ブログ「日々整体」

眠りにおいて大切な事

ネットで睡眠に関わる記事を見かけました。


「眠りに関する7つの勘違い。」


とかいうような、頻繁にみかける見出しだったと思います。

その中の1つに、


『リラックスしましょう。そのためにヨガやストレッチをやりましょう』


なんてのが書いてありました。


私は例によってくだらない記事だと思うわけです。

そもそも、


「リラックスするってどういう事ですか?」


という点をはっきりさせないまま語られてしまっています。
人間がリラックスするとアルファ波がでるとか、1/fゆらぎが大切だとか、そのためにはクラシックを聞くのがいいとか、心を穏やかにして深呼吸するのがいいとか、まぁ、いろいろうんちくがあるわけです。


でも、よく考えてみてください。
音楽はクラシックじゃないとダメなんですかね?ロックやヘビメタを聴くとよく眠れるなんていう人も現実にいるわけです。実際、学生のころの私はボン・ジョビを聞くとウトウトしはじめてほぼ必ず眠りに落ちていましたけどね。


だいたい、


「リラックスするためには静かにして心を落ち着けなくてはいけない。」


なんていうのがおかしいと思っていいのです。
確かに、眠りに入るときにはそうかもしれませんけど、寝る前から心を落ち着ける必要ってありますかね?例えば、昼間、遊び回ってくたびれきってしまえばよく眠れる訳です。今は冬ですけど、夏の熱い日に河原でバーベキューした日の夜とか、家族で公園にでかけた後とか、前後不覚といっていいぐらいぐっすりと眠れた経験はありませんか?

テンションあげて活動をしていれば疲れてよく眠れるのです。
つまり、リラックスしたいのであれば、ある程度疲れればいいだけなんですよ。だから、緊張していはいけない、力を抜いて穏やかでなければいけないなんていうのはおかしいのです。むしろ、緊張することをした後のほうがよく眠れるはずです。


だから、昼間、お茶菓子食べながらずっとテレビみていましたという人が眠れないなんて言い出したら、


「そんなのは当たり前だ。」


と突っ込みをいれなくてはいけません。
そんな風に、ずっとリラックスしている人はよく眠れるかというと逆に眠りが浅くなってしまうことでしょう。当然ですけど、そんな人がヨガとかストレッチとかしたって意味はないと思っていいでしょうね。

だから、眠れないというのであれば、まずは熱心に仕事に取り組むのがはじめの第一歩に来なければおかしいのです。仕事がないのであれば、ジョギングでも、ウォーキングでも体を動かして疲れるのが一番てっとりばやいでしょうか。このときに、どうしても仕事に集中できないとか、運動を継続できないとなれば私のような人間の存在が必要になってくるのです。

あと、あれこれ悩みがあって気持ちが落ち着かないなんてのは私にも普通に起こることです。
だから、まったく寝付けなくて困った日もあるし、悩み事が長引いてずっと悶々とする日々を過ごした事もあるでしょう。そういうのを、


「ヨガやストレッチでリラックスしましょう。」


簡単に片付けるのはちょっと違いますね。
もっと言うなら、私にだって酒を飲んで寝るしかないなんていう日はあるわけです。だから、何をしても眠れない日はあるし、そういうのは別に異常でも問題でもないとまずは考える事です。

眠りについてはいい加減な記述を頻繁にみかけます。
眠れないのはなぜか、それは簡単で、


「気持ちが落ち着く状態ではないから。」


というのがほとんどです。
体の中がぐちゃぐちゃ、例えば天候が崩れて荒れた海を想像してみてください。
そんな状態で深呼吸、ヨガやストレッチをしたぐらいじゃ落ち着く事はありません。つまりリラックスできない状態であるという事が問題だという事で、そこをすっとばして訳知り顔で語る人が多いという事に注意が必要です。

眠れない時は、まず起きておくことですね。
たまに寝ておかないと病気になるとやらと不安になる人がいますが、2~3日眠れないぐらいで人間の体はどうにかなったりはしませんから心配いらないです。そして、ちゃんと眠れなければ体が辛いのは当たり前の事です。その当たり前をちゃんと受け入れて、どうしても眠れない日が続くようなら、私のような人間のところへ相談にいくことです。

