ブログ「日々整体」

病気や怪我が治るという事の意味

体にもこの適応作用があつて外界よりの刺激に抵抗する力を生じ、外界よりの変化に適応するの作用がある。俥屋の脚、鍛冶屋の腕が強く、乞食の皮膚は寒風に堪え、婦人の骨盤は大きく、熱帯人の皮膚が黒く、湿帯人の皮膚は黄色く、寒帯人は白い、髭は剃るほど濃く硬くなる、之皆適応作用んさるものである。適当な刺激はその能力を発達せしめ、その能力を用ひざるに於いては暫次衰退する。

(略)

現代医術の如く、他動的に体内の病毒を無毒にする方法のにみに腐心し、自然の能力を藉ることを知らざれば、人間固有の抵抗力、癒能力を減退せしむるの結果に至るは理の当然ではないか。

先日、

「野口晴哉師の著述が古典のようだ。」

という方がいたので、念のため現代風になおしておくことにします。
それほど難解ではないかもしれませんが、国語が苦手な人には理解が遠くなってはいけないと思いましたので。


<意訳>
人体には適応する力があって、外部からの刺激に抵抗する力をもち、変化に適応する力をもっています。人力車の引き手の脚や鍛冶屋の腕は太く強くなるし、ホームレスの皮膚は屋外の冷たい風に耐える事ができるようになり、女性の骨盤は大きくなり、熱帯地域に住む人は肌が黒く、湿度の高い地域に住む人は皮膚が黄色くなり、寒冷の地域に住む人たちの肌は白くなり、髭は剃るほどに濃くなります、これられは人間の体がもっている適応力が働いて得られたものです。様々な体への刺激は、その刺激に対して対応する能力を高めますが、その適応能力を使わずにいるとその能力は衰退していきます。

現代の医術のように、体の中にはいった毒素や病気の元を除去あるいは無毒にする事だけを考えて、本来、体が持っている適応能力を使わないでいると、人間が本来もっている抵抗力、癒能力は低下して機能しなくなるのは当然の事です。


この文の解説は四面楚歌に掲載しています。
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東京(蒲田、日暮里)の整体について

東京と日暮里の整体の日程です。
日暮里は空きが少なめですが、蒲田は余裕ありです。

希望される方は電話で申し込みください。



蒲田
日時11月21日(日)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~
 15:30~ 16:00~ 16:30~ 
 17:15~ 17:45~

日時12月5日(日)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~
 15:30~ 16:00~ 16:30~ 
 17:15~ 17:45~

日時12月19日(日)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~
 15:30~ 16:00~ 16:30~ 
 17:15~ 17:45~

日暮里
日時11月22日(月)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~ 15:00~
 15:45~ 16:15~

日時12月6日(月)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~ 15:00~
 15:45~ 16:15~

日時12月6日(月)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~ 15:00~
 15:45~ 16:15~

日時12月6日(月)
  9:30~ 10:00~ 10:30~ 11:00~ 11:30~
 13:00~ 13:30~ 14:00~ 14:30~ 15:00~
 15:45~ 16:15~ 16:45~
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人体の天賦の自然療能を助長し、以て疾病を癒やすべき

そもゝ医術なるものは、人体の天賦の自然療能を助長し、以て疾病を癒やすべきで、単に疾病を治療するのみで足れりと為すべきではない。(略)

凡そ生物は外界の刺激に対して反応を起し、且つその性質、形態、能力を変化する妙能をもつてゐる。されば同一の刺激を受くること久しければ、暫次之に応じてその構造なり官能なりが変化を起こしてくる。之即ち適応と称して生物の自然に恵まれた妙機に他ならぬ。この妙機を有すればこそ、よく外界の変動に順応して、生活を維持して保有して行く事が出来るのである。


「薬がなければどうやって病気や怪我をなすのか?」

こういう事を正しいと考える医師が少なからずいます。
SNSなどで医師の発言を目にする機会もすくなくありません。どうも大半の医師、もしかしたらすべての医師がそのような事を本気で考えていると思ってしまう事すらあります。彼らはとにかく、

