ブログ「日々整体」

整体における医学的な根拠

私は、医学的根拠がないと指摘される事がありますが、そんなのは当たり前の事です。なぜなら、私は医学者でも医師でもなく整体師だからです。

整体と医学の最も違う点は、

「整体では情動や感情をもっとも重視して、医学は検査結果をもっとも重視する。」

という事でしょうか。
他だと、

「整体では整体師の主観を最も重視して、医学は客観を重視する。」

と、言い換える事もできます。

医学に対して整体師としての主観的な意見を言わせて頂くと、

「医学的な根拠というのは、医学者と医師にとって都合のよい解釈。」
「ちょっとわかった事が増えてきたぐらいで自分が神様になったと勘違いしている連中。」

と言い換える事もできます。
まぁ、ここまでは言い過ぎだとしても、近年の医学者たちは、ホモサピエンスをホモサピエンス以外のものに進化させる事が近いうちにできるようになると主張しています。イカロスやバベルなど神様に近づく事ができたと考えた人たちにどういう事が起こったかを考えれば、また同じような事が起こるのじゃないかと、私などは思ってしまいます。

医学と医学者がこうなってしまうのは、私が整体師としてもっとも重視している情動を完全に無視しているからではないでしょうか。
情動を理解するには牛、豚、鶏などの家畜の生き方を考えてみるとわかりやすいでしょう。牛は牛乳を大量に採取するために乳が大きく改良されている品種が誕生している訳ですが、その大きな乳房のせいでまともに歩けなくなっていたりします。乳首に搾乳機をつなげられてずっと搾乳をされ続けている訳ですけど、牛はこのような生き方に幸せを感じているでしょうか?

豚や鶏も同様です。
豚も鶏も大量に肉がとれるような品種に改良されています。そして、狭いオリの中に閉じ込められてただただ太るためだけに餌を食べて活かされています。それで、ある程度の重さになったら殺されて肉として出荷される訳です。このような豚や鶏の一生は幸せだといえるでしょうか。

牛、豚、鶏には幸福を感じる能力がないと考える人もいるかもしれません。
しかし、家畜となるような哺乳類は人間と同じような喜怒哀楽があるというのは他の学問によって明らかになっています。もちろん我々は人間だから、牛、豚、鶏に世界がどのように見えて、どのように感じられるかというのは決して理解できるものではありません。しかし、間違いなくそのような感情を持っていると考えられています。

海外ではエビやカニの捌き方が法律で決められているというニュースを見たことがあります。
割と大きな話題になっていたので見たことのある人もいるのじゃないでしょうか。エビやカニだって、苦しみを感じる能力をちゃんともっているので、食べる時には苦しませないように締めなければいけないという訳です。日本では、活け作りなんていう刺身の食べ方もありますが、こういう知識をもっている人にいわせれば、

「日本人はなんという残酷な魚の食べ方をするのだ。」

となるのでしょう。

それで、1匹の鶏からとれる肉の量を3~4倍に大きくした品種を開発した人がいます。
その研究者は、

「動物の尊厳を無視しているのではないか?」

と指摘された時に、

「そのおかげであらゆる人が鶏肉を安価で食べることができるようになった。だから私は社会に大きく貢献した。」

と自身の開発を誇ったとかなんとか。

さて、家畜だからこんな妙な話になるのだと思うかも知れませんが、最近は、

「人生100年の時代。」

なんて言われている訳です。
おそらくこれは平均寿命が100歳になるという事であろうと思われます。

令和元年の寿命に関するデータをみると、

平均寿命 男性 81.41歳
       女性 87.45歳
健康寿命 男性 72.68歳
       女性 75.38歳

というものでした。
人生の長さの10%が何かしらの疾患を抱えており、その大半は介護を必要としている状態なのではないでしょうか。

さて、この平均寿命が100歳になった時に健康寿命がどのような数字になっているかについては何ら説明がないのが現状です。都合の悪い事について何も言わないのは客観的な意見を述べる人たちの典型的な傾向だと私は感じています。

そのあたりに配慮をしてか、

「老いは病気だから100歳まで老いる事がないようにできる。」

なんていう事を主張している医学者も存在しています。
もし、仮にこれが実現した時に、我々の情動にはどのような影響を与えているでしょうか?もしかしたら、100歳という健康寿命を達成するために、檻の中だったり、タンクのようなベッドに押し込められて一切の活動を禁止されているかもしれません。さすがにそれだとまずいと思う人が多いでしょうから、脳に直接情報を送ってずっと幸福に暮らしている夢をみさせられているかもしれません。

