ブログ「日々整体」

2021年の課題と目標について

昨年はやろうと思っていた事の大半ができずに終わってしまいました。

あれこれと段取りはしたのですけど実行できずしまいです。なんでかというと私自身の体調がいまひとつだったからでしょう。前回の記事でもちょっと述べましたけど、案外早くに死ぬかもしれないなぁなんて考えるぐらいですから、体調の悪さは相当なものだったといえます。


一応、持ち直してきてなんとかなるのではないかという感触はつかんでいます。

だからここらあたりが正念場なのじゃないかと考えています。たぶんですけど、昨年まで数年が私にとっての更年期という時期だったのでしょう。


ちなみに、更年期という言葉を説明なしで使うとほぼ全ての人が意味を間違えます。

更年期というのは、成人から老人へ体が変化する過程の事です。だから、更年期障害なんての治す必要はなく、その変化をスムーズに行う事ができるぐらい健全な状態をたもっていればいいだけの話です。


私はこの変化を、


「芋虫が蝶に変わる変化を想像するといい。」


と説明しています。

芋虫はさなぎのなかで体を一回ドロドロに溶かして作り直すらしいですね。人間の場合は、それほど見た目の変化はないかもしれませんけど体の中ではそれぐらい大きな変化が起こっている訳です。ちなみに、厄年というのは、ちょうどその変化の起こりやすい時期の事ですし、占いなんかでいう大殺界なんてのもこの時期の体の変化を意味していますね。


逆にいえば、健全ではない人が更年期障害なんていわれる訳です。

一昔前ならこの時期の変化に耐えられなくて亡くなってしまう人が多かったのかもしれません。ただ、今でも死ににくくなってはいますけどスムーズに変化をできないのでは健全な状態とはいえません。だから、体にいろいろ抱えている人が多いのは多くの人が実感しているのじゃないでしょうかね。


医者なんかにいくと、


「更年期障害です。」


なんて事をいわれる人が頻繁にこられますけど、その発言をする医者は『更年期障害』とはどういうものかきちんと説明ができるのか確認をしてみるといいですね。確認は簡単で、


「更年期って、更年期障害って何ですか?」


と聞いてみればいいのです。

専門家や医者から納得のいく返事が返ってくることはまずないことでしょうね。更年期という言葉もまた便利使いされているワードの1つで、あなたが年を取ったことが原因で、我々医者や医療には何の問題もありあませんという責任回避をするためだけに使われている訳です。


さらにちなみにですが、昨年あたりから『老化=病気』という考えが流行はじめています。

私にいわせれば医学が見えていない把握していないものがあまりにも多いのです。それで、そういうものをほったらかしにしてインパクトのある風呂敷をひろげている訳ですから、中身がスカスカになっていると感じられます。何しろ、更年期の事すら理解が及んでいない、まともに把握もしていないのですからね。


そういう具合に、一部部分しか見えてない人が他人の人生や生き方に偉そうに口をだしてくるのです。世も末だなぁと、本当に思います。


話を戻します。


「今年は何をしたらいいのだろうか?」


と考えてみるのですけど、今はまだまだじっとしている時期のような気がしています。当然、じっとするといっても何もしないわけでもないのですけどね。たぶん、行動を起こす必要が生じるその時に備えてしっかりと準備をしておくことが大切なタイミングなのではないかと考えています。昨年末からはじめたジョギングなんかもその中の一つといえますね。


そんな訳で、今年もまだまだとろとろと整体という仕事を続けることになりそうです。

まぁ、今、体をみさせてもらっている人たちがしっかりと元気になってくればかなり忙しくなってくるとおもいますけどね。今年こそ、きちんとけりを付けて次の段階に上がる年にしたいと思っています。

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ジョギングをはじめました。

昨年末からジョギングをはじめています。 
自宅のすぐそばにグランドがあるのですけど、1周が250mほどでしょうか、そこをまずは5周走ってみました。一気に走るだけの体力はありませんから、1周ごとに休憩をいれながら、休み休みの5周です。 

翌日は1周追加して6周、という具合に毎日1周づつ増やしてゆきます。 
年末には10周をこえるようになりました。最初、1周目の後半でもう息があがっていたのですけど、いまでは息が上がることはほぼなくなってきました。 

