ブログ「日々整体」

整体師の視点:バイクで見つけた身体への理解

私はバイクで出かけることが多いのですが、先日、阪神高速を走行していたときに、もっと車格のある大きなバイクが欲しいと思いました。理由は簡単で、私のバイクが軽量でコンパクトなバイクだからです。

阪神高速のような狭い道路を小さなバイクで走行しているときに、大型車に囲まれると恐怖を感じるのです。いままでは高速といっても名神高速のような広い道路を走っていたのであまり感じなかったのだと思います。なお、排気量は150ccなのですが、重量は150kgほどはありますから原付バイクなんかと比べると倍程度はあると思ってもらうとよいでしょう。

一方で、整体をしている時のことです。
細身の骨格の方が、もっと筋肉をつけて重い体になりたいといっているのをよく聞かされるのです。それに対しては、骨格が華奢な方が、筋肉の量を増やしても怪我や病気になりやすいだけだと助言をしています。健康になるための工夫や努力をするのは問題ないですが、別の人間になろうとする行為だから体にとって良いことはないのです。

大きなバイクが欲しいと感じる私の感覚と、筋肉をつけて強くなりたいと思う華奢な人の感覚は同じなのだろうなと思えました。

おそらく華奢な体格の人は、自分より大きな人間に囲まれたときに強い圧を感じてしまうのでしょう。
人によっては、自分らしい発言や行動ができなくなるのかもしれません。だから、重く強くなって自分らしくあろうと考えるのは理にかなっているのではないでしょうか。大型車に囲まれているとき、そういうことに気がついたのです。

そう考えると、「筋肉の量を増やしても怪我や病気になりやすいだけだ。」というこれまでの助言は的をはずしていたということがわかります。

「骨格が小さいために筋肉をつけてもあまり意味がないから、スピードを高めたり、知力を向上させたりして違う面で対抗するべきである。」

このような指導の方が適切だといえるかもしれません。

さて、こういうことを踏まえて、やはりもっと大きなバイクが欲しいかと考えてみたのです。
答えは、やはり『欲しい』でした。なぜなら、150kg程度の重量では高速道路でちょっと強めの風が吹いたら飛ばされそうになるからです。太って強くなりたいと考える人には、一概に適切な助言がないかもしれません。
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パフォーマンス向上の鍵:楽しみながらのプレーと顎の力を抜く秘訣

「楽しみながらプレーすることができました。」

なんらかの成果をあげたスポーツ選手がこんなことをいっているのを聞いたことがあるでしょう。
ただ、多くの人はこの言葉の意味を額面通りに受け取ってしまっていると考えています。なぜかというと、身体的に高いパフォーマンスを発揮するためには楽しむことはそれほど重要ではないからです。

このように考えるのは私が古武道の経験があるからでしょう。
真剣を使って藁を切る稽古をしたのことがあるのですが、真剣は楽しみながら扱うようなものではありません。しかし、身体のパフォーマンスを十分に発揮できなくては真剣をうまく扱うことなどできないことをはっきりと自覚することができました。

また、もし楽しむことが必ず結果に繋がるのであれば、好きなことに取り組んだ人は必ず満足のゆく成果や結果を得ることになります。しかし、現実は一部の選手がそうであることはあっても、すべの選手がそうではありません。例えば、水泳選手だった北島康介氏はオリンピックで金メダルを獲得したときのコメントが、

「超気持ちいい。」

だったということを多くの人が知っていることでしょう。
私はこのコメントは、絶対に金メダルを取るという意志、周囲からもそれを期待されるプレッシャーを乗り越えたんだという達成感が現れていると感じました。決して楽しんで泳いでいたとはいえない状態での競技だったのではないでしょうか。つまり、スポーツにおいて楽しむということは成果を上げる、あるいは一定以上のパフォーマンスを上げるための一つの方法ではあるけれど、楽しんだからといって必ず成果があがる訳ではないということです。

最近では、思うような結果を得られなかったけど、

「楽しめたから。」

だから、結果は重要ではないと、言い訳として使われているのを見かけることもあるように思います。しかし、先の述べたとおり楽しむということは間違いのないノウハウの1つであることも確かではあります。

そこで、楽しむということを言い訳にしない、本当の楽しみ方について説明しようと思います。

人が楽しんでいるときには、どのような表情になるでしょうか?
答えは簡単で、人は楽しんでいる時に笑みが浮かびます。ただ、表情は人それぞれで、文字通り微笑んでいることもあるでしょう。一方で周囲から見たらなんの感情も感じ取れない無表情であるということもあるかもしれません。楽しんでいるからといって必ずしも笑みを浮かんでくる訳ではありません。