イメージできないのでしたら、マトリックスという映画のネオを思い出してみるとよいでしょう。
コンピュータ技術者としてそれなりに幸福な人生を送っていましたが、それが夢だと気がつくというのがマトリックスという映画のはじまりです。

そのような状態で生き続ける事が幸せだとは思わないのが、情動を最も重要だと考える整体師としての私の立場と考え方です。

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整体師としての葛藤

父親が死亡して遺産の整理をしていて思った事は、

「もしかして自分には税理士としての才能があるのかもしれない?」

という事だったりします。
金銭の勘定は多くの人が面倒くさいと感じるようなのですが私にはそれが興味深いと感じるのです。どういう具合に税金が掛かっているのかを確認していくと、

「うまく考えてとりはぐれがないように。」

としっかり考えてあるなと感じてしまいます。

この感覚はサラリーマンにはわからないかもしれません。
私のような自営業者とサラリーマンの大きな違いは税金の収め方です。サラリーマンは税金をひかれたあとに口座にお金が振り込まれるのに対して、自営業者は一回手元にお金が入ってきてから税金を支払う訳です。

この違いは、おこづかいに税金がかかると考えるとわかりやすいかもしれません。

「あなたは毎月3万円のおこづかいがあるとします。しかし、そのうちの10%は年度末に税金として収めなくてはいけません。」

あなたのおこずかいの制度がこのようなシステムだったら年度末に税金分のお金をちゃんと残しておける人が果たしてどれぐらいいるでしょうか?おそらく全体の10%程度になるのじゃないでしょうか。ついでにいうと、このしくみのえげつなさが理解できたら、消費税がいかに厳しい税なのかということも合わせて理解できるかもしれません。確実に年度末に3万6千円ちゃんと用意ができているように段取りをしていても人生には何が起こるかわかりません。友人が立て続けに2人結婚してその祝儀、さらに身内が一人亡くなって香典が、と出費がつづくだけで脱税しないまでも追徴課税を請求される可能性があるのです。たったそれだけの出費で破綻することだってあるかもしれません。

話がそれたので戻します。

それで、こういう税に絡んだ事を調べていくと、

「案外、整体師より税理士に向いているかもしれない。」

と感じてしまう事がたまにあるのです。
税理士の資格をとるための試験なんていうと、無味乾燥な勉強をつづけなくてはいけないと考えていましたが、案外、面白がって勉強したかもしれないなんて思ってしまいます。好きな事を仕事にすると、あらゆることがうまくいくなんていう人生論を聞くことがありますので、もしかしたらそれで幸福な人生をおくれた可能性もありますね。

それに対して整体師はどうかというと、興味がない訳ではありませんがちょっと違う方向を向いているような気がします。私は何かに興味をもったときのその興味にたいしての打ち込み方というのは尋常ではありません。ずーっとそのことばかり考えて、本、雑誌、インターネットなどなどあらゆる情報チャンネルからその事の情報を取得しようとします。

ただ、人間の体についてはそういう事はありませんでした。
いっときは毎日本を数冊読んでいたような時期もありましたが、淡々、粛々と勉強をして情報を集めてという態度で健康という事に接するようになってきました。

「もっと熱心に取り組めばもっと上を目指せたのではないか?」

と、思うこともあったのですが、どうも違うような気がしています。
なぜかというと、現状の社会で熱心に健康と人間の体について勉強をしてしまうと、多分、おかしな事になってしまうと思うのです。それゆえに深い興味をもてなかったのではないかと。

例えば、人生が100年になるとかいうのがそうでしょう。他だと、人間は2050年までに人間は不死になれるというような思想です。

これはもう結論だけを述べてしまいますが、前者については、

「100歳まで生きるとして最後の10年寝たきりで100年生きたと喜べるのですか?」

という質問の答えを考えるとわかりやすいでしょう。
寿命が延びたとしてそれに応じて健康寿命が伸びるとは、私には決して思えません。もし、ピンとこないようであれば、お医者さんにいって、健康について相談したらすぐにわかるのじゃないでしょうか?たいていの問題は、

「歳のせい。」

で片付けられるはずです。
後者は、もっと簡単で不死になったらそれはもうホモサピエンス、つまり人間ではありません。ジョジョの奇妙な冒険の悪役で不死になったディオ・ブランドーの有名なセリフに、

