正射必中と清く正しく美しく
弓道の言葉に、正射必中というのがあります。 弓道で出会ったカップルが、この正射必中についての考え方の差が理由で別れる事になったというので2020年に盛り上がっていました。その時に、この言葉を魚にして記事を書いた記憶があります。今回、再び書くにあたって何を書いたのか見返してみました。その記事は『正射必中と必中正射』というタイトルで残っていますが、その時は体の感性の違いについて書いていたようです。 正射必中という言葉を簡単に説明すると、 「正しい射(弓を射つの意)ができれば的にあたる。」 というような意味です。 私は常日頃、
「普段どのような事に気をつければいいですか?」
という質問にたいして、
「清く正しく美しく生活をする事が大切です。」
と答えている訳ですけど、これは正射必中という考えに通づるものがあると思います。 健康になる人間は、健康になるべく生活をしているし、健康を失う人は失うべくして失っています。 清く正しく美しくという言葉の中には、 『人の命には限りがあるのだから、そのことを踏まえて一日一日を大切に生きてましょう』 という意味が含まれていると思います。 ちなみに、野口晴哉師の表現になるとこの事を意味するのは『全生』という言葉になるでしょうね。 日本人の平均寿命は70とか80年とか、そう遠からず100歳を超えるんて言われています。でも、この考えは大きく誤っていると感じています。ポイントは2点あって、 一点目は、 『たいした理由もなく死んではいけないと考えている』 という事です。 人はいつか必ず死んでしまうのに、死んではいけないと言う人が大勢いるのです。 「死んではいけない。」 そう言うのであればどうして死んではいけないのかをちゃんと説明してくれればいいのですけど、どうして死んではいけないのかをちゃんと説明してくれる人は皆無です。 二点目は、 『長く生きたからといってその分幸せになる訳ではない』 という事です。 寿命が延びて10~30年長く生きたとしてその分味わう事のできる幸せの量が増えるのか?私は確信をもって増えないと考えています。 人間が一生に感じる事のできる幸福の量には上限があります。 日々、人の体を観察しているとそう確信をもっています。そして、その幸福をすべて味わいつくしたた時が寿命です。だから、10代で死んでも、70代で死んでもその人生で味わった幸福の量は同じです。 科学的な根拠を示せといわれても提示はできませんけどね。 下世話な例をあげるなら、年老いて、食事は自分で食べれない、排泄が自力でできない、家族の顔をみても誰だかわからない、みたいな状態になった時に、幸福を感じる事ができるか?と考えてみてください。周囲にそういう人がいるなら、
「幸せですか?」
と、聞いてみるといいでしょう。
生きているという事は幸せを感じる事ができる状態を意味しています。
だから心臓が動いていても生きているとはいえない状態もあります。医者とは異なった見解でしょう。しかし、自分の意思をもっているのかもはっきりしない状態を生きているといってしまうのは違うと考えています。
ちなみに、いわゆる植物状態にある人でも意思をちゃんともっていて、ある機器を使う事でコミュニケーションがとれるケースもあったりします。そういう人はちゃんと生きているといっていいでしょうね。
さて、こんな人生観をもっている私にとっての正射必中とはどういうものか? というと、
『正しい生き方ができれば人生という矢はちゃんと的にあたる』
という事です。 的というのは、私にとっては死です。 たぶんあと5~7年ぐらいで死ぬ事ができれば理想的な人生なのだろうと思います。でも、私は器の小さな人間なので、清く正しくなんてのはできいいていないような気もしますし、下手をこいていてもうちょっと生きてしまいそうな気もしています。 人生なんて一発しか矢がないわけで、それを必中で放つ訳です。 弓道でいうと、今は弓を引いた状態で、矢を放つ直前というぐらいのタイミングでしょうか。手を矢から放してしまうともう取り返しがつかないわけで、それを怖いと感じるのが、 「死にたくない。」 という思いと同じなのだろうなぁとそんな事を考えました。 もう50年近く生きてきた訳で、今更、修正がきかない状態であるともいえます。 納得のできない無様な死に方をしてももう仕方がないでしょう。そんな事を思いつつ、そんな余計な思いは振り払ってただただ無心に矢を放つのが正射必中というのだろうなぁと。
そんな風に考えている訳ですが、たぶん、
「これはもうろくな死に方はしないだろうな・・・。」
と、自分の人生を振り返って思います。
私はこれから自分の人生のまとめをやっていかないといけないタイミングなのだろうなぁと思うのです。的に届かなかったり、大きくはずれても、仕方がないから、死んだ後に周りにかける迷惑は最低限度にするための準備をしておこうと思うのでした。
死は罪なのか?
