小6で人生が終わる話
息子が小学6年生なのですけど、
「同級生が頻繁に学校を休んでいる。」
そんな話をしていました。
別に興味はなかったのですけど、私が寝転がっている横でそういう話題の会話が行われていました。どうやら、
「食道炎が辛くて休んでいる。」
という事でした。
今の世の中はこんな事ぐらいであっさり人生が終了してしまいます。
ストレス性とか逆流性とか医師によって多少、診断はかわってくるでしょうけど、この『○○性食道炎』で適切な治療が行われているケースを私は観たことがありません。
本来、治療が必要なものでもありません。
たいていの場合、ほっておけばよいものを余計な事をして返って悪化させてしまっています。こうなってしまうのは、大きな勘違いが3つほどあるからでしょうか。
その3つとは、
・しっかりと栄養を取らなくてはいけない
・吐いてはいけない
・風邪をひいて熱をだしてはいけない
という事です。
1.しっかりと栄養をとらなくてはいけない
朝食を食べろとか、3食食べろとか、それなりに説得力を感じるかもしれません。でも、人間は栄養が必要になればお腹が空くのです。ですから、お腹が減った時に食べればいいだけで、それが朝なのか、1日3回なのかは個人差があると思っておくほうがいいでしょう。個性を大事にするのであれば食事だって個性的で問題ないはずなんですけどね。
2.吐いてはいけない
医療に携わる人間は、吐くという事がどういうか事をまったく考えていません。
解りやすいのは悪い物を食べたとき、健全な人は吐くのです。理由は簡単で、吸収してしまうと体を痛めてしまうからですね。悪い物を食べて吐けない時は、たいていの人は亡くなってしまうのじゃないでしょうかね。
吐き気というのは意味と必要があって起こるものです。
だから、吐き気は止めるのは体にとって有害でしかありません。体に問題があるときに、その問題を解消するために吐き気が起こるのです。ですから、吐き気を感じるままに嘔吐していれば体の問題はそれだけで解消します。うまく自力では解消できなくて吐き気がずっとつづくときに、本当は医師の助けが必要なのですけど、その助けは吐き気を止める事ではなく、吐き気を起こす原因を解消してあげることです。
3.風邪をひいて熱をだしてはいけない
私は73年生まれですが、私と同世代であれば、子供の頃、高熱を出して寝込むとか熱をだして吐くとかいう経験はたいていの方はあるのではないでしょうか。実は、我々はそうする事で丈夫な体になって大人に成長する事ができたのです。ところが、今はちょっと咳がでたとか、熱がでたとかでも薬で強引に症状をとめてします。その結果、子供たちは体を丈夫にする機会を奪われてしまっています。
例えばニートなんかがわかりやすいでしょうか。
ニートは体が貧弱だから気持ちが弱っているだけです。体が丈夫になる機会を奪われて年齢だけ20歳になったからしっかりしなさいというのは無理な要求です。病気をする機会を奪っているとそういう人間ばかりが増えてくるはずです。男性が草食化しているなんていわれているのもこういう事が大きな理由の一つでしょうね。
熱を出して風邪をひくというのは、頑健な体を作っていくためには必要な事です。病気もしたことのない人間が立派な大人になれるはずがないと思っておくことです。
さて、話を息子の同級生にもどしましょう。
○○性食道炎で通院した人は人生から潤いというものがなくなります。なぜなら、吐くという事は健全な状態に戻ろうとしたときに起こるものだからです。今の医療であれば死んでしまうような事はないでしょうが、体が健全に元気になろうとしているのを薬で全力で止めてしまうわけですから。その結果、中身のないスカスカの人生を送っている人を私は何人もみています。
彼はこの先の人生において、心から幸せだと感じる事はもうできないかもしれませんね。
『隠れ○○』 の話
京都で日曜日にやります。
自分の存在を消し去りたい
推拿という手技はご存じでしょうか?
