ブログ「日々整体」

家紋を通じて見る親子の橋渡し

ある日、息子と学校の課題について話し合いをしていました。
その内容は、「自分の家紋を考えてみる。」というものでした。かなり以前のものですが、マスターキートンというマンガで家紋について掘りさげたテーマの物があってそれが印象に残っています。

少しうろ覚えなのですが、その内容を思い出してみます。
マスターキートンの主人公は日本人とイギリス人のハーフで、英国軍の元エリート隊員、そして現在は保険の調査員です。しかし、本来は考古学者を志す学者であるというかなり風変わりなプロフィールの人物です。その主人公が、保険の調査で日本にやってくるというお話だったと思います。書いてみると、無茶苦茶な設定に感じますが、マンガの中ではとても自然に話が進んでゆきます。

日本の東北地方にやってきた主人公は調査において家紋を発見します。
その家紋を専門家に分析をしてもらうと、彼はそれなりの名家の庶子であったのであろうということまでわかるのでした。家紋の印にはちゃんとした意味があって、家名、生まれた地域、信念や信条などがわかるのだそうです。さらに調査をすすめると、彼が生まれが卑しいということで恋人との仲を引き裂かれ、心に傷をおったまま船旅にでていってその後は行方がわからなくなったということまでわかるのです。

さて、主人公がやってきた地域にはかなりリアルな天狗の伝承が残っていました。
赤い鼻をもった人物がその地域に流れ着いたのです。その人物は、村娘と恋仲になったのだけど風貌があまりにも異様だったので、天狗として蔑まれ石を投げられて村から追われてしまったのだとか、確か、子供も生まれていたのではなかったかと思います。そう、彼は先に紹介した失恋で故郷を去ったイギリス人だったのです。生まれ故郷でも、新天地としてたどり着いた土地でも愛する女性とは結ばれることなく涙を流したという、そんなお話です。

家紋1つでそこまでわかってしまうのかと私はとてもロマンチックな気分に浸ったように思います。細部については自信がありませんが、読んだのは20年以上前で今でもかなり鮮明に記憶に残っているのですから、かなり印象的な話だったのでしょう。

それで、私としては家紋というのは家系とその個人を表現する大切なものなのだから、もっと掘りさげてよく考えなければいけないという説明をするのです。しかし、息子は「こういう風なデザインにしたら格好がいい。」というような、私からするとそんな安易なアイデアでは良い評価を受けられないだろうというものに固執するのです。例えば、学校の学科にちなんだイニシャルになるような動物を紋に並べるといった具合にです。でも「それではずいぶんと軽薄な印象を与えてしまうからもっと考えた方がよい。」と話すのです。しかし、息子は自分のアイデアを否定されたと感じてしまったようで、怒り狂ってしまってふて寝をしてしまい話し合いは終了ということになるのでした。

私は、

「この胸の中にあるロマンチシズムをどうやって伝えればよいのか?」

と口惜しいような悶えるような思いに歯がゆい気持ちになるのでした。

こういう時、優秀な教師であれば自身の力で気がつけるようにナビゲートしてゆくのでしょう。
でも、前提となる知識や経験の量に大きな差があるときには時間をかけて少しづつ気付かせてあげることが必要なのだろうなぁと、そんなことを考えつつ歯を磨き寝るための準備にいそしむのでした。次の日、息子はあることに気がついて紋章についての考察が再びはじまるのですが、その内容についてはまた別の記事で紹介したいと思います。


※調べてみたら、マスターキートンの「アザミの紋章」というタイトルのストーリーでした。もしかしたら、この記事はかなりの嘘になっているかもしれません。ただ、私の中ではそういう話として記憶に残っているということで理解してもらえると嬉しいです。
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学びを通じた絆:我が家の高校受験物語

我が家のここ1年ほどの懸案事項である息子の高校受験が終わりました。
おととしの夏頃、つまり中2の夏休み頃にどういう高校にいくかを検討を始めていました。だから、他の同級生に比べて受験のことを考えるタイミングは早かったのではないかと思います。実際、中2で高校見学をしている学生など他には皆無でした。また、息子に進学の方向性を考えるよう促しても、その意識は全くありませんでした。