あと、薬では意識を失っているというだけ睡眠とはまったく事なる状態です。
安易に睡眠導入剤に頼ると辞められなくなって人生そのものが狂ってしまいます。そんな事にならないようにして欲しいと思います。
関連カテゴリー< ブログ不眠

ジョギングをはじめました その5

ある日走りはじめようとしたら膝にかなり強烈な痛みを感じました。 

「これはやばいかも?」 

そう感じるぐらいの痛みです。 
それでも走り出せば治まってくるかもと思い直して走りはじめます。でも、半周もしたころでもう一度強烈な痛みが走りました。膝が反対向きに曲がったのじゃないかと思うぐらいに痛みがでます。 

仕方がないのでこの日は、たった半周でジョギングを終了しました。汗をかけなかった分は、熱い朝風呂で代用することにしました。 

翌日の走りはじめもやはり膝に痛みを感じます。 
しかし、この日は走りだしたらいったん治まりましたのでほっと胸をなで下ろします。しかし、4周半あたりで再び膝が逆向きに曲がってしまったのじゃないかと思うぐらいに痛みはじめます。かなりまずいと思ったのでこの日はこれで終了です。 

私は、 

「これで私のジョギングは終了なのか・・・。」 

と思わずにはいられませんでした。 

その次の日に事です。 
グラウンドへの道中には階段があるのですけど、その階段を下る時にやはり膝が痛みます。ただ、先日2日にくらべると寒さは落ち着いているので大丈夫かもしれないなぁとそんな事を考えます。なお、ジョギングをはじめたのは12月末ごろで、この日は1月中旬ごろでした。かなり強烈な寒波がきたのが急に膝が痛み出した理由だと終われます。 

いつも述べることですけど、人間の体は暑さ寒さに対応してかなり大きく変化します。 
体を動かす時はこの事をきちんと理解しておかなければいけませんね。そうでなければ、痛みがでたときにその理由がわからないからです。私の場合だと体のバランスが変化している過程で急激に冷え込んだ事が理由だと考えていました。 

しかし、だからといって、 

「これでおしまいかもしれない・・・。」 

そういう不安を完全に拭い去ることはできません。 
こういう不安とうまく向き合えない人は体を薬漬けにして鈍らせてしまう訳です。だから、ちゃんと体の様子を観察してどうするべきかをきちんと判断していかないといけません。まぁ、本当は医者がこういう役割を果たさなくてはいけないのですけど、彼らは安易な痛みの解消を自分たちの至上の目的にしてしまっているところに大きな問題があるわけです。 

もしかしたら、こういう風に述べると難しそうな話に感じるかもしれません。 

「走れるかな?辞めた方がいいかな?」 

と自問して体の返事、声をきくだけです。 
だからそれほど難しい事ではありません。ただ、何回もいってきていますが、『痛みがでるのがダメだ』と思い込んでいるとこういう体からの声は聞こえなくなってしまいますね。 

さて、そんな事を考えながらこの日走りはじめました。 
すると3~4周目ぐらいで気がついたのですけど、どうも右手親指に力みがはいっていたようです。右胸に力がはいってしまっているのに気が付いて、どうやったらそれが抜けるだろうかと考えながら走っていました。、それで、手をぷらんぷらんに走ってみたら急に痛みがなくなったのです。 

どうも右肺と右腎が緊張していたようです。 
右腕は力を抜いているつもりだったのですけど抜けていなかったわけです。こういう具合に、 

「やっているつもりだけどできていない。」 

というのも多くの人に見られる傾向です。 
こんなものは教わったぐらいで簡単にわかるよにはならないものです。よほど優秀な指導者にレクチャーを受けていれば話はかわってくるかもしれませんけどね。 

そして、この事に気が付いたらあっさりグラウンドを20周走れてしまいました。もちろん膝に痛みなどでるはずもなく、走れば走るほど足腰がしっかりしてくる感覚で走れました。 

なお、走っていて背骨の両側に自分の体の軸があるのを自覚できました。 
ただ、この感覚はすぐに消えてしまいました。どうも意識してしまうとうまく自覚することができないようです。もしかしたら無意識の領域でしか到達できないとかいうような、ちょっと特殊な感覚かもしれません。 