実は、私は最近この推拿が気にいってあるお店に通っていたりします。中国では漢方、鍼灸に並ぶ療法の一つなのだという事は最近まで知りませんでした。
一応言っておくと、基本的に手技にいいとか悪いの差はあまりないと考えています。
その手技を実際に行う人の技量の差の方が大きなポイントだとは考えています。実際、私の整体だって
「同じ先生から教わっているのになんでこんなにへんちくりんな事を考えている奴なんだ。」
なんていう人も少なからずいたりします。現実は私の方が変わっているというのが正解なのでしょうが・・・。
私の見ている感じだと、治療家には大きく2種類の人がいます。
1つ目のパターンは
「こんな病気や怪我を治した俺すげー!」
って、言いたいタイプです。
残念ながら、こちらに属する治療科はダメですね。理屈と現実がずれたときに、理屈の方を優先します。医者なんかだとわかりやすいでしょうか?薬の効果がちゃんとでていない時に、
「きちんと薬飲んでいないのじゃないか。」
「なにか生活習慣に問題があるに違いない。」
とか言い出す人がそうです。
こういう事を踏まえて世間を見渡すと、
『ほとんどの治療家はこちらに属している。』
そういう事にすぐに気が付くと思います。スマホが、パソコンが、電磁波が、姿勢がとかいろいろ言ってくるのですけど、これは、
「自分の知識や技術が十分だから私は悪くない。」
という事が前提の話なのです。
こういう人は、今、目の前にいる体調が悪くて困っている人に元気になってもらうことより、自分のプライドを守る事を優先してしまいます。
私は違う存在、
「医とは医なきをもって良しとする。」
というもう1つの存在でありたいと考えています。
以前の話ですが、私は、
「難しい人は相談に来ないで欲しい。」
と本気で思ってしまう事がしばしばありました。
なぜなら、整体にこられた人がよくならないのはすべての私の技量や知識の問題だからです。だから、難しい人が相談来た時は、自分の力量不足を思い知らされる事が本当に辛かったのです。
まぁ、いくつかの覚悟が決めたというのもあって、こういった類いの恐れというのはほとんどなくなってきました。ただ、恐れがないというのは、また問題で、成果があがらない事に対して何にも感じなくなってしまってはそれはまた問題外ですからね。
ただ、成果があがらない時にいちいちへこんでいたら仕事にならないものですから、
「私が死ぬときに、そこそこ成果があがっていれば良しとしよう。」
という状態に身を置くことで淡々と仕事をこなせるようにしているつもりです。
それで、いつかは関わることができた人たちがすべてそれなりに満足した生き方ができて充実した生活をおくれるようになっていたらいいなぁとそんな風になるつもりです。でも、もしそうなってもそれは私のおかげではなく本人がそう望んだ結果そうなったと思うのが理想だと思う訳です。だから、私は最後にはみんなに忘れられて野垂れ死ぬことができたらたぶんいい人生になっているだろうと考えています。
こういうとちょっとわかってもらえるでしょうか。
治療家には自分の存在を誇示したい人と、自分の存在を消し去りたいと考える人の2種類がいるという事なのでしょう。私は後者でありたいと考えていますが、残念ながら同じような考えの人には会った事がありません。たぶん、これが私が1人で仕事をやっている理由なのでしょう。
推拿の話に戻します。
推拿は整体に通じるような発想の手技があって、古くからあるもののようです。だから、たぶん整体の考えにも影響を与えていると思われ余す。繰り返しときますけど、だから推拿がおすすめだという訳ではありませんからね。私が行ってみたお店がたまたま私に合っていたとうだけかもしれません。
ただ、受けていて思うのはもったいないなぁという事だったりします。
もうちょっと掘りさげて考えればもっといい技術の行使ができるだろうなんて思ってしまうのです。基本的な発想が、
「固まった部分をほぐせばいい。」
というところから抜けられないのです。
そういう人だと、
「だからストレッチしてほぐしましょう。」
なんていうアドバイスをしてくれるのですよね。
固い所が柔らかく動けばいい。
それはその通りではあるのですけど、そこをもうちょっと掘りさげると、
「どうしてここが固くなるのか?」
に到達することができると思うのです。
そこまで思考がたどりつくことができれば、きっと自分の存在を消し去れるのじゃないだろうかなんて思います。まぁ、それは自分の事は忘れられるという事を意味しますから、なかなか簡単にそう考える訳にもいかないのでしょうけど。