胃袋を無視するから自律神経失調症になる
アロマオイルから考える冷え解消
「あれ?なんか手が温かい!」
手先にアロマオイルを塗り込んでみたら手が温かくなりました。
オイルを使ってみはじめたのはちょうど1年ぐらい前からです。その頃は、手先が温かくなるという感覚はなかったように思います。なんか具合がいいなぁというぐらいの感覚で、春先までそのオイルを使っていたように思います。
私は普段、手先がかさつくという事はありません。
だからアロマオイルを使ってみようと思ったのもなんでだったのか覚えていません。多分、世間であれこれと言われているから、なんでそんな事が言われているのか確認してみようとぐらいのものだったのだろうか?なんて思ってましたが、やたらと手の消毒をやるようになったからなのは間違いありません。過剰な感染症対策は体を弱めてしまうという分かりやすい例と言えるでしょう。
私は、ハンドクリームなんかも嫌がる傾向がありました。
だから、せっせとアロマオイルを使っているのを嫁が、
「珍しい。」
とか言っていたように思います。
それが今年になって正月すぎからやたら冷え込むものだから、手先の皮膚が硬くなって逆むけまでいかないけどちょっとささくれ立っているなぁと思って、アロマオイルの存在を思い出し試してみたら手が温かくなるのを感じた訳です。
冷えというのは基本的に肺の活動が小さい人に起こります。
これは整体を通じて観察をしているとすぐに気がつく事なので、取り立ててどうこういうものではありません。だから、世間で言われている冷え解消メソッドがちゃんちゃらおかしいと感じます。
冷えのきつい方は、太り気味になるか、かなり細い体型になると思っておくとよいでしょう。
肺の活動が小さいと、食欲のコントロールがうまくいかなくなるので食べ過ぎるようになる、または、胃の働き、つまり栄養を吸収する力が小さくなるので太れない体質になります。そして、後者の場合は、骨格が華奢なので太ろうとしても太れないと思っておいた方がいいでしょう。
余談ですけど、この事がわかっていないとダイエットが絶対にうまくいかない人がかなり多いかもしれません。
なぜなら、ダイエットというと脂肪を燃焼しなくてはいけないと考えてしまうからです。脂肪を燃やすためには20分以上運動をしろとかいわれますけど、肺の活動が健全でないとうまく酸素が取り込めないので脂肪を燃やす事ができません。
そんな肺ではいくら運動したって辛いだけで長く続ける事ができません。
だから、まずは脂肪を燃やすのではなく、肺の活動を高める事を目標に体を動かさなくてはいけません。肺が酸素を取り込めるようになればそれだけで体型はがらりと変わってきますね。だから、整体を受けている方はスタイルが良くなってくるのですけど、自身では全く気がつきません。どれだけ自分の体に興味を持って見ていないのかといつも思います。
話を戻します。
そこで気がつくのですけど、この理屈ではアロマオイルを手に塗って暖かくなる事がうまく説明できません。
それでちょっと考えてみたのですけど、おそらく皮膚の油分の都合なのでしょう。
冷え性の人は手先、足先がかさついている事が多いのですが、皮膚の油分が十分であれば保温能力高まるのではないでしょうか。これまでは肺の活動が小さければ血液中の酸素が薄くなるという点にだけ注目してきました。しかし、冷えは酸素だけの問題ではなく、皮膚に含まれる油分の事も考えた方がいい訳です。だから、鍋を食うとか、ショウガのお茶を飲むなんていうのは、こういう基礎的な部分を抑えた上でさらに体を温めたいという人が取り組む事なのだという訳です。
というわけで、まとめです。
冷えを解消したい方は、
1.肺の活動が大きくなるように運動をする。(ジョギングなんかがいいでしょう。)
2.冷えを感じる部分、肌がかさつくところをアロマオイルを塗り込む。
3.冷え解消と言われる食品を摂取する。
という感じで考えると結構いい具合になるのじゃないかと思います。先に述べたとおり、1から順にやっていかないと成果はあがらないはずです。
問題は、肺の活動が小さい人は汗をかきにくいという事です。
そういう方は体を動かしても気持ちよく汗をかくという事ができませんので、運動が面白くないと感じるはずです。だから、快を感じる程度の運動がどれぐらいなのかという事をよく考えながら取り組む事です。有酸素運動を20分とかいう情報は、足をひっぱる要素しかないものだと考えるとよいでしょう。5分がちょうどよい、心地良いと感じるなら5分程度の運動で十分で、肺の活動能力にあわせて運動量を増やしてゆくのが上手にやるコツです。