要だという人もいるかもしれません。しかし、この目的のためにも学校は適切な環境を用意することができなくなっています。理由はいくつかあげれますが、その中でもっともわかりやすいものは登校拒否をしている子供の数です。今年の秋ごろの新聞記事では、29万人の学生が学校へ通えておらず増加傾向に歯止めがかからないと報じられていました。これは全小中学生の22%にあたる数になります。集団にうまくなじめない子供たちを排除してしまっている。教師たち、教育関係者の意図は別にあるかもしれませんが、学校は既に集団生活のコミュニケーションを学ぶ場としての機能も失っていると言い切ってしまってよいでしょう。


さて、現実がこのような状態であるにも関わらず私は、

「子供は学校へ通った方がよい。」

という考えを捨てられないでいます。
おそらく私が学生の頃、非常に楽しい時間を過ごしたという経験を持っているからでしょう。だから、息子にもそのような形で青春を謳歌してもらいたいと思ってしまうのではないかと思います。

この考えは、

「再び万博を開催して、あの頃の繁栄をもう一度!」

と考える政治家たちとなんら変わらない非常に愚かなものであると言わざるを得ません。このことに気がついて、私がするべきことが一つ思い当たりました。それは、

「新しいOSをインストールする。」

ということです。
ただ、困るのはどうやったらその新しいOSをインストールできるのかということです。もしかしたら、宇宙に行ってそこから地球を眺めてみるといいかもしれないと思うのですが、とある実業家が宇宙に行くのに1億円かかったとかいっていたのを思い出します。近所のスーパーで販売してくれていたら楽なんだけどなぁと、ぼやきたくなります。

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整体師の目から見た生と死

整体師である私には全く理解できない考えなのですが、 「損をするぐらいなら不健康な方がよい。」 という人が一定の割合で存在しています。 もちろん必要以上にお金をかける必要はありません。しかし、 「生きてさえいればそれでよい。」 と考えている人の考えは私には全く理解できません。 私からすると、人生(生とも言えますが。)は可能な限り充実させて死ぬときに、 「いい人生だったな。」 とふり返ることができるような生き方と死に方をしたいと考えています。これまで整体師として、一番驚いた方は、私に対して、 「もうすぐ死んでしまうのでしょうか?」 と質問してきた方です。
整体師は健康な人、そうでない不健康な人に日常的に触れる仕事です。
そういった経験を積み重ねていくことで身についた特技だと思いますが、余命がある程度わかることがあります。生きる力のない体は体から精気が漏れている、あるいは生命力がないとでもいうのでしょうか、体に触れたとき弾力がなくなって弱々しく感じるのです。当然ですが、整体師であれば、医者の検査で問題がなくても、体の変化を指摘することができます。人間は生物ですから、生きる力が残っていない人は体になんらかの形で観察できるのです。だから、もうダメだと思った人はたいていその数ヶ月に亡くなったと聞かされます。 それで、もうすぐ死んでしまうのですかと質問してきた人には、すぐに死ぬような状態ではないとアドバイスをしたのです。 すると、 「よかった!」 と満面の笑みを浮かべていました。 ただ、自律神経の状態はお世辞にもいいとは言えませんから、具体的にどのようにすればよいかの話をつづけようとしたら、 「生きてさえいればいいんです。」 と言い切るので、それで話が終わってしまいました。 ずいぶん前の話ですが、今でもこの人のことを考えて振り返ることがあります。 もしかしたら、私のように考えられるようになるためにはある一定レベル以上の元気さが必要で、そのレベルにまで達していなかったのかもしれません。それとも、死なない程度の健康状態であることがその人にとって最も幸福な状態であることもあるのかもしれません。 生き方はそれぞれですから、その考えは尊重したいと思いますが、私としてはもったいない生き方だと思ってしまいます。 現代の人々は完全に死生観をなくしてしまっていると感じています。 だから、ほとんどの人は、死なないようにすることが生きるということだと考えてしまっているように思えます。だから、生きるということはどういうことなのかを年に1回ぐらいは考え直してみることをおすすめします。生き方についての感じ方、考え方は年をとるにつれて変化するものです。だから、年に1回ぐらいは自身を振り返ってみるとよいでしょう。自分の感覚や感性が変化することに気がつけるのもまた生きていく上での楽しみの一つだと思います。
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GiverかTakerか:『GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』から学ぶ人生の教訓

