京都アニメーションにお いてガソリンがばらまかれて放火された事件を知らない人はいないのではないかと思います。私はいわゆるマンガ、アニメオタクですから、それなりのショックを受けていたと思うのですけど、表面上は、
「ひどい事になってしまった・・・。」
と思う程度で割と平静にしていました。
でも、京都にあるマンガミュージアムというところで寄付を受け付けていると聞いて少しだけでも寄付をしようと思ったのです。
実は私はこの時まで寄付をしたことがありませんでした。
「寄付はいいことだ。」
と考えている人にとっては度し難い人間だと思うかも知れません。
でも、私は、
「良いことをしているフリをするために出すお金。」
という認識しか持つことができません。
より具体的に述べるなら、寄付は自分が社会的に立派な事をしているのだという認識を持たせるための支出です。自分の内面や生活に、やましい事や、歪んでいる部分があるのだけど、それを寄付することによってうやむやにしてしまうためという感覚です。
こういう言い方をすると怒る人もでてくるでしょう。
例えば、悪い事をしても教会にいって懺悔して寄付をすれば神父に許されてしまうのです。
私は、
「本当にそれでいいの?」
って思ってしまう訳です。
それじゃダメだろうと、お金を出すことで有耶無耶にしちゃいけないことから目を背けてしまうと、いろいろ大切にしているものを全部無くしてしまいそうな気がします。もちろん、人間は弱い生き物だからそうやって許してもらわないと生きていけない人はいると思うのですけど、私はまだそこまで追い詰められているとは感じていません。
当然、立場や状況が違えば考え方はかわってきますから、寄付を募っている人をみてどうこういうつもりはありません。ただ、
「困っている人がいる、あなたは金銭に余裕があるのだから寄付をしなさい。」
と、こちらの罪悪感につけ込んで寄付をしてくれとかいう人を尊敬するのは難しいですね。
何しろ、私は今の自分の幸福を守るために寄付をしないという選択をしているのに、その幸福を手放せといわれているように感じるのですから。
そういう私が京アニの火災事件を聞いた時、寄付をしようとはじめて思いました。
その時、なんでそういう気持ちになったのかと、自分でとても不思議に感じていました。でも、この時、少しでも被害者の方や遺族の方たちに対して、
「自分にも何ができることはないのか?」
という考えが浮かんできました。
それで、先に述べた京都マンガミュージアムに足を運んだ訳です。でも、繰り返しになりますけどこの時も私は平静で、悲しいとか、悔しいとか、苦しいとか、そういう気持ちは一切沸いてくることはありませんでした。
それで、マンガミュージアムについたら運がよかったのか悪かったのかテレビ局が取材にきていたのです。
何と聞かれたのかはもう忘れてしまいましたけど、カメラとマイクを向けられた時、突如として涙があふれてきました。
「自分はこんなにもショックを受けていたのか・・・。」
と気がつきました。
自分のこのような感情の爆発には驚きました。そして、その悲しみの感情を沈めるために寄付をしにきたのだという事に気がつかされました。後で落ちついてふり返ってみたのですけど、感情が制御できなくなってしまったときに寄付をするといいのだなと、そういう事を理解したように思います。
話がちょっと変わります。
最近知ったのですけど、人間は受け止めきれない気持ちを感じる事がないよう、感情をブロックする機能をもっているようです。親が死んだ時に、全然、実感が沸くことがなくて、後になって悲しくなったという話を複数の人から聞きました。たぶん、悲しい辛いという気持ちを受け止められるような状態になった時にあふれてくるのでしょう。
私は寄付にいった時、京アニが燃えて多くの人が亡くなったという事実に耐えられない状態だったのです。それをなんとか処理するために寄付をするという行動を無意識にとった訳ですが、テレビ局の人間が余計な事をして感情のダムを決壊させたために、私は大恥をかいたという事なのでしょう。
結論としては、
「テレビ局クソ、なくなってしまえ!」
という事でいいかもしれませんね。
それで、最近考えている事が1つああります。
両親の思考能力が衰えてきてるのですけど、そうなるとタガがはずれて、
「これほど薄っぺらい人間だったのか・・・。」
という事実に直面しています。
いわゆる認知症になっている訳ですけど、
「とっとと死んでしまえ。」
という事を考え始めています。
母はあれこれと世話をしてくれる嫁に対して、
「ありがとう。」
という事すらいえなくなっています。
私にだったらまだいいのですけど、嫁や息子に対してこういう接し方をするのを受け入れる事ができません。
死ねばいいとまで思うのは感情がブロックされているからでしょう。
これまで尊敬していて孝行しようと思っていた両親がとんでもないクソ人間だったという事実を私は受け入れる事ができないのです。だから、いつか亡くなった時にも
「やっと死にやがったか。」
と思うのだろうと思います。
でも、死んでしばらくしてからきっと大後悔をするのでしょう。
「どこでボタンを掛け違えたのだろうか?」
と思うのですけど、私が関わり用のないところでそれが起こっていたような気がします。結局、そう遠くない未来に悔やんでも悔やみきれない大後悔をすることになるのだろうと思います。多分、これはもう変えられない未来なのでしょうね。