私の息子の場合、学校へほとんど通えていなかったということもありました。
ですから、早めに準備を始める必要があると考えてスタートを切りました。私自身の学生の頃を振り返っても、学校に言われるがままに全員同時に「よーい、どんっ!」ということに違和感を感じていました。ずるい表現をするのであれば、フライングスタートがルール違反という訳でもありませんから、他の同級生より先にスタートして逃げ切りを考えた方がいろいろ楽だと私などは考えてしまうのです。

今回の進学において最も重視したのは外国語です。
私は息子が将来も日本に住み続けるのが本当に理想的なのかに疑問を感じています。だから、息子には、

「選択肢を多く持て。アメリカでも、ヨーロッパでも、中国でも、インドでも、アフリカでも、もちろん日本でもいい、世界のどこにでも必要に応じて生活する場所を選択できる人間になりなさい。」

と話をしていました。
そのためには外国語の能力を身につけること、またそれに伴って外国の文化についての理解を深めることがもっとも重要だと考えたのです。また、どのような職業に就くかは現時点で決めてしまうのはリスクが高いから、周囲や社会から求められたことをできるように自分を高めるのがよいだろうと話し合いのなかで結論がでていました。極端な表現をすると、3年ごとに職種を変えるぐらいのつもりでいいかもしれないとまで私は考えています。この辺りのことは以前に書いた記事にも詳しくまとめていたように思います。

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それで、結果なのですが嬉しいことに第1志望の高校に合格できました。おととしの夏頃の成績を振り返ってみると快挙といってよい成果かもしれません。

ただ、試験前の息子には、

「高校受験というのは基礎知識レベルの詰め込みで、スタートラインに立つためのもの。だから、本当の勉強は高校へ行ってからはじまると考えなくてはいけない。」

このような話をしました。

ところで、息子にこんな風に偉そうなことをいうためには私自身も結構な勉強をしていなければなりません。まだまだ私も勉強を辞めるわけにはいかないというか、息子が受験勉強をはじめてから私自身も負けじと勉強するようになりました。結果、家族の皆がそれぞれ勉強をするような環境に少しずつ変わってきたのかもしれません。受験勉強というと、息子のお尻を蹴飛ばして無理矢理にでも勉強させるもののようなイメージを持っていましたが、家族の皆が学んで成長していくためのものだと考えるのがよいのではないかと、ふと思うのでした。

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利き手の遺伝子から心臓の健康まで: 整体師の視点

どうして大半の人は右利きになるのか考えたことはあるでしょうか。
人間の体は左右対称だから左右均等に使うのが理想であると主張する医師やスポーツトレーナもいます。しかし、人間の90%は利き手が右手なのですから変だとは思ったことはないでしょうか。実は、私のような整体師であればこの疑問にたいしてかなり自信のある仮説を起てることができます。今回はその仮説を説明してみようと思います。

ただ、まずは一般的に学会で提唱されている2つの説を紹介します。

1つ目は戦争の影響です。
戦争の際に体の左側にある心臓を守るために左手に盾を持つようになったために右利きが有利になって右利きが増加したという説です。しかし、この説はすでに否定されていて、50~60万年前の化石の分析から、当時から人類は大半が右利きでした。これは米、カンザス州立大学の研究員が当時の人類の前歯を調査することによって明らかにしたものです。

2つ目は利き手を決める遺伝子があるという説です。
右利きの遺伝子をA型,左利きの遺伝子をO型だと仮に呼ぶことにします。A型の遺伝子が優性遺伝だった場合、生まれてくる子供は利き手の遺伝子を、AA,AO,OOという3つのパターンが存在することになります。左利きになるのはOOというタイプだけになりますから右利きが多いということになります。わかりにくと感じるようでしたら、血液型と同じパターンだと考えるとわかりやすいでしょう。ただ、遺伝子によって利き手が決まるという説については、ほかにも影響する遺伝子があるという考えが一般的になりつつあるようです。

これらの説は興味深いのですが、私が整体の実践を通じて見えてきたこととはかなり様子が異なります。
左右の腕の様子を確認すると左利きの人はたいてい何かしらの違和感を感じます。残念ながらそれがどのように違うのかというのを言葉にすることはできないのですが、手を取った瞬間に「あれ?」と気がつく程度には差を感じることできます。

その違和感の理由は、左利きの人は心臓の動きが弱いせいです。
整体においては、胸椎4番や腰椎3番は心臓の働きに深く関わっていると考えているのですが、左利きの人はこれらの骨になにかしらの問題を抱えていることが圧倒的に多いのです。