「俺は人間を辞めるぞー!」

というものがあります。
ジョジョを見た事がない人でも、セリフぐらいは聞いた事があるかもしれません。私は人間を辞めてまで生に執着しないほうが幸せだと思います。

簡単に説明しておくと、多細胞生物である哺乳類はオスとメスという性を獲得すると、寿命を制限する必要が生じました。なぜかというと、近親で子供ができてしまうと遺伝子に異常が生じて奇形の子供の生まれる可能性が高まってしまうからです。例えば、中世のハクスブルグ家は、近親婚を繰り返すことでヨーロッパの支配を確立した訳ですけど、その結果、生まれてくる子供が健全であることはほとんどなかったそうです。

我々、哺乳類は性をもつことで環境の変化に対応する能力を飛躍的に高めたのです。
その代償として寿命も持つことになりました。なお、私は厳密にいうと代償ではないと思うのですけど長くなるのでここでの説明は省きます。人間という生物が繁栄するために、我々は適度な期間生きて、次の世代が誕生したら死ぬ必要があります。近親交配が起こらないようにする必要があるのです。この事は生物学をかじってみると割と初歩のところででてくる話なんですが、医学はこういう事を無視して進歩しようとするから困った事になるだろうと思いますね。

ちなみに、ちょっと長生きしたぐらいでそんなにかわらないだろうと思うかもしれませんが、野性の生き物では強いオスが3世代ぐらい生きていると周囲のメスがすべて近親になるとかいうモデルケースを見たことがあります。人間の場合、寿命がなくなったときにどのように価値観が変化するかわかりませんから、どういう事になるか想像がつきません。だから、不死という概念はもうちょっと慎重にすすめないといけないのです。

現在はこのことに加えて遺伝子で能力が決まるという考え方になってきていますから、寿命がなくなった時には優秀な男性と女性の子供しか望まれないなんて事になっても全く不思議はありません。知能や運動能力の高い人間の子供以外は必要とされない社会など、やはりどのような事になるのか想像もつきません。

また、こんな事になってしまうのは、人権を大切にしようという考えが根元にあるからです。
死は、人権侵害なので死んではいけないとかいう事が国連の憲章だかに書いてあるそうです。もっと、シンプルにいうなら個人を大切にするという発想が根本にあると、人権を守るためには人間は死んではいけないという結論になるのです。しかし、種の繁栄のために死ななくてはいけないというのは、性をもつ哺乳類であるため必要な事です。ところが、種の繁栄と個人のどちらを大切にするのかというと、現在は後者の個人がもっとも大切で価値があると考えられているのです。

ピンとこない場合は、映画やYouTubeなどの映像を例にするとわかりやすいでしょう。
「100日後に死ぬワニ」というマンガが映画化された時に、「100日間生きたワニ」とタイトルを変えられたのは多くの人がご存じでしょう。そして、YouTubeでは、死という単語を使った動画は削除されてしまいます。人権を重視した結果、死を許さないという考え方が拡がっているという事です。

それで、

「こんな事を考えている私は、整体師に向いていないのではないだろうか?」

なんて思ってしまう訳です。
限りある期間、幸福に生きるために健康になるという考えはほとんどの人には受け入れられないでしょう。整体師だからこそ、このように考える訳ですが・・・。

ところが、医学と健康について真剣に興味をもってしまうと、

「人は死んではいけない、人権がもっとも崇高で大切なものだ。」

と、考えるようになってしまうだろうなぁと、こうなると医者になるしか選択肢がなくなってしまうような気がします。でも、そんなのは絶対に嫌な訳です。

仕事を繁盛させようと思えばやることは簡単です。

「人は死をも乗り越えることができる!」

という論説に乗っかればよいのですが、この考えには嫌悪を感じてしまいます。

こんな事を考えていたら、税理士になっておけば、役人が考えるルールブックの中で数字をこねくり回しているだけでご機嫌でいられたのだろうなぁと、そんな事を思うのでした。
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整体師、筋トレをはじめる

最近、筋トレをはじめました。
仕事で疲れきってしまうので、読書ができないのと英語の勉強をしていて集中力が続かないのです。そこで、ある程度の持久力をつけようと思ったのですが、厳密にいうなら、衰えたスタミナと持久力をちょっと元にもどそうという事でしょうか。