私は運動をあまりすすめません。 
なぜなら、やりすぎる人が多いからです。だから、運動がやりたければある程度元気になってからはじめなければいけないと考えています。 

理由は、不調があると身体感覚がぼけてしまうからです。 
不調があるとどうしたって、 

「元気になるために頑張って体を動かす。」 

という意識が生まれてしまいます。 
その結果、運動の負荷がおおきすぎてかえって体を痛めてしまう人が多いのです。 

運動というものは体の欲求に従っておこなうことが理想です。 
ですから、元気になるためにやってしまうと負荷ややり方を間違えてしまうのです。簡単にいうなら、 

「走れば走るほど元気になる。」 

という勘違いをしてしまうわけです。 

しかし、現実はまったく反対です。 
運動を毎日やっているスポーツ選手と読書が趣味で外出はほとんどしませんという人ではどちらの方が怪我をしやすいか?考えるまでもなくスポーツ選手の方が怪我をする確率が高いのです。運動の負荷はあげればあげるほど怪我、ひいては病気を呼び込んでしまうということです。 

そういえば以前に、 

「走るのを辞めたら死んでしまうという走り方をしていますね。」 

と声をかけた人がいました。 
足の疲労の状態をみたらあきらかにオーバーワークだと感じたからです。 

すると、 

「辞めたら死んでしまう。」 

と本当に考えていたとおっしゃっていました。 
こういう具合に運動をすることで体がよくなるという考えにとりつかれてしまうわけです。こういう具合に、強迫観念にとらわれて体を痛めるような運動のやり方をしてしまう人がいる訳です。 

ジョギングをする人を頻繁にみかけます。 
でも、だいたいの人はあまりよいと思える走り方をしていません。 

『走ることが体に良い。』 

というような機械的な思考では長くはつづけられませんし、続けてもかえって体を痛めてしまいます。何を隠そう私自身も2年ほど前に同じようにジョギングをはじめていたのです。でも、足を痛めて辞めてしまいました。痛みは数ヶ月ほどつづいて、走ることが怖くなってしまったね。

余談ですけど、私の体は万全だと勘違いしている人が多いです。 
しかし、結構ダメな事になっています。実は昨年の中頃には、早ければ今年中に死んでしまうかもしれないと考えていたぐらいですから。 

それが変化したのが昨年11月ごろだったでしょうか。 
私が妙に辛そうにしていたのに気が付いた人もいましたけど、その時期に体の様子がちょっと変化しました。それで、たぶん今年死んでしまうことはないだろう思えるようになっています。長々と生きるつもりはありませんが、今、関わっている人たちにはきちんと元気に生活できる体になってもらって、それから死んでいかなくてはいけませんから、ちょっと運がよかったかもしれません。 

話を戻します。 

さて、 

「運動したいという人はどういう具合に運動するべきか?」 

なのですけど、やはり運動に関しては目標を持つべきでしょう。 
どのような体になりたいのか、どれぐらい元気なりたいのか?そういう目標でいいと思います。なぜ、目標を持つべきかというと、目標がなければ体を動かすことが目的になってしまうからです。 

例えば、ダイエットをしている人が夜遅くに食べるとダメだとかいって、18時にバカ食いしてしまうなんていうことを防ぐためです。こういう具合に、目標がずれてしまう事に気が付かず、ただ闇雲に体を動かしてしまうと面白くありません。ダイエットならたいていの人がきがつくのでしょうけど、運動に関しては専門家でもおかしな事をいっているのを頻繁にみかけますからね。多くの人が勘違いをしてしまうのは仕方がないことです。 

私であれば、毎日グラウンド20~30周ぐらいでしょうか。 
まずは、それぐらいの運動を毎日つづけられるようになることが目標です。当然ですけど、仕事もしながらですから結構ハードな生活になってくるはずです。そのハードな生活をすいすいこなせるぐらいの体の状態を目指したいわけです。 

あと、ダイエットです。 
昨年の長期休みのあとかなり太ってしまいましたから、贅肉を落としてしっかりした体作りをしたいと考えています。そうでなければきちんと整体ができませんからね。まぁ、春頃にはそこそこのイケメンになっているはずですので乞うご期待というところでしょう。 

さて、こんな事を考えていたら、とある銭湯で箱根駅伝の放送を見しました。 
走り方をみているとやはり大半の学生はそれなりのフォームで走っているように見えました。ただ、一部の学生は明らかに誤った走り方をしていました。そういう学生でも上位にこれてしまうあたりが走るという運動のややこしいところです。誤った走り方をしても早い人、適切な走り方をしていても遅い人がいるというです。 