「ツバをつけてほっておけ。」
「安静にして寝ておけ。」

という事を絶対に言いません。
当然ですけど、別に必要な治療や手当ををやるなといっているのではありません。しかし、体が本来持っている自然治癒力を活かして治したら傷はきれいになくなりしますし、病気が治った後の方が頑健な体になります。

怪我や病気だとわかりにくいかもしれないので、暑さ寒さで考えるとわかりやすいでしょう。
北の方に住んでいる人は秋冬になると気温が低下しますから寒さに耐えられる体の性質に変化してゆきます。単なる慣れだと思うかもしれませんが、性質が変化して低い気温でも元気に生きていけるようになるのです。

その逆の暑さも同様です。
北海道に住んでいた人が京都に引っ越してきたら梅雨から夏にかけての蒸し暑さには辟易する事でしょう。でも、1~3年も過ごしていれば体が変化してそれなりに対応できるようになるものです。

このように体の性質を変化に薬やサプリメントで促す必要はありません。
むしろ余計なもののが加わるとその性質の変化を邪魔をしてしまいまます。寒い地域に暮らしていたとしても暖房が完備された暖かい屋敷の中だけで生活していると体は性質を変える必要がないからです。

凡そ生物は外界の刺激に対して反応を起し、且つその性質、形態、能力を変化する妙能をもつてゐる。

すべての生物がそうなのです。
人間という生物が特別でそのような能力を持ち合わせいないと考えていないでしょうか。健康である、元気であるという事は環境や状況の変化に対応可能な状態であるという事を忘れてはいけません。
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医は医なきを期する

現代の医術は誤りたる方面に進んで来た。ただ効果の有無如何より論ずるに非ず、全生道より見て敢えていふのである。元来、医の目的とするところは「医は医なきを期する」にあるので、人世より医を除去すべきにある。従って病人の疾病を治するのみではなく、再び疾病に冒されざるやう、導くべきが正当である。医師の手を借らずして病に冒されざる為には、勢ひ自己自体の抵抗力、癒能力を強大にし、精神を強固にする他、道なきは自明の理である。然るに現代医学の治療方は如何、血清その他の化学療法により、外部的にのみ力を加へて他動的に治癒を試みるか、然らざれば外科的手術を用ひて猥りに人体を切開、切除して以て得々としてゐる。之果たして医術して正しき方法であらうか。予はいさゝか現代の医術なるものに対して、その是非を批判してみようと思ふ。
野口晴哉著作全集1巻より

「医は医なきを期する」

医療とは医者なしで元気に生活できる状態にすることを目指さなくてはいけません。
医者がいなければ生を全うする事はできない、健康にもなれず、幸せにもなれない、というのはおかしいと思いませんか?

定期的に検査をして何かあれば通院する、または定期的に薬物を処方してもらわなければいけないという発想は根本的に誤った考えです。

「そんな事が不要になるにはどうすればいいのか?」

それが医の本質であり、本来目指すべきものでしょう。
私が朝の通勤時に病院の前を通ると行列を作って雑談を楽しんでいる老人たちがいます。この人たちはなぜ毎朝のように通院していることに疑問を感じないのでしょうか?

『病院は紳士淑女の社交場』

と皮肉った表現がありますね。
彼らは他人との会話をするために通院しているのであって医療を受けるために通院しているわけでないのでしょう。それだったらそれは病院である必要はありません。

医療なしで元気に生活できるとはどういう事か?