もしそうなら、 

「ジョギングは体にいい。」 

といった具合に、ノウハウ的な情報に踊らされてしまうととうまくいきません。運動しても元気になれない、失敗してしまう人がいるのはのはこういう所にあるのでしょう。練習だったり、鍛錬だったりを継続してはじめて到達できる、理解できる感覚は確かに存在しているのです。 

あと、残り2周あたりでこの2本の柱の右側に痛みがでてきました。 
場所でいうと、おへその右下あたりです。体力の限界という訳でもないと思うので、私の体にある課題、問題点はここらあたりにあるのでしょう。 

当然ですが、体の問題点をおへその右下で感じているのであって、そこに問題があるわけではありません。今回のように右の肺と腎に緊張がでたときに、右胸から親指にかけて力みが生じその結果膝が痛くてはしれなかったというような話ですからね。人間の体と運動というのは多くの人が考えるよりもうちょっと掘りさげて考えないといけません。 

まぁ、私の場合は、これをうまく解決できればもうちょっと長く元気でいられるはずでしょうね。
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2021年の課題と目標について

昨年はやろうと思っていた事の大半ができずに終わってしまいました。

あれこれと段取りはしたのですけど実行できずしまいです。なんでかというと私自身の体調がいまひとつだったからでしょう。前回の記事でもちょっと述べましたけど、案外早くに死ぬかもしれないなぁなんて考えるぐらいですから、体調の悪さは相当なものだったといえます。


一応、持ち直してきてなんとかなるのではないかという感触はつかんでいます。

だからここらあたりが正念場なのじゃないかと考えています。たぶんですけど、昨年まで数年が私にとっての更年期という時期だったのでしょう。


ちなみに、更年期という言葉を説明なしで使うとほぼ全ての人が意味を間違えます。

更年期というのは、成人から老人へ体が変化する過程の事です。だから、更年期障害なんての治す必要はなく、その変化をスムーズに行う事ができるぐらい健全な状態をたもっていればいいだけの話です。


私はこの変化を、


「芋虫が蝶に変わる変化を想像するといい。」


と説明しています。

芋虫はさなぎのなかで体を一回ドロドロに溶かして作り直すらしいですね。人間の場合は、それほど見た目の変化はないかもしれませんけど体の中ではそれぐらい大きな変化が起こっている訳です。ちなみに、厄年というのは、ちょうどその変化の起こりやすい時期の事ですし、占いなんかでいう大殺界なんてのもこの時期の体の変化を意味していますね。


逆にいえば、健全ではない人が更年期障害なんていわれる訳です。

一昔前ならこの時期の変化に耐えられなくて亡くなってしまう人が多かったのかもしれません。ただ、今でも死ににくくなってはいますけどスムーズに変化をできないのでは健全な状態とはいえません。だから、体にいろいろ抱えている人が多いのは多くの人が実感しているのじゃないでしょうかね。


医者なんかにいくと、


「更年期障害です。」


なんて事をいわれる人が頻繁にこられますけど、その発言をする医者は『更年期障害』とはどういうものかきちんと説明ができるのか確認をしてみるといいですね。確認は簡単で、


「更年期って、更年期障害って何ですか?」


と聞いてみればいいのです。

専門家や医者から納得のいく返事が返ってくることはまずないことでしょうね。更年期という言葉もまた便利使いされているワードの1つで、あなたが年を取ったことが原因で、我々医者や医療には何の問題もありあませんという責任回避をするためだけに使われている訳です。


さらにちなみにですが、昨年あたりから『老化=病気』という考えが流行はじめています。

私にいわせれば医学が見えていない把握していないものがあまりにも多いのです。それで、そういうものをほったらかしにしてインパクトのある風呂敷をひろげている訳ですから、中身がスカスカになっていると感じられます。何しろ、更年期の事すら理解が及んでいない、まともに把握もしていないのですからね。


そういう具合に、一部部分しか見えてない人が他人の人生や生き方に偉そうに口をだしてくるのです。世も末だなぁと、本当に思います。


話を戻します。


「今年は何をしたらいいのだろうか?」


と考えてみるのですけど、今