かつて利き手による寿命の違いについて調査が行われたことがあります。
その結果は、左利きの人は9歳寿命が短いというものでした。この説については様々な異論がありますし、9歳という差は参考程度という認識でよいと思います。しかし、整体師として意見を述べさせて頂くと、そういうことは実際にあり得そうだと思える程度に、左利きの人の心臓の負担は右利きの人より大きいということが言えます。

右利きが多い理由については、スポーツを例に考えてみるとわかりやすいでしょう。
陸上競技などは必ず半時計回りにトラックを走りますが、どうしてそうなのかは考えたことがあるでしょうか。理由はその方が早く走れるからというとてもシンプルなものですが、運動の経験があれば誰でもすぐに理解できることでしょう。このことはありとあらゆるスポーツに対してもいえることで、まっすぐ走っている状態から急停止して、180度反転するとき、右回り、左回りのどちらが速く反転できるかは実際に試してみるとすぐにわかることでしょう。

車の運転でも、左折と右折でどちらの方が事故が多いかというと、圧倒的に右折の事故が多くなります。余談ですが、左利きの人は右利きの人より事故に遭う確率が高いなどというデータもあるようです。

つまり人間の体は右側の方が使いやすく、左側の方が使うのが難しいという性質を持っているということがいえるのではないでしょうか。実際、人間の体は右側が頑丈で左側が弱くできているということは、ある程度、整体の経験を積み重ねるとなんとなくわかってくることでもあります。

人間の体が左右対称であるという考えが根底にあるせいで勘違いが生まれているのです。
ですから、当院にこられる方には最初、

「左右のバランスが悪いのです。」

と訴えてくる人も多いのですが、そういう方には、

「そもそも人間の体は左右がアンバランスですよ。」

と説明しています。

さて、結論です。
私の経験から言えることは、左利きの人は、

「心臓の力が弱いのを補うために左手を使っている。」

ということが言えます。

整体は学問ではなく、実践に基づく洞察から得られたものです。
様々な不調を抱える人の体の様子を観察していると、「たぶん、そういうことじゃないかな。」と思えることです。

ただ、この仮説は科学的な証明をすることが難しいのです。
当然、学術的な証明ではありませんが、確信のようなものは持っています。ですから、さらなる探求のきっかけとして受け取って頂くのがよいでしょう。もしかしたら、このようなことを知っていることで何かしらの気付きに繋がることもあるかもしれません。
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日本の教育は詰みか? 親子のろんぱー議論

正月に、息子と教育についての議論をしました。
私が日本の教育はもう改善が不可能、つまり詰みの状態であるという考えなのに対して、息子はそれでも改善をしていくべきだと考える点が争点です。

私の主張はこのようなものです。
もし仮に今年から理想的な学校教育が行われるとして、その成果がでるのは一体いつになるのか。どんなに速くてもそれは30年程度は先のことになります。その頃には、日本という国は今とはまったく違う姿をしていることでしょう。国家としての体裁を整えることができないかもしれないとまで思えます。しかし、このような急激な変革は不可能ですし、理想的な教育がどのようなものかということについてもはっきりとした形はありません。教育というものは試行錯誤をしながら時間をかけて少しずつ改善をしてゆく必要があると言えますから30年程度でどうにかしようというのは無理なのです。

それに対して、息子の主張はそれでも少しづつ改善をはじめてゆくべきだろうというものです。
その意見は気持ちとしてわからなくはないのですが、その改善は一体、誰によって行われるのかという点が大きな問題です。つまり、改革をまとめる役人がいったいどういう人間性をもっているのかという点が重要な問題点になってきます。

「役人がどういう人間なのか?」

この疑問が頭に浮かんだときに真っ先に浮かぶのは、飯塚幸三という人です。
新宿で幼児とその母親を運転ミスで死に追いやった人というと思い出す人も多いことでしょう。彼は、ずっと自身の誤りを認めようとしませんでした。裁判の結果に対して控訴しなかったことで非を認めたとする判断はできるかもしれませんが、一切の謝罪を行いませんでした。

