ブログ「日々整体」

最善の治療と最良の人生

「死んでから3日は救急車を呼んではいけないよ。」

冗談まじりにそんな助言をすることがあります。
なんらかの体の不調があって動けなくなった際に、すぐさま救急車を呼ぶというのはほぼすべての人が当然だと考えることでしょう。しかし、私は数年前からこういった当たり前と思われる判断と行動について考え直した方がよいと思うようになりました。なぜなら、脳梗塞を起こして倒れた人が病院から帰ってきたときには人が変わっているケースを何回か見てきたからです。

実際に、私自身の母にもそのようなことが起こっています。
救急車で運ばれる前と後では明らかに人格が変わってしまっていました。他の場合では、自分一人では話すどころか、体を動かすこともできずかなり重度の要介護状態になってしまった人もいます。そういう状況を見るにつけ、医師はいったいどういうつもりで治療を行ったのだろうかという疑問が沸いてきます。当事者になってみて感じたのは、

「とりあえず心臓だけは止まらないようにしたから、あとはあなたたちの心の問題です。」

と突き放されたということでしょうか。

こういった経験を経て思うことがあります。
それは、医師は『死んではいけない』という否定することが難しい正義を振りかざしているだけではないかということです。医師たちが、死は憎むべき敵であり、絶対に受け入れてはいけないものであると主張しているように感じるのです。心臓さえ止まらなければ、何をしてもいいとまで考えているのではないかと思うことすらあります。

医師たちが持つ「死んではいけないという」正義の解釈は、ある意味で、強い権力を持つ人々や組織が持つ正義の解釈と重なる部分があるのではないでしょうか。

死に直面した人を救うためには、医師たちはこう言っているように感じられます。

「心臓を動かし続けるためには、今、生きている人の人生や夢といった、その人の人生に関わるあらゆることを犠牲にしてもよい。」

人格が変わってしまった人、一人での生活ができなくなった人、そういう人たちを見ているとそのように感じてしまいます。命さえ守られれば、命を奪うのではなければ何をしてもよいというのでしょうか。

さて、人間はいつか必ず死んでしまう生き物です。
死を迎えて世代交代をしてゆくことは、地球環境の変化に適切に対応するための人類の能力の一つです。我々は、世代交代をしてゆくことでDNAを適切に変化さてきたのです。つまり、世代交代をしてゆくということはホモサピエンスが繁栄していくために最も必要なものだということができます。

だから、充実した人生を送って、最後には、「よい人生だった。」と自身の人生を振り返りながら亡くなるというのがもっとも人にとって幸福な人生だといえるのではないかと思います。だから、「死んではいけない。」という理由で、その幸福な人生を台無しにしてしまうのは間違いなのではないでしょうか。

あと、私は、自分が自分で無くなるのは絶対に嫌です。
そうなってしまった結果、私の息子が何かを諦めなくてはいけないことになったら生きてきたことをすら後悔するようになるかもしれません。それだったら、さっさと死んだ方がいいと私は思います。だから、もし倒れでもしたときには、

「心臓が止まったのを確認してから3日後に病院なり119番なりして欲しい。」

と、そう思うのです。
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学術的研究の罠: あなたの健康行動を再評価しよう

運動をすると健康になる。
このことは、多くの人が認識していることでしょう。数多くの学術的な研究も行われていて、毎朝のラジオ体操、ジョギングやウォーキングで健康度があがるというレポートはほとんどの人が見たことがあるでしょう。

ところが、このような知識を得てしまった人の中には、運動をしなければ健康になれないという考えに陥ってしまう人がいます。中には、汗をかく運動が嫌いだという人もいたりして、そういう人は、

「自分は、もう一生健康な生活など送ることなど出来ない。」

などと言い出す人も実際に存在します。
しかし、運動というものはそこまで厳格に考える必要はありません。そのためには、

「運動とは何ですか?」

こういう根本的な部分を考えなおすとよいでしょう。そうすることで、運動の捉え方、考え方を改めて、効率的そして効果的に生活を送ることができます。

先に述べたような勘違いに捕らわれてしまうのには理由があります。
毎朝のラジオ体操や30分のジョギングが、学術的に運動として研究されるからです。そのようになってしまう理由は、計測をすることを容易にするからです。学術的な研究は最終的にはレポートや論文という形にしなくてはいけませんから研究の対象となるものは必ず数量化、計量できるものになります。