続きは 四面楚歌に掲載しています。
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野口晴哉の全正論について

全生 ── 生を全うするの道を示すものである。生命力の強い現れである。即ち寒暑に冒さるゝことなく、粗衣粗食を厭うことなく、労して疲るゝことなき積極的な意味を有してゐる。寒暑を避け、飲食に恐れを懐きて、その質を選びその量を量るが如き、着るに暖衣を以てし、労するを憂ひて生を衛が如き消極的の意味を含まぬ。所謂衛生なるものとは、その性質を異にする。 

全生 ── 生を全うするの道は、健体を創造し彊心を保持して、之を活用することである。 
然るに現今行われつゝあるところの体育、衛生、医術などは、果たしてこの意義に副えるや否や。思うに真の目的に逆行して、却って心身を虚弱ならしむる現象を呈してゐるのではないか。之何故なるか、その誤り何処にありや。 
 本誌『全生』は先ずその欠点、欠陥を指摘して一般の誤りを正し、而して諸君の前に全生の大道を開示せんとする。 


所謂(いわゆる) 
彊心(きょうしん) 強い心の意 

これは野口晴哉師が全生論として書き始めた文の書き出しです。 
野口晴哉著作全集 1巻の最初に掲載されているものですが、書いたのは昭和5-6年とあります。それから100年ほど経過している訳ですが、世の中の医という物に対しての考え方はこの頃から全く変わっていないという事がわかります。

当時、全生という雑誌を発行してたようです。 
おそらく今でも整体協会が発行しているのではないでしょうか。整体協会の今の考えは 

「自分の事は自分で面倒をみなさい。」 

という事のようだと感じています。 
しかし、今、目の間にいる人が、 

「辛くて体が起こせません。」 

といっている時に、 

「自分の事は自分で面倒をみなさい。」 

と突き放す事は私にはできませんでした。 
もしかしたら違うのかもしれません。実は、勉強をさせてもらおうと通った事もありましたが歓迎されるという雰囲気はなくで邪険に扱われたという印象しか残っていません。たぶん、参加している人たちがすべて自分の事しか考えなくなってしまっているのでしょう。全生という事を最大の目的とすると、それが正しいあり方だとは思うのですが、他人に気を配る事を辞めおろそかにしてしまうのは違うと感じました。 

それで、私は他で整体を学びました。
整体を学ばせてもらった所では、野口晴哉師の著述についてはあまり語られる事はありませんでした。そこで野口晴哉師は神様のように扱われていたとは思います。しかし、野口師の発言や考えについてはあまり掘り下げて語られるような事はありませんでした。これまた不思議なもので、 

「今、目の前で困っている人を助けよう。」 

と思う整体の技は、野口師の言葉からかけ離れたものになってしまうようです。 
救うことが第一の目的になってしまうと、整体師は医術の発想に近寄っていくことになるようです。


生を全うするの道は、健体を創造し彊心を保持して、之を活用することである。 


『全生、生を全うするとは、健康な体と精神で、人生を創造することである。』 

現代風に表現するならこのようになるでしょうか。 
そして、野口師は、 


医術などは、果たしてこの意義に副えるや否や。思うに真の目的に逆行して、却って心身を虚弱ならしむる現象を呈してゐるのではないか 


と、医術を批判していいます。 
これは私が普段からよく口にする、 


『医学、医療は人を虚弱にしてしまって、幸せから遠ざけている。』 


という事と同じ意味だと考えるとわかりすいでしょう。 

私は基本に帰ろうと思います。 
その基本とは、 


『全生』 


です。 
全生とは、幸せな人生の事だと私は思います。 
長生きしたら幸せなのか、早く死んだら不幸なのか、病気になったら不幸なのか、健康診断で異常がみつからなければ幸せなのか?こんな事柄は、全生、我々の人生の幸福にはまったく関係がない事だとは思いませんか? 

アレを食べてはダメ、これをしちゃいけない、こういう運動がいい、こういうことを積み重ねていても生を全うして幸せになる事はできません。 

では、どうすればいいのか? 


健体を創造し彊心を保持して、之を活用することである 


という事を目標にしなくてはいけません。 
健全な体と精神を創造してそれを活用したときに人は幸せになれるのだと思います。


今後、このような形で野口晴哉師が残したものに注釈をいれてゆきます。
そうすることで整体についてさらに理解を深めてゆくことができると思います。実は、かなり前からこの考えはあったのですが、なかなか手をつけられずにいました。どうも私は、自分の知識や技術に対して自信がなかった、あるいは足りなかったようです。でも、今ならそれなりの内容にできるのではないかと考え始めることができるようになったと感じています。
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