この行動は、役人、特に高級官僚の判断と行動原理に完全則っているのではないかと感じられるのです。
一言でいうと、

「ミスがあってもその責任は絶対に認めない。」

ということです。
実際、飯塚幸三氏は勲章までもらっている人ですから、優秀でかなりの業績もあげていた人です。仕事と人間的な評価は別だと考えるのが正当と思えなくはないですが、車の運転ミスで2人を死亡10人に怪我をさせたことに対して一言も発することができなかったのでは擁護のしようがないと思えます。ちなみに、彼は通産省に勤めた後、測定技術に関する研究で重要な地位についていたようです。

それに加えて、先日のJAL便と海上保安庁の航空機の事故です。
海保機の機長は、管制塔から滑走路への侵入指示あったと発言をしているようです。しかし、空港での飛行機と管制塔のやりとりは記録が残っていて、そんな指示がなかったことははっきりしているのに現時点では、自分には一切の非がなかったと主張しているようです。

この海保機長の発言と主張には飯塚幸三氏と同じ匂いを感じます。
海上保安庁は国土交通省の組織になります。通産省と国土交通省の役人が全く同じような発言をしている、つまり決して自身のミスや過ちを認めることはないという行動規範が、役人全体に広まっているようだと思えるのです。

さて、そのことを踏まえて教育はどうでしょうか?
2022年の小学から高校生の自殺数は、500人を越えておりこれは1980年以来過去最多の数字です。また、不登校は50万人程度です。(※発表されている数字が複雑で全容がわかりにくいものになっていますのでおおよその数字になります。)少子化にも関わらずこの数字なのだということを付け加えておきたいと思います。

余談ながら加えておくと、自殺数に関しては厚労省、不登校は文科省の管轄になっているようです。これは根本的な問題の解決をする意志がない対応のように私には見えます。

このように断片的な情報を集めてみても、役人が自身の誤りを認めそれを反省して改善してゆくということができない人たちなのであろうというイメージが私の中で固まってきています。

さて、教育改革をするとなるとおそらく文科省が主導で行うことでしょう。
このような責任感、使命感を欠片も感じることのできない役人の集まりである文科省という組織で、時代の変化を捉えてそれに柔軟に対応しつつ適切な教育システムを作っていけるでしょうか。残念ながら、答えはノーといわざるをえません。

では、どうすればよいのか。
私は、外からの改革をするしかないという提案をしました。このような腐りきった組織の中で変革を行うのは不可能だからです。

ここまで話したところで、息子は私の考えを受けれるしかなかったようです。

「はい、ろんぱー!」

ということで新年の親子議論は私の勝利に終わったのでした。

なお、JAL便の事故についてはこれを書いている時点でまだ調査中です。この日の朝に新聞記事を見ながら、感想を話しあっていた流れがあっての会話なので、その後の調査で判断が変わる可能性は十分にあるとういことを踏まえておいてください。
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1年前の私と今日の私:整体師としての進化

毎年のように年末に思うことは、

「1年前の自分はよく整体師を名乗っていられたな。」

ということです。

今年のこの思いはかなり強いものになっています。
このように考えるのは、私自身が進歩しているからですが、振り返って考えると1年前の自分は半端な知識、経験、そして技術で整体に取り組んでうまく成果をあげられなかったのです。そのことを思うと人前にでるのが本当に嫌になります。だから、もう仕事を辞めて、すべてを忘れて放浪の旅に出たくなるというのも毎年末の恒例行事のようなものです。

私はそこから転じて宮本武蔵のことをよく思い出します。

宮本武蔵は晩年、絵や書を描いたりしていました。
兵法を極めたので、絵や書はそれを応用して描いていたそうです。刀を使った兵法は、体の動きや運動として捉えると理解しやすいかもしれません。その運動を極めたのですから、刀を筆に持ち変えても同様に巧みに扱うのはかなり容易だったのでしょう。

現代の感覚だと、野球を極めたら他のこともなんでもできるようになるというようなものです。
だからこの表現に多くの人は違和感を感じるかもしれません。しかし、私の見る限りダルビッシュやイチローなら野球以外のこともこなせそうな気がします。運動を極めるとは、体の動かし方を極めるということを意味しています。だから、野球しかできない、あるいは、刀しか扱えないというのでは極めたとは言えないのです。

自らの技術を振り返ってみて思うことは、私自身はまだまだその領域には達していないのです。
結局、来年以降も、多分ですけど、死ぬまで毎年、

「1年前の自分はよく整体師を名乗っていられたな。」

と思い続けることになるのでしょう。

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