このことは学問においての大きな欠点です。
数量化できない要素は検討からはずれてしまうのです。その結果、計測できない行動は運動ではないと勘違いを起こしてしまう原因になります。だから、学術的な研究は、そのような欠点を持っているということを知っておくとよいでしょう。

具体的な例をあげてみましょう。
ある音楽家の方が、60歳を迎えて一生に一度ぐらいは医者というものに行ってみようと思ったそうです。すると、その時の医師は、

「あなたは運動不足ですので、運動をするようにしてください。」

と助言をしたのです。
そして、スポーツクラブへ通うようにしたら、腰が痛くなったそうです。それで、私のところへどうしたらよいだろうかと相談に来られました。その方には、

「楽器の演奏自体が運動になっているのです。だから、今までずっと元気に活動してこれたんです。そんな筋トレみたいな余計なことをしなくていいですよ。」

とアドバイスをしました。
この方は演奏さえしていればずっと健康でいられたのです。

このような勘違いを防ぐために、少し運動について掘り下げて考えてみるとよいでしょう。ただ、、こうした概念は少し難しいかもしれませんので、言葉を換えてみることを提案します。つまり、『運動』を『発散』というように表現を変えてみるのです。整体では、運動にあてはまる行動を発散と表現します。つまりエネルギーを消費する活動をすべて発散だと捉えるのです。つまり、ありとあらゆる行動のすべて発散となるのです。具体的には、汗をかくようなウォーキングやジョギングからはじまって、大きな声を出す、感動する映画を見てあるいは小説を読んで泣く、旅行する、ドライブする、おいしいものを食べる、料理を作るこれらすべてが発散です。将棋においてじっと座って次の一手を考えるのも発散ですし、難しい数学の問題を解くのも当てはまります。

ポイントはどういうことかというと、体が求めている行動をすることです。
ですから他人に言えないようなことすらも問題ありません。会社の憎たらしい上司や同僚の悪口を日記に書くことだって発散です。最近だったら、SNSやブログを使って発散している人は少なくありません。重要なのは、それをすることで体の中に溜まっているエネルギーを発散できるかどうかなのです。

多くの人にとっては発散できているかどうかというのはわかりにくいかもしれません。
もし、世間で言われているストレス解消みたいな行動を実際にやってみて、すっきりしていないのであればそれは発散できていないということだと考えてよいでしょう。

具体的にどうすればいいかわからない人には、大きめの書店へ行くことをおすすめしています。
ぐるぐると歩き回って、目に止まった書籍や雑誌を買ってみましょう。無意識に、目が止まるものはその内容が発散に最も向いている可能性が高いからです。あまり深く考えないで選択することで、自身の無意識や興味がどういうものに向いているのかを発見しやすくなります。

そして、実際にそこに書かれていることを実行してみましょう。
もしかしたら、最初はうまくいかないかもしれませんが、このような行動を繰り返していくうちになんとなく自分の嗜好や傾向がわかってくるはずです。そうやって最も自分が効率的に発散できることを生活に取り入れていけばよいのです。
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腕の痛みの謎:四十肩は本当に40歳の病気なのか?

体の不調を表現する言葉はいろいろありますが、まったく状態を捉えていない表現になっていることが多くあります。その最たるものの1つが、

『四十肩』

です。
40歳を超えた頃に腕がうまくあがらない状態を意味しています。かつては五十肩といわれ50歳を超えてから起こる運動障害だといわれていましたが、近年になって低年齢化がすすみ40代で発症することも少なくないようです。

整体師である私の立場で言わせてもらうと四十肩には言いたいことがあります。
まず、整骨院や整形外科の医師が四十肩と五十肩を別の症例だと考える発言を耳にすることがあることです。私は病院に行くことはありませんから、医師から直接聞くわけではないのですが、当院に相談にこられる方がたまに、

「五十肩だと思って病院に行ったら、あなたは四十肩だと言われた。」

言うのです。
まるで五十肩と四十肩が全く別物であるかのように考えているようです。おそらくは患者の年齢にあわせているのでしょう。カルテには何と書いてあるのか閲覧をしてみたいと思うことがあります。

なお、この理屈は当然だと思われているようで、30代で肩の動きが悪くなると、三十肩と診断されている人を見たことがあります。年齢で不調の名称が変わるのはいけないとは思いませんが、混乱を招くだけなので辞めた方がいいのではないかと思います。実際、整体の視点から意見を言わせてもらうと年齢はほぼ関係がありません。