ただ、以前から説明はしていますが、筋肉の量を増やすための筋トレはを弱めてしまうだけです。
筋肉の量が増えれば見栄えはよくなったように感じるかもしれませんが、マシンを使って増やした筋肉に実用性はありません。筋肉の量を増やす事だけが目的でトレーニングでは、結果として病気や怪我のリスクが増えるだけですから、それなりに考えて取り組まなくてはいけない訳です。

ちなみに、マシンをつかっている人たちの様子を見ていてもそのことを再確認したりします。
筋肉に負荷をかけているのですけど、その時に顔があさっての方向を向いていたり、目をつむっていたり、体をネジっていたりします。

これらの何がダメかという事を、野球を例に説明してみます。
野球でボールを打つには、ボールを見ながら体を動かさないといけませんし、体が安定した状態でバットを振るなければいけません。ところが、そのような姿勢での筋肉の量を増やしてもバットをボールにあてることはできません。もうちょっと簡単にいうなら、あさっての方向に顔を向けて発揮される、つまりボールをみないで使われる筋力を身につけても野球をする上ではまったく役には立たないという事です。

まぁ、筋トレをしている人はたいてい筋肉美を身につけたいと考えている訳で、スポーツなどでのパフォーマンスを上げようとか考えていないからそれで問題はないのですけどね。なかやまきんにくんが何を考えて筋トレしているか、ダルビッシュがどのように考えて体作りをしているかを比べて考えてみるとわかりやすいかもしれません。

私の筋トレの目的は、読書と勉強をするための体作りです。
デスクワークのために運動量を増やそうなんていうのは、ほとんどの人には理解してもらえないかもしれません。さらに、目的が他の人たちとはちょっと違うので、私がやろうとしている事は筋トレとはいえないかもしれませんね。

私が筋トレをしようと考えるのは私が5種体癖の要素を多めにもっているからだと思います。
5種体癖は運動を好む傾向があり体を動かす事で、モチベーションがあがる傾向があります。この5種傾向は大なり小なりたいていの人が持っているので、運動をするがあらゆる面で生活の向上に繋がる傾向があります。休みの日に山登りしたりする人は5種傾向が強めだと考えるとわかりやすい事でしょうか。山に登って疲れる事で生活が向上する訳ですね。

最近、集中力を高める方法なんていう本を2冊読んだのですけど、どちらも運動することをすすめていました。

「整体の知恵にやっと科学が追いついてきたかもしれない。」

なんて具合に、ちょっとほくそ笑んでいたりします、

こういう考えをふまえてトレーニングをしようと考えるとポイントになるのは大きな負荷をかけないという事になります。筋肉美を身につけたいと思っている人とは根本的にやり方がちがってくるはずです。

これは私のイメージで実際にそうなっているかはまた別問題です。

とにかく筋肉の量を増やしたいという方は、筋肉の組織をひたすら破壊する事を目的に筋トレしているはずです。破壊した筋肉が修復される時に以前より筋肉の量が増えるのですから理にかなったやり方だろうと思います。しかし、この鍛え方だとおそらくかなりの筋肉痛がでるでしょうし、かなりの休息が必要になるのではないでしょうか。眠っているときに、筋肉の組織が修復される訳ですから、はげしく筋トレする人ほど睡眠時間が長くなる傾向がでてくるのではないかと思います。ついでにいうと、この修復の時にタンパク質を多めに接種して回復を早めようなんてことをやっているのだろうと思います。

それに対して私の目的は、読書だったり勉強ですから、それでは困る訳です。
体を動かした後は、覚醒して意欲や向上心の塊になっていなくてはいけません。そう考えると、筋肉の組織を破壊するのは都合が悪い訳です。また、集中力が持続するようになって欲しい訳ですから、心肺機能を高めなくてはいけません。ですから、胸回りの骨の動き、主に肋骨付近の動きがよくなるようにという事を意識して体を動かさなくてはいけません。体を動かした後は、いい汗をかいたという爽快感を感じるぐらいの運動量がよいのではないかと思います。まとめてみると、やはり私がやろうとしているのは筋トレではありませんね。

たまに、

「ものごとを最後までやりきれない。」

という相談を受ける事があるのです。
そういう方には、今回まとめた考え方が参考になるのではないかと思います。意欲がでない、途中で辞めてしまうそういう時には、体を動かしてみるのです。