ついつい、速ければ速いほどいいなんて考えてしまいませんか? 
そこがそもそもの間違いだということなんですけどね。適切な体の動かし方をしたときに速くはしれるか?それは、やはり適切な体の使い方を理解して実践、その結果、どうなるかはやはり生まれ持ったものがでてくるだけの事だという事です。 

まして健康を考えて走るのであれば、速ければいいのでもありませんし、長く走れるのが言い訳でもありません。 


「どういう走り方が自分の健康に役立つのか?」 


そういうところから考えないと行けない訳です。 


「運動で体を変えるのは難しい。」 


いつもいっている事なのですけど、なかなかこのあたりの事は理解してもらうが難しいのですよね。
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プラス思考と耳鳴りとめまいと

「自律神経の働きを整える。」 

言葉にすると簡単に聞こえることでしょう。 
しかし、実際はかなり難しい事です。以前にもどこかで述べたように思いますけど、主体がどこにあるのかという事をほぼすべての人が勘違いしているからおかしくなるのかもしれません。 

「プラス思考になれば人生がバラ色になる。」 

確かに、現実を見ないでいれば頭の中だけは幸せかもしれません。。 
しかし、現実をきちんと見ることができない人間は必ずどこかでつまずく事でしょう。生きて生活していれば良いこともあれば悪いことも、必ず両方の出来事が起こるからです。 

多くの人が間違えているのは、 

「悪い出来事を良いことだと考える事がプラス思考だ。」 

と考えている事でしょう。 
何かに挑戦しようとした時に、問題が起こるとします。 
それに対して、 

「これは辞めとけというサインに違いない。」 

なんて言って辞めてしまうのをプラス思考とかいったりしている人がいます。 
新しい事に挑戦するときに何らかの問題が起こるのは当然の事です。そういう課題を1つづつクリアしていく事を挑戦というのです。

逆の例もよく見かけますね。 
あきらかな問題があって手を伸ばしてはいけないのに挑戦することをプラス思考といっていっている人がいます。知っている人がとある商品を輸入できる事になったのだけど、関税がかかるので値段があがってしまうと。それで、何を考えたのかとというと空港の職員を探して関税がかからないように空港を通り抜ける方法を探していました。たぶん、犯罪行為になってしまうのでうまくいっていないと思いますけどね。 

こういう具合に、様々な形でプラス思考という言葉が都合良く使われている訳です。 
だいたい医師なんかがプラス思考という言葉を使うときってどういう時かというと、 

「私には治せません。」 

という時です。 
適切な治療があって快方に向かうのであればこんな言葉がでてくるはずがありません。治せないという言葉を使うと自分の権威が傷つくとでも思うでしょうか。そのつまらないプライドを守るために、目の前にいる人を傷つけたり、苦しめて良心が痛まないのかと思いますけどね。 

プラス思考という言葉、自分の都合や気分によって使い分ける人たちが非常に多いのでは私はとても嫌いです。 

「辛いのは穴がマイナス思考だからだ。」

なんていう医師に出会ったりしたときには蹴飛ばしてやればいいですね。


でも、それでも多くの人はあえてプラス思考とか前向きという言葉が好きなようです。 
ですから、この言葉は 

「悪い出来事をプラスに転じるにはどうすればいいか。」 

と考えるための思考であると定義しておくといいのではないでしょうか。 
そう考えると、めまいや耳鳴りで辛いなぁ、 

『しんどいなぁと感じているのを気にしない。』 

というのはプラス思考でもなんでもりません。 
気にしないというのは、さっき述べた現実を見ないという事です。家で家事が起きれば火を消すか、逃げるかしないとまずいのです。いつか消防士がやってきて火を消してくれるというのはプラス思考でもなんでもありません。 


ちょっと話がそれます。 
最近知ったのですけど、仏教を開いた釈迦は、 

「体の感覚を大切にしよう。」 

という事をうたっていたそうです。 
これ偶然にですが、私の考えと同じです。 

「釈迦と同じような事を考える俺って、もしかしたらすごい奴なんじゃないか。」 

という気持ちになるぐらいです。 
でも、たぶん、幸せに生きようとか、楽しく生活しようとか考えていたらたぶん多くの人がこの考えにいたるのじゃないでしょうかね。なぜなら、幸せとか楽しいとかいう気持ちや感情は体で感じるものだからです。 