四十肩の原因は整体的にはっきりとしていて、頚椎6番の不調が原因です。
実は、これはもう間違いのないぐらいはっきりしていることでもあります。わかりやすいのは頚椎6番の調整をやっていると腕に異変や痛みを感じることでしょう。頚椎6番に問題のある人は、ここ10年ぐらいでもかなり増えてきていると感じていますので、五十肩の低年齢化というのはそれが原因だといえるでしょう。

腕の神経は頚椎6番から伸びていると考えるとよいでしょう。
ですから、頚椎6番に異常があるとその影響で腕の動く範囲が小さくなったり、うまく動かせなくなって痛みが生じるようになるのです。

ここまで説明すると、四十肩という言葉の違和感に気がつく人がいるかもしれません。
四十肩というと、40歳という年齢と腕に痛みが生じることを指しているのです。この不調に年齢はまったく関係ないし、腕そのものにも原因は存在しない、つまりこの不調にはまったく関わりがない名が付けられているということになります。もちろん現実に痛みを感じるのは肩付近になるのは確かなのですが、その名称は起こっている症状をまったく表現していないということになります。

四十肩という言葉は、40歳という年齢と腕の痛みを関連づけるものですが、実際の原因としては首の異常が関わっています。このように、名前と実際の原因・症状が一致しないことは、一般的に混乱を招くことがあります。私には、山の話をしているのに突然海の話を持ち出すような、違和感があるのです。

人の体を部品ごとに切り分けて考えるのではなく、全体としての生命、連携するシステムとして考えることが整体の視点です。例えば、山の生態系が川の水質や河口での漁獲に影響を及ぼすように、私たちの体の一部が不調となれば、それが他の部分にも影響を及ぼすことは自然のことと言えます。
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息子の未来: 技術の時代における進学と教育の考察

私の最近の最大の関心は息子の進学についてです。
時間ができると、ずっとそのことばかり考えてしまっています。理想は、息子自身が自主的に自身の将来について考えるのがよいとは思うのです。そうすれば、何に取り組んでもモチベーションの持ち方が全く異なる物になるでしょう。しかし、社会経験のない学生に将来について自身で考えろというのはやはり無理があるようです。時間をかけて話合いをしましたが、自身がこれから先、どのような人生を送りたいのかということについて形にできるような考えを現時点で具体的にさせるのは不可能だと思えました。

これは以前にも書きましたが、世界が大きく変わるかもしれないタイミングだと考えています。
例えば、AIについての書籍を読んでいると、2014年の段階で今ある職業の47%が10~15年後には消失しているかもしれないという記述がありました。鵜呑みにする訳ではありませんが、そうならないという確信もありません。つまり、今の息子が大人になって成りたいものについて具体的な望みがあっても、当人が成人する頃には存在していない可能性も十分に考えられます。

すると、

「高度な柔軟性を保ちつつ臨機応変に対応する。」

という判断がもっとも適切なのかもしれません。結局、ぶっちゃけてしまうと何も決めずにとりあえず勉強だけしておこうかという結論にならざるをえません。

先日、進学を志望する高校へ個別相談にいってきました。
するとやはり、教師からは

「明確な目的意識をもって勉強に取り組まなければいけない。」

というような性質のことを言われました。
海外のカリキュラムを取り込んでいる学校ですので、日本の学校よりこういった考えはより強いのであろうと思われます。しかし、

「高度な柔軟性を保ちつつ臨機応変に対応します。」

なんていう返答をする訳にもいかず、お茶を濁したボケた受け答えになってしまいました。それで、消化不良の学校訪問になってしまったかもしれないと思っていました。

さて、話がちょっとそれます。

最近の学問の流行はクリティカルシンキングというそうです。
クリティカルという言葉は日本語にすると『批判的に』という意味です。このクリティカルシンキングという言葉についての私の感想ですが、

「アカデミー分野で実利のない、くだらない分野を作って学費を巻き上げようとする魂胆が見え透いている。」

と考えていたのです。
でも、もしかしたらちょっと違うかもと思った瞬間がつい先日ありました。

新聞の情報では、ウクライナから一方通行で発信される物ばかりで信頼に足る物がほとんどないという話をしていました。例えば、ゼレンスキーがロシアの支配地域への反抗の準備を整えている報道に対して、その反攻作戦がどういうものか、その作戦にどのように戦略的なものかを、地図をみて分析していくと明らかに違和感を感じる箇所がいくつもでてくるのですが、そういうことを説明してゆくわけです。