最近アダム・グラントという学者の書いた『GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』という本を読んでいます。まだ読み終えてはいないのですが、この本にもっと若い頃に出会えていれば違った人生を歩めたかもしれないと考えています。

著者はこの本の中で人を3種に分類しています。
1つはこの本のタイトルにあるとおりGiver、つまり与える人です。あとの2つはTakerとMatcherといって、Takerは言葉からわかる通り奪う人、MatcherはGive&Takeを基本とした思考と行動をとるタイプのことです。

もちろん、人間のことですから相手によって行動が変わることもあるでしょう。
例えば、家族に対してはGiverだけど仕事になるとTakerになるといった具合にです。しかし、根本的な性質は変わらないのであろうということを読んでいて感じました。Takerとして仕事をしている人は、家族に対してもTakerであるように思います。

人生を成功させる、あるいは大きな成功をした人が必ずしもGiverという訳ではありません。
この本の中ではTakerとして元NBAの選手であるマイケル・ジョーダンの事例を紹介していました。ご存じの方もいるかもしれませんが、彼はバスケットボールの選手として非常に偉大な成績を持っています。しかし、プレー外のことになるとあまり評判のよくない人物で、典型体なTakerであることが実際の行動から判断されています。

日本人で成功したTakerというと、宮崎駿の例がわかりやすいでしょう。
スタジオジブリには後継者が育ちませんでした。宮崎駿は、ジブリのスタッフを育てようとは一切しなかったと言われています。ジブリにおいて彼自身が製作に関わらないアニメに対してまでも異様なまでに口出しをして、スタジオ内を支配しつづけていたそうです。以前にYoutubeに動画に上がっていたのをみたことがありますので興味のある方は探してみるとよいでしょう。

それではダメだということでおそらくジブリのプロデューサーの鈴木氏が、宮崎駿が干渉しない体制でアニメを作ろうとしたのでしょう。それが「猫の恩返し」や「ゲド戦記」です。しかし、そのような工夫は大した成果をあげることなく、スタジオジブリを引き継げる人物が育つことはありませんでした。才能のある人たちは皆ジブリを離れてしまったのです。ジブリがテレビ局の傘下に入ったのはつい最近のことなのでご存じの方も多いでしょう。ジブリの成果はすべて宮崎駿だけのものとして扱われたのではないでしょうか。Takerは、成果のすべてを自分の手柄にしてしまいそれを助けた周囲の人たちはその恩恵を受けることがないのです。

Takerに対して、Giverはまったく違う成果を産み出します。
Giverは、自分の成果を誇るより、顧客や会社の利益を優先します。だから、自身の名が表にでてくることはあまりありません。しかし、周囲の人たちは皆、

「我々の仕事がうまく言っているのは彼のおかげだ。」
「彼のおかげで豊かな生活ができている。」

とGiverを評価するし、再び一緒に仕事がしたいと望むのです。

この本を読んでいて、

「私もGiverとしての人生を歩み、そのような仕事をしたかった。」

と心底思いました。
もちろん、私自身は勤めていたときは、常に自分のことより会社のことを考えて判断、行動してきたつもりです。しかし、Takerとしての本質が頻繁にでてしまっていたのでしょう。それ故に会社に留まることができませんでした。そして、会社を辞めてからは独立して好き勝手にTakerとして生きてきてしまいました。

私は今年50歳になりました。
今からでは変わるのは遅いでしょうか?でも、死ぬまで仕事をするつもりですから、そう思うとあと10~20年ぐらいはあるかもしれません。そうであれば今からでも生き方、仕事のやり方を変えることは不可能ではないかもしれません。もし仮にうまくGiverになることができなくても、そうあろうという思いがあれば何か変わってくるかもしれません。

それでさしあたって息子との接し方を変えてみようと思いました。
私は息子にTakerとして接していたとは思えません。しかし、Takerとしての私の側面が息子の人間の成長を阻害していたかもしれないと考えました。息子にはまだまだ何十年も人生が残っていますから、いくらでも修正はきくでしょう。だから、私は変われなくても、変わろうとする意志を持てば、それが息子へよい影響を与えられるGiverとしての最初の活動になるのではないかと思うのです。



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