映画館にいって映画をみる、ディズニーランドで乗り物に乗る、嵐やAKBのコンサートに参加する、こういう体験が頭の中だけで完結すると考えてしまうか?そういう風に考えてもらうと半数ぐらいの人にはわかってもらえるのじゃないかと思いますけどね。 

そういや4DXという体験型の映画館での話です。 
映画の主人公が胸の大きなヒロインに後ろから抱きつかれるシーンがあったそうです。その時に、シートからドンと背中を押されたのですが、 

「これが彼女の胸の感覚か!」 

とか思ったそうですけど、そんなはずがありませんよね。 

話を戻します。 

耳鳴りの音がやかましい事や、めまいでまともな生活を送れない事をプラスに転じるのはかなり難しいと思います。現実的に考えて不可能だといっていいでしょう。 

例えば、今、とあるカフェでこれを書いている訳ですが、窓から外をみると背中を丸めた冴えないおっさんがポケットに手を突っ込んで歩いています。そのおっさんを、 

「実はイケメンだ!」 
「実はこのおっさんは存在しない。」 

と思い込んでもイケメンに見える事はありませんし、消え去る事もありません。 
なぜなら、そのおっさんは現に存在していますし、それが私の目に写って認識されているのです。認識してしまった以上、消える事はありません。 

そして、このおっさんがどうしても不愉快に感じたとしましょう。 
この時、どう考えるのがプラス思考といえるでしょうか。気にしない、存在しないものとするのは無理でしょうね。できると思うのであればやってみてください。目の前に人がいる状態で、 

「この人は存在しない。」 

と思い込めばその人は消えるのか? 

気になるから不愉快に感じるのです。 
だから、そういう時にはどうするかといえばカフェを変えるというのが正解じゃないでしょうかね。まぁ、幸いにして、目にとまっても不愉快ではありませんでしたし、気にもならず、すぐさま通り過ぎて視界から消えていきましたけどね。 

ここまでいくと何がいいたいかわかってもらえることでしょうか。 
耳鳴りやめまいをすでに感じてしまっているのです。それを、 

「気にしない。」 

というのは無理、不可能です。 
ですから、幸せに暮らしたいと思うのであれば、 

「めまいや耳鳴りをしっかり感じてどう生きていくのか?」 

と考えるのが正解でしょう。 
よい解決方法で1つ例をあげるのであれば、一昔前のヨーロッパの神父には、 

「地球の自転の音が聞こえる。」 

という人がいたそうです。 
たぶん、耳鳴りがなっていたのでしょう。だから、前向きに生きていきたい、プラス思考になりたいと思うのであれば彼を参考にすればいいでしょう。めまいなんかも同じ要領でいけるのじゃないでしょうかね。 

ただ、この考え方は普通の人には無理だと私は思います。 
実際、めまいも、耳鳴りもかなり辛いものです。じゃあ、どれすればいいかといえば簡単です。 

「ちゃんと止めてしまえばいい、治してしまえばいい。」 

たった、それだけの事なんです。 

あなたにプラス思考にとか、前向きに生きろとかいう人間がいたら、 

「辛さも苦しさも解っていないくせに、聖職者みたいな人間になれとか簡単にいうな!」 

と言い捨てて、その人とは縁を切ってしまえばいいでしょう。これが本当のプラス思考、前向きな考えじゃないでしょうかね。
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自律神経の働きを高める方法

「自律神経の働きをよくするにはどうすればいいのか?」 

よく頂く質問ですけど、答えようのない質問だという事に気が付いていない人が多いのです。 
そもそも自律神経とはなにかという事をわかっていないのに、それをよくするとはどういう事かを考えても意味がありません。 

交感神経と副交感神経があって交感神経が緊張するから体に問題がおこるのだという稚拙といっていい理屈がまかりとおっています。そんなんでうまくいくなら誰も困る人などいないはずだという当たり前の事を考えられないのは不思議でなりません。 

多くの人が自分の体には自律神経という部品があると勘違いをしているのです。 
自分は生きているという自覚はもっているのに、寄せ集めの部品で作られた存在だと勘違いしているのですから困ったものです。 