そういう事を繰り返していると、ある日、

「これってこういうことじゃないのか?」

ということを言い出したのです。
それは私から見ても鋭い指摘だと思えました。そしてその時、

「これがクリティカルシンキングか。」

と、気がついたのです。
教育者がこのような思考のできる人間を育成することを目標としているのはとてもいいことかもしれません。クリティカルシンキングとは、ジグソーパズルの一部分のみのパーツから、完成される絵を想像するようなものと言えるでしょう。言い換えると、すでにあるものをベースに、不足を補って目標を達成することを目指すのです。普段から、権威に対して喧嘩をふっかけるような論調でばかり発信をしているせいで、私は権威を疎かにしてしまっていたのかもしれません。

しかし、このように思考が進んでも

「高度な柔軟性を保ちつつ臨機応変に対応します。」

というのが正解のような気がします。
世の中では決めることが重要と考えられていますが、今は、決めることのリスクの方が高いということなのかもしれません。息子には、明日にでも、

「とりあえず世界平和でも目指しとくか。」

と話をしてみようと思います。
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医学の進歩と患者の置き去り--エビデンスと経験の狭間で

最近、整体に訪れた人が、

「最近の若い医師は、エビデンスがどうのこうのという話しかしない。」

と話していました。
私は医師と直接話をする機会などほぼありません。ですから新鮮な情報のように感じたのですが、その一方で、

「やっぱりな。」

という思いも沸き上がります。
医師がエビデンスしか語らないことについて不満を述べた人は、おそらく専門家としての立場から、自分の体の状態について意見を聞きたかったのではないでしょうか。それにも関わらず、研究ではこうで、こういう論文が発表されていると、エビデンスの話を延々と聞かされるのです。自分のことをきちんと診断してくれていないと感じるかもしれません。

整体師として意見を言わせて頂くと、医学と医療はとてもおかしな方向に突っ走ってしまっている。
その結果、患者さえ置いてけぼりにしてしまっていると感じることがしばしばあります。実際に聞いた話を1つ紹介しましょう。ある医師の集会で、患者の薬の消費量を増加させる方法についての講演した医師が拍手喝采を受けたそうです。具体的には、特定の病気は遺伝による影響があるから、その患者の家族、親族すべてに予防のための投薬をするべしという内容でした。そうすれば薬の消費量が現状の数倍以上になるという訳です。

論としはわからなくはありません。
しかし、特定の病気になりやすい遺伝子要素をもつ可能性が高いから予防のために薬を飲みなさいというのは無茶すぎるとは思わないでしょうか。実は、その講演で語られた病気はガンだったのですが、現在の日本人のどの程度がガンがなるかを国立がん予防センターが平成19年に発表したデータがあります。それによると、男性の二人に一人、女性の三人に一人がガンを発症するというデータがあります。これはつまり、そのガン患者の親族すべてと考えると、おそらく日本人全員にガン予防の薬を飲ませようという内容の講演だったと考えてよいでしょう。また、この話を直接聞いてきたのはとある整体師ですので、好意をもってその話を聞けるような人間ではなかったということも念のために付け加えておきます。

現在のところ、そのような薬物の開発は現実になったという話は聞いていません。
しかし、現状の健康保険の負担がどのような状況になっているかを踏まえて考えてみてください。おそらくそのような薬が開発されれば日本という国は、健康を維持させるために国家財政を破綻に導く可能性も十分にあるでしょう。補足で付け加えると、最近、ある病気に効果があるとされて開発された先進医療にかかる費用は1000万円を越えているのですが、そのような情報も知っていると理解が深まることでしょう。


エビデンスの積み重ねで医療は確かに進歩しているのかもしれません。
その進化がさらに進んで高度な医療が広く受けられる社会になる可能性もあるかもしれません。しかし、紹介した講演において拍手喝采の話を聞くと、医師や医学者たちは我々とは違う方向を向いているような気がしてなりません。もしかしたら、すべてのガンが予防できるかもしれないとうことに拍手喝采する人もいるかもしれませんが、私には今日の医師たちがそのような志をもっているようには思えないのです。

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