この微笑みについて整体の知識から逆に考えてみれば良いのです。
人が笑みを浮かべるときというのは、実はあごの力が抜けている状態です。ですから、あごの力が抜けていれば微笑んでいる状態になりますし、その状態であれば楽しんでいる状態であるということが言えます。この論法では、笑みというのは心の状態が現れるものだから、体の状態は関係ないのではないと思う人もいるかもしれません。しかし、整体的に考えれば体の状態は心理状態に完全に繋がっているものだということがいえます。なぜなら、顎の力が抜けるということは体の中心に力が集まる、つまり自然と丹田に力が集中して人間がもっとも力を発揮できる状態になるからです。

具体的なスポーツ選手を二名ほどあげてみましょう。
まず、NBAのバスケットボール選手だったマイケル・ジョーダンはよい例でしょう。彼はスーパープレイを披露するときには必ず舌を口から出して伸ばすのです。口を開けているのですから、顎の力は抜けているのは言うまでもありません。試しに舌を口から出して伸ばしてみてください、横隔膜が動くのわかる人もいるかもしれません。その状態がいわゆる体の余計な力が抜けた状態だと知っておくといいことがあるかもしれません。

もう一人は、プロテニスプレイヤーのピート・サンプラスです。
彼は、プレーの合間に顎をよく動かして、ニヤつくような表情を頻繁にしていました。女性のテニスファンからはしまりのない顔だと評されているのを聞いたことがあります。高いパフォーマンを発揮するために体の力を抜くためのテクニックなのですが、わかっていない人が見たら顔から緊張感がなくなりますから間抜けな顔に映ることもあるようです。

スポーツ選手が

「肩の力を抜け。」

と言われているのを聞いたことがある人も多いでしょう。
肩の力を抜くというのを、整体的に説明すると頸椎6番の力を抜くということになります。そして、頸椎6番の力が抜けると顎の力も同時に抜けます。だから、楽しむことで肩の力が抜け高いパフォーマンスが発揮できるようになることもまた間違いではありません。

究極の言い方をしてしまうと、

「顎の力さえ抜けていれば楽しむ必要などない。」

ということがいえます。
試しに、口を開いて体を動かしてみるとよいでしょう。もしかしたら普段とは違う動きになることをすぐに実感できるかもしれません。その実感が得られれば、楽しむことを意識するより、顎の力を抜く方が効率的に能力を発揮できることもあるでしょう。

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最善の治療と最良の人生

「死んでから3日は救急車を呼んではいけないよ。」

冗談まじりにそんな助言をすることがあります。
なんらかの体の不調があって動けなくなった際に、すぐさま救急車を呼ぶというのはほぼすべての人が当然だと考えることでしょう。しかし、私は数年前からこういった当たり前と思われる判断と行動について考え直した方がよいと思うようになりました。なぜなら、脳梗塞を起こして倒れた人が病院から帰ってきたときには人が変わっているケースを何回か見てきたからです。

実際に、私自身の母にもそのようなことが起こっています。
救急車で運ばれる前と後では明らかに人格が変わってしまっていました。他の場合では、自分一人では話すどころか、体を動かすこともできずかなり重度の要介護状態になってしまった人もいます。そういう状況を見るにつけ、医師はいったいどういうつもりで治療を行ったのだろうかという疑問が沸いてきます。当事者になってみて感じたのは、

「とりあえず心臓だけは止まらないようにしたから、あとはあなたたちの心の問題です。」

と突き放されたということでしょうか。

こういった経験を経て思うことがあります。
それは、医師は『死んではいけない』という否定することが難しい正義を振りかざしているだけではないかということです。医師たちが、死は憎むべき敵であり、絶対に受け入れてはいけないものであると主張しているように感じるのです。心臓さえ止まらなければ、何をしてもいいとまで考えているのではないかと思うことすらあります。

医師たちが持つ「死んではいけないという」正義の解釈は、ある意味で、強い権力を持つ人々や組織が持つ正義の解釈と重なる部分があるのではないでしょうか。

死に直面した人を救うためには、医師たちはこう言っているように感じられます。

「心臓を動かし続けるためには、今、生きている人の人生や夢といった、その人の人生に関わるあらゆることを犠牲にしてもよい。」

人格が変わってしまった人、一人での生活ができなくなった人、そういう人たちを見ているとそのように感じてしまいます。命さえ守られれば、命を奪うのではなければ何をしてもよいというのでしょうか。