「適度に汗をかいて、爽快感とともに運動を終わる。」

ぐらい負荷で体を動かす訳です。できれば、日常的に動かしておくといいでしょうけどね。

運動するということの意味もちょっと掘りさげて考えてみるとちょっと違ったアプローチができるかと思います。ウォーキングなんかが世間で薦められているのはこういう事が理由だと思うとわかりやすいのではないかと思います。キモは、ウォーキングが体にいいのではなくて、適度に汗をかくのがいいのですから、トキメキを感じるものを探して取り組んでみてるとよいかと思います。
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食事と健康と

食事については私の関心はかなり低かったのです。
おそらく子供のころから上質な食事を食べていたからだと思います。それが当たり前になっているので、他の方も同じようなものを食べているのだろうと考えてしまうようです。

日本でもっとも規模の大きな外食店はマクドナルドです。
私はこのような記事を書くときにカフェなどに行くことが多いのでが、コーヒー代をケチるためにマクドナルドに通っている時期がありました。しかし、しばらく通うと行かなくなりました。元々、店に入るのも年に1回あるかないかぐらいでしたが、バーガーやポテトなどの味もそうですが、店の中に漂う食べ物の香りが合わないのだろうと思います。

阪急高槻駅の近くに高槻バーガーというお店があるのですが、そこでハンバーガーを食べた時に思ったのは、

「マクドナルドのハンバーガーってまずかったんだ。」

という事でした。
でも、先に述べたとおり日本最大の外食のお店はマクドナルドです。だから、世間の人たちの食事の質は私の予想を超えてかなり低いのかもしれないと思ったのです。化学調味料を使って食欲を刺激される事が当然になってしまうぐらい味覚が鈍化しているののかもしれません。もちろん、私の味覚が上等でない可能性はありますが、おいしい物を食べにいこうと言われて、マクドナルドに行きたくなる人はいないと思うのでたぶんあっていることであろうと思われます。

そんな事を考えている時に気がついたのは、

「私自身は日常的に上質な食事をしているので、食事について注意深くなる事はないのだろう。」

という事です。

食事に関しては様々なノウハウがありますが、最近、集中力を高める食事というキーワードが目に止まりました。
マインドというそうですけど、簡単にいうとオリーブオイル、緑黄色野菜、鶏、魚などを主な食材とし、赤身の肉、バター、菓子、チーズ、ファストフードなどをなるべく避ける事で脳の働きを活発にしようというものです。認知症を予防するなんて言われ方をする事も多いようですね。

地中海の地域に住んでいる人の食事だと思うとわかりやすいでしょうか。
全粒粉のパスタ、オリーブオイル、野菜、魚を一緒に食べるというとどんな料理になるか想像しやすい事でしょう。以前は、世界でもっとも長寿の地域は地中海に浮かぶ島だと聞いた事があるのであながち間違ってもいないのでしょう。

さて、私は頭の回転をあげるための積極的に食べているものがあります。
それが辛いもので、私の休みの日の我が家は、担々麺とチーズダッカルビが定番になっています。私はラー油を自家製で作っていて、それをたっぷり入れるのでとんでもなく辛い料理になります。冬の寒い日でも、汗だくになるぐらいだというと、その辛さを想像してもらえるかもしれません。主な食材はキャベツと鶏肉ですから、マインドにひっかかるのはチーズぐらいでしょう。

最近、さらに気になっているのは薬膳料理です。
最近になって薬膳の独特の香りが妙に懐かしく感じられ食べたいという欲求が沸き上がる回数が増えてきました。おそらく、ラー油を作るときの材料に香辛料を使うのでその香りに刺激されて、昔食べた薬膳料理の味を思い出すのでしょう。

マインドの地中海料理、超絶辛い韓国料理、それに薬膳料理を組み合わせれば脳力アップ間違いなしのレシピができるのじゃないかなんて思ってしまった訳です。自律神経を整える料理として売り込めば、大ヒットするかもしれないなんていう妄想もわいてくるぐらいです。

私は、このように突然、料理に対する関心が高まってきました。
しかし、既存の手法に捕らわれるのは誤っているだろうと考えます。それは、食事にたいするその効果や成果というのはすぐに自分で実感できるからです。