どういう事かというと、人間の体は筋肉、内蔵、血液、脳、そして自律神経からできていると考えているわけです。それで、自分の体は自律神経の働きが悪いから、自律神経だけをちょこちょこといじれば元気になるはずだという理屈です。 

残念ながら、生きているということはもうちょっと複雑です。 
だから、血液だけが悪い、内臓だけが悪い、自律神経だけが悪いという事はありません。そういう具合にシンプルに考えてしまうとうまくいかきません。 

私は、自律神経の働きを整えるという事は、自然環境を整えるようなものだと説明しています。 
だから、1つ事だけとらえて考えてもうまく整いません。例えば、ある港のある海で魚がうまくとれなくなったとき何が起こっているかというと、山で木が枯れているからだったりする事があります。海の事なのに、山が関係あるのかというと不思議に思う人もいるかもしれませんけどね。 

私が知っている話だと、日本においてはかつて住宅を建てるための木材を伐採してその分、杉の木を植えていた時期がありました。杉の木であれば需要があると見込まれていたわけですが、いまではそれが花粉症の1つの要因になっているのは多くの人がご存じでしょう。 

また、杉の木ばかりになって影響を受けているのは花粉症だけではありません。 
偏った種類の木ばかり植えていると、山に流れる川の水の成分が変化してしまうそうです。その結果、川から海に流れ込む河口にプランクトンが集まらなくなり、それを食べる小さな魚が減って、さらにそれを食べる魚も集まらなくなってという具合に山に植えられた木という要素が漁師の漁獲量に影響を与えてしまうのだとか。それはちょっと困るという事で山の気を伐採して、まな板やらに加工して販売しいてる人がいるらしいですね。 

あなたが漁師だった場合、どうすればよいでしょうか? 
漁師を辞めて他の仕事ができればいいですけど、そんなに簡単な事ではないのは想像がつくのではないでしょうか?木を切って山の様子を変化させるのもそれほど簡単にはできないわけです。何しろ杉の木を植える前の山の様子は、何百、何千年もかけてできあがってきたものですから、そんなに簡単に元通りになるわけがありません。 

こういう様子を人間の体に置き換えてみてください。

「河口にプランクトンをまけば元通りの漁獲量になる。」 

みたいな事を大々的に謳っている人たちばかりなんですよね。 

まだピンとこないようであれば、農業で考えればわかりやすいでしょうか。 
化学肥料で土作りをしていると土地がどういう風になっていくのか?環境というモノは、それほど都合良く変化してくれる訳ではないのです。 

人間の体の場合は、さらにややこしい要素が増えてきます。 
何かというと、モノを考えるという事です。全ての人が、健康で文化的で、毎日が楽しくて仕方ないように過ごしたいと思っているのです。でも、実際はそれを達成できている人など全体の一部でしかないのじゃないでしょうか?私が知っている人だと松岡修造氏ぐらいのものでしょうかね。

つまり、自律神経というものは、自分の意図する通りには働いてくれないものなのです。 
だから、運動は毎日できないし、ダイエットは成功しないし、勉強も毎日つづけられない、仕事だって熱心に取り組めません。自律神経の働きが高まれば人生なんて思いのままになるはずですけど、現実にそんな風な生き方をできている人はかなり少数なのです。 

だから、こういう自律神経の特性というものをまずはあたまで理解することですね。 

やりたくないことをやる時、体は重くなって動かないものです。 
それとは逆に、興味を持てる事が前にあると体は軽くなって動けるようになります。うちの息子なんて、眠いとかいってゴロゴロしていても、 

「寿司でも食いにいこうか。」 

というと急に元気になって体を起こして支度をはじめますからね。 
ただ、こういう言い方をすると、 

「好きな事をすれば自律神経が働きだす。」 

多くの人が勘違いをしはじめます。 
息子を毎日寿司につれていったらどうなるでしょうか?たぶん、3日目ぐらいには、 

「今日は寿司の気分じゃない。」 

というでしょうね。 

さて、人間という存在をロボットのように考えていないでしょうか? 
温めたら元気になって、冷やしたら調子をくずす、こう言ってしまうと確かにその通りの存在ではあるのです。でも、人間という存在、自律神経といものはそんな単純なものではありません。だからどうするかというと、 