さて、人間はいつか必ず死んでしまう生き物です。
死を迎えて世代交代をしてゆくことは、地球環境の変化に適切に対応するための人類の能力の一つです。我々は、世代交代をしてゆくことでDNAを適切に変化さてきたのです。つまり、世代交代をしてゆくということはホモサピエンスが繁栄していくために最も必要なものだということができます。

だから、充実した人生を送って、最後には、「よい人生だった。」と自身の人生を振り返りながら亡くなるというのがもっとも人にとって幸福な人生だといえるのではないかと思います。だから、「死んではいけない。」という理由で、その幸福な人生を台無しにしてしまうのは間違いなのではないでしょうか。

あと、私は、自分が自分で無くなるのは絶対に嫌です。
そうなってしまった結果、私の息子が何かを諦めなくてはいけないことになったら生きてきたことをすら後悔するようになるかもしれません。それだったら、さっさと死んだ方がいいと私は思います。だから、もし倒れでもしたときには、

「心臓が止まったのを確認してから3日後に病院なり119番なりして欲しい。」

と、そう思うのです。
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学術的研究の罠: あなたの健康行動を再評価しよう

運動をすると健康になる。
このことは、多くの人が認識していることでしょう。数多くの学術的な研究も行われていて、毎朝のラジオ体操、ジョギングやウォーキングで健康度があがるというレポートはほとんどの人が見たことがあるでしょう。

ところが、このような知識を得てしまった人の中には、運動をしなければ健康になれないという考えに陥ってしまう人がいます。中には、汗をかく運動が嫌いだという人もいたりして、そういう人は、

「自分は、もう一生健康な生活など送ることなど出来ない。」

などと言い出す人も実際に存在します。
しかし、運動というものはそこまで厳格に考える必要はありません。そのためには、

「運動とは何ですか?」

こういう根本的な部分を考えなおすとよいでしょう。そうすることで、運動の捉え方、考え方を改めて、効率的そして効果的に生活を送ることができます。

先に述べたような勘違いに捕らわれてしまうのには理由があります。
毎朝のラジオ体操や30分のジョギングが、学術的に運動として研究されるからです。そのようになってしまう理由は、計測をすることを容易にするからです。学術的な研究は最終的にはレポートや論文という形にしなくてはいけませんから研究の対象となるものは必ず数量化、計量できるものになります。

このことは学問においての大きな欠点です。
数量化できない要素は検討からはずれてしまうのです。その結果、計測できない行動は運動ではないと勘違いを起こしてしまう原因になります。だから、学術的な研究は、そのような欠点を持っているということを知っておくとよいでしょう。

具体的な例をあげてみましょう。
ある音楽家の方が、60歳を迎えて一生に一度ぐらいは医者というものに行ってみようと思ったそうです。すると、その時の医師は、

「あなたは運動不足ですので、運動をするようにしてください。」

と助言をしたのです。
そして、スポーツクラブへ通うようにしたら、腰が痛くなったそうです。それで、私のところへどうしたらよいだろうかと相談に来られました。その方には、

「楽器の演奏自体が運動になっているのです。だから、今までずっと元気に活動してこれたんです。そんな筋トレみたいな余計なことをしなくていいですよ。」

とアドバイスをしました。
この方は演奏さえしていればずっと健康でいられたのです。

このような勘違いを防ぐために、少し運動について掘り下げて考えてみるとよいでしょう。ただ、、こうした概念は少し難しいかもしれませんので、言葉を換えてみることを提案します。つまり、『運動』を『発散』というように表現を変えてみるのです。整体では、運動にあてはまる行動を発散と表現します。つまりエネルギーを消費する活動をすべて発散だと捉えるのです。つまり、ありとあらゆる行動のすべて発散となるのです。具体的には、汗をかくようなウォーキングやジョギングからはじまって、大きな声を出す、感動する映画を見てあるいは小説を読んで泣く、旅行する、ドライブする、おいしいものを食べる、料理を作るこれらすべてが発散です。将棋においてじっと座って次の一手を考えるのも発散ですし、難しい数学の問題を解くのも当てはまります。