言い方をかえるのであれば、ビジネスで成功したAさんが食べる食事、高齢になっても元気に活動できるBさんの食事の秘訣なんていうのは無意味だという事です。理由は簡単で、私はAさんでもないし、Bさんでもないからです。たまたま、Aさんに適した食事だったり、Bさんに向いた食事だったという事がわかってもそれが私にも同じように適切かなんてのは、体癖を知っている私であればある程度はわかりますけど、ほとんど人には難しい判断でしょう。

私は私の体が求める食事を追求しています。それがマインド、辛い韓国料理、薬膳料理というところに落ちつくかもしれないという事です。

食事について質問される事も多いのですが、

「スーパーの食品売り場にいって欲しいなぁと感じるものを食べてください。そして、食べてみて体にどんな事が起こっているのかちょっと注意を払ってみてください。」

と、返事はいつも同じです。

一人ひとりに食べ物の好みがあるという事は、適した食事にも個性があるということです。
最近、とりあえずコオロギとゴキブリを主食にしようなんていう馬鹿な事を言い出している人がいるので食事について見直すよいきっかけになると思います。
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健康になるための目的が大切

またまた英語にちなんだ話です。
最近は、英語の勉強に身が入りすぎて他に興味がもてなくなっています。悪いことではないで、まぁいいかとも思いつつも、仕事がそっちのけになるのはちょっと問題かもなぁとも思ったりもします。

最近、高校3年の時に通っていた予備校の英語の講師の事を思い出しました。
その先生は、英語の先生なのに日本語の本を薦めてくれるのです。薦められた本のタイトルはもう忘れてしまいましたが、哲学のものが多かったように思います。
それで、

「この人は英語の先生なのに、なぜ日本語の本を薦めるのだろうか?」

と疑問を感じていました。
確か、

「ちゃんと英語を話そうと思ったら本をたくさん読まなくてはいけない。」

とか言っていたように思います。
影響されて1~2冊、薦められた本を買ってみたのですけど、当時の私には内容が難しすぎて読み切ることができませんでした。一応、そのころから読書は割合と好きでいろいろ読んではいたのですけどね。

当然ですけど、この先生、あまり人気はありませんでした。
大学受験のための英語の講義を受けているのに日本語の本をすすめられる訳です。そんな本を読んでも入試の点数があがる訳がありません。

でも、最近になってはじめてこの先生の意図を理解したように思います。もうその時から30年経っていますからずいぶん気がつくのが遅くなってしまいましたね。

それがどういう事かというと、

「英語を話せる事が大切なのではなく、英語で何を話すかが大切だ。」

という事です。

この事に気がついた時は、NHK英会話のテキストのヒアリングをやっていまいた。

『最近、彼が私に冷たいのだけどどうも彼は私が大切ではないらしい。』
『そんな事はない、たままたそんなタイミングなだけだよ。二人で旅行へいかないか誘ってみるといい、日本はとてもいい国らしいよ。』

という、若い女性と、その彼女よりちょっと年上の男性の会話です。
それで、

「私が英語を身につけてもこんな会話をする事は絶対にないだろう。」

と、思った訳ですけど、まさにその時に気がついて、学生の頃の講師の事を思い出した訳です。ちょっと神経質そうで知的な話し方するという印象は記憶にありますけど、名前は思い出せませんけどね。

「だから、日本語の本をたくさん読め。」

と言っていたのかと。
もっとわかりやすく表現すると、

「馬鹿が英語を話せても、英語で馬鹿な事を言うだけ。」

「外国の方と英語でコミュニケーションをとる機会があっても、そこで恥をかかないように教養を身につけておくのだよ。」

そういう事だったのでしょう。
今思うと良い先生だったのだろうなぁと思いますけど、こんな事、高校生の時に言われてももわかるはずがありません。せめて、もうちょっとわかるように説明してくれてればなぁと思ってしまいますね。

ただ、こういう事ってあらゆる事に通ずる考え方です。
健康についても同様で、健康になる事が目的ではダメで、健康になって何をするかが大切なのです。体を起こせず学校へもいけないみたいな生活をしていた学生が、元気になって回転寿司のお皿にいたずらできるようになりましたでは残念すぎますからね。

何かに取り組むときは常に何のためなのかをよく考えなければいけません。
そして、その目的は常に見直して必要があればどんどん方向修正していく必要があります。当時は、学生、大学生か院生の講師でしたから、私より3~4歳ぐらい上のはずです。そうであればまだまだ元気にしている可能性が高いので、どこかで会う機会があればお礼をちゃんといいたいと思うのでした。

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