「笑う門には福来たる。」 
「思い立ったが吉日。」 
「案ずるより生むが易し。」 

といった具合に、あれこれとことわざだったりにして残っています。
本当は、こういうのが自律神経の働きをよくするために必要な知恵や知識なんですけどね。

「学術的な理解がすすむと、なぜかそのものについての理解が浅くなる。」 

そういう傾向がでてくるのは本当に不思議です。 

たぶん、様々な知識や知恵がいろんな邪魔をしてくるのだろうと思います。 
だから、いつも、 

「お金儲けとか恋愛に置き換えて考えてみてください。」 

とお話しています。 
そうすると半分ぐらい人にはわかってもらえます。 
自律神経の働きを整えるっていうことは、よりよい人生をおくるって事なんですよね。よい人生をおくろうとすると、自律神経の働きはたかまってくるし、自律神経の働きが高まるとよりよい人生になってくるものです。 
ただ、体に問題があって自律神経の働きがうまくいかない人がまれにいるわけです。 
そういう時は迷わず相談にきてもらいたいなぁと思いますね。 

「恋愛やお金儲けがうまくいかないときにぐぐって解決する。」 

なんてぐらいの事でうまくいくのであれば何の問題もないのです。それでもうまくいかないときに整体っていう技術が必要になってくるのですから。
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死なないようにする事と、生きる事は同じ意味か?

どうも医者は人が死ぬことを許しません。 
人間という生き物にはいつか必ず死が訪れるのにです。いつか必ず死ぬ生物に対して死んではいけないというのはおかしな事だとは思いませんか? 

人はどのように死んでいくことがいい事なのか? 
どのような死に方をするのが幸せでしょうか?私はいつもそんな事を考えています。そして、残念ながら医療のお世話になりながら亡くなるという過程は、とてもじゃありませんがよい死を迎える事ができないと感じられます。 

寿命のある限り精一杯生きて、それで死んでいく事ができれば、人間は幸せに一生を終える事ができると考えています。たったそれだけの事だけが重要だと思うのですが、医療においてはそういう風に考えることはできないようです。なぜなら、 

「死んではいけない。」 

という考えが縛りになっているからだと思います。 


今の世の中で、亡くなっていく人たちは精一杯生きていたと言えるでしょうか? 

「死なないようにしていただけ。」 

そういう事になっていると私には感じられます。 
死なないようにするのと、生きるという事が違う意味になっている訳です。 

「生きてさえいればきっと良い事がある。」 

それは確かにそのとおりでしょう。 
人間は死んでしまえばそれでお終いです。生まれ代わりとか、魂とか、極楽浄土とか、天国とか、そういう考えはありますし、もしかしたら本当にそういうものはあるかもしれませんけど確認はできないものばかりです。いったん亡くなってから生き返ったみたいな人、臨死体験をした方も現実にいますけど、あの世の記憶をもって帰ってくることはありませんからね。 

ちなみに、天国とか極楽とか仏教がそう謳っていると思っていないでしょうか? 
でも、実際は、仏陀は天国や極楽浄土があるなんて事は言ってはいないのだとか。どうも信者を獲得するために後付けで加えられた考えというのが本当のところみたいです。こういう現実を知るとほとんどの人は死について考えるのが本当に恐ろしいのだろうなぁというのを実感できますね。 

さて、千の風という歌があります。 
日本ではなくなった方は火葬されますから、体は塵やガスになって空気中に散らばってしまいます。その分子の量は、世界中を覆い尽くすほどの数になります。 だから墓の中には自分はほとんどいなくて、ほとんどは大気の中に散らばってしまっているわけですね。

今現在、生きている世界中の人はかつて人間だった分子や粒子を呼吸や食事の時に、いつも吸い込んでいると考えて間違いがないそうです。この辺りの話は、生物学的には動的平行とかいますけど、我々の世界はこのように循環して成り立っている訳です。

例えば、このような考えがあると、 

「死んだら行けない。」 

という発想から抜け出す事ができないでしょうか? 
まぁ、本当のところはもうちょっと様々な事を知らないと、死というものがただただ恐ろしいものだと思うのかもしれません。ただ、少なくとも生の終わりが死であるのであれば、死というものは生にはなくてはならないものだとは思いませんか?生きるという事は死から遠ざかる事ではなくて、死にまっすぐ向かっていく事だとは思いませんか? 

逆の状況を考えてみてください。 
我々に寿命がなくなって永遠に生きる事ができるようになってしまったときに、自分は今の自分のままでいられるのかと想像をしてみてください。私が知っている話だと、銀河鉄道999なんかですが、機械の体を手に入れて永遠に生きるようになった人たちは生きる意味を見失ってしまっていました。 

ただ、死ななくなるなんてとても素晴らしいと考えてしまう人の方が多いでしょうか。 
単純に不老不死と思われる生物は実際に存在しています。でも、そういう生物って性がなかったり、人間なんかと比べてもっと原始的な生き物です。性を捨てて、人間を辞めて、そういう生物となるという事と、機械の体を手に入れる事に差はないのじゃないでしょうか。星野哲朗の母親は、機械化した人間に殺されて剥製にされていました。そのような行為に問題意識を感じる事ができなくなる、それが不老不死になるという事だと私は思いますね。 


それで、最初の質問に帰ってみましょう。 

「死なないようするという事と、生きるという事は同じ事を意味しているか?」 

私にはまったく違う事を意味していると思われます。
この疑問は、 

「人は死んでいなければ生きているといっていいのか?」 

と言い換える事ができます。 

簡単に例をあげるなら寝たきりの老人です。 
そのような状態になった人のなかには、自分の力で着替えも、食事もできないどころか、トレイもできない、自分で物事をちゃんと考えられているかも怪しいなんていう人いるわけです。この状態ではおそらくですが幸せを感じる事ができない状態になっているとは思いませんか? 

生きるという定義を考え直してみてはいかがでしょうか? 
お医者さんって、寝たきりにしてしまう事を良しとするのです。とにかく心臓がとまらないようにすることに全力で、あとのことは一切考えていないのですからね。介護をする人間の負担なんか一切考えていないといっていいでしょう。まぁ、彼らにとっては、 

「生きてさえいればきっと良いことはあるし、死んだらすべておしまい。」 

だからです。
でも、それを受け入れるかどうかは1回よく考えたほうがいいのじゃないでしょうかね。

単純に考えてみてください。 
心臓がとまらないように必死になって、そのいきつく先が寝たきりだったり、介護が必要な状態になるというのは面白くないのではないですか?整体にこられた人に聞いたら、全員がそんな状態になるのは嫌だといいます。 

そこで、私は、 

「幸せを感じる事ができる状態を生きているとする。」 

なんていうのを提案しています。 

ここから先は私の印象とか感想の話になってしまいますけどね。 
心臓をとめない、動かす事を優先させすぎると大事なモノをなくしてしまっています。それは何かというと、

「幸せを感じる力。」 

です。 
こちらの動画でちょっと寿命について話をしているのでご覧になってもらうといいでしょう。 




「人間という生き物は一生に消費できるエネルギーは決まっている。」 


という事です。 
この事は、 

「人間という生き物は一生に感じることのできる幸せの量は決まっている。」 

という事とも言えます。 
この事を踏まえて考えると、死なないようにするという事が何を意味しているか? 

「幸せを感じる事をできないようにしている。」 

という事です。 
寝たきりになるというのは、医学が定義する生存という状態をもっとも長期間維持できる状態です。最低限度の栄養だけ摂取して、ひたすら体を安静にしているわけですからね。 

この事は薬の副作用なんかで体をおかしくしてしまった人たちを見ていると手の感覚でも確認はできますけどね。幸せというのは心臓の動きそのもので、心臓の動き悪くなったり、弱まったりしていると幸せを感じる事ができなくなってしまう訳です。そういう人たちに、 

「ストレスだ、心の問題だ!」 
「ADHDだ。」 

とかいろいろ好き勝手な事をいっている印象です。 

私は、亡くなるときには、 

「ありがとう。そして、さよなら。」 

シンプルにそんな言葉を残していけたらいいと考えています。 
ひたすら死なないように努力したときに、この目標は達成できるでしょうか?医師に体をあずけてしまうと、ひたすら心臓を動かす努力を続けられる訳ですから怪しいと言わざるを得ません。

まぁ、私自身はまだ死にそうな気配はありませんが、もう人生の折り返しは回ったように思いますからぼちぼち亡くなる時の準備をはじめているつもりです。 

早ければ10年も生きていないような気もしますし、下手をするともっと長生きしていしまいそうな気もしています。何を残して死んでいくのがいいかと、そんな事を日々考えているわけです。なにしろ、死ぬ準備ってのは元気でなければできませんからね。 

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