ポイントはどういうことかというと、体が求めている行動をすることです。
ですから他人に言えないようなことすらも問題ありません。会社の憎たらしい上司や同僚の悪口を日記に書くことだって発散です。最近だったら、SNSやブログを使って発散している人は少なくありません。重要なのは、それをすることで体の中に溜まっているエネルギーを発散できるかどうかなのです。

多くの人にとっては発散できているかどうかというのはわかりにくいかもしれません。
もし、世間で言われているストレス解消みたいな行動を実際にやってみて、すっきりしていないのであればそれは発散できていないということだと考えてよいでしょう。

具体的にどうすればいいかわからない人には、大きめの書店へ行くことをおすすめしています。
ぐるぐると歩き回って、目に止まった書籍や雑誌を買ってみましょう。無意識に、目が止まるものはその内容が発散に最も向いている可能性が高いからです。あまり深く考えないで選択することで、自身の無意識や興味がどういうものに向いているのかを発見しやすくなります。

そして、実際にそこに書かれていることを実行してみましょう。
もしかしたら、最初はうまくいかないかもしれませんが、このような行動を繰り返していくうちになんとなく自分の嗜好や傾向がわかってくるはずです。そうやって最も自分が効率的に発散できることを生活に取り入れていけばよいのです。
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腕の痛みの謎:四十肩は本当に40歳の病気なのか?

体の不調を表現する言葉はいろいろありますが、まったく状態を捉えていない表現になっていることが多くあります。その最たるものの1つが、

『四十肩』

です。
40歳を超えた頃に腕がうまくあがらない状態を意味しています。かつては五十肩といわれ50歳を超えてから起こる運動障害だといわれていましたが、近年になって低年齢化がすすみ40代で発症することも少なくないようです。

整体師である私の立場で言わせてもらうと四十肩には言いたいことがあります。
まず、整骨院や整形外科の医師が四十肩と五十肩を別の症例だと考える発言を耳にすることがあることです。私は病院に行くことはありませんから、医師から直接聞くわけではないのですが、当院に相談にこられる方がたまに、

「五十肩だと思って病院に行ったら、あなたは四十肩だと言われた。」

言うのです。
まるで五十肩と四十肩が全く別物であるかのように考えているようです。おそらくは患者の年齢にあわせているのでしょう。カルテには何と書いてあるのか閲覧をしてみたいと思うことがあります。

なお、この理屈は当然だと思われているようで、30代で肩の動きが悪くなると、三十肩と診断されている人を見たことがあります。年齢で不調の名称が変わるのはいけないとは思いませんが、混乱を招くだけなので辞めた方がいいのではないかと思います。実際、整体の視点から意見を言わせてもらうと年齢はほぼ関係がありません。

四十肩の原因は整体的にはっきりとしていて、頚椎6番の不調が原因です。
実は、これはもう間違いのないぐらいはっきりしていることでもあります。わかりやすいのは頚椎6番の調整をやっていると腕に異変や痛みを感じることでしょう。頚椎6番に問題のある人は、ここ10年ぐらいでもかなり増えてきていると感じていますので、五十肩の低年齢化というのはそれが原因だといえるでしょう。

腕の神経は頚椎6番から伸びていると考えるとよいでしょう。
ですから、頚椎6番に異常があるとその影響で腕の動く範囲が小さくなったり、うまく動かせなくなって痛みが生じるようになるのです。

ここまで説明すると、四十肩という言葉の違和感に気がつく人がいるかもしれません。
四十肩というと、40歳という年齢と腕に痛みが生じることを指しているのです。この不調に年齢はまったく関係ないし、腕そのものにも原因は存在しない、つまりこの不調にはまったく関わりがない名が付けられているということになります。もちろん現実に痛みを感じるのは肩付近になるのは確かなのですが、その名称は起こっている症状をまったく表現していないということになります。

四十肩という言葉は、40歳という年齢と腕の痛みを関連づけるものですが、実際の原因としては首の異常が関わっています。このように、名前と実際の原因・症状が一致しないことは、一般的に混乱を招くことがあります。私には、山の話をしているのに突然海の話を持ち出すような、違和感があるのです。

人の体を部品ごとに切り分けて考えるのではなく、全体としての生命、連携するシステムとして考えることが整体の視点です。例えば、山の生態系が川の水質や河口での漁獲に影響を及ぼすように、私たちの体の一部が不調となれば、それが他の部分にも影響を及ぼすことは自然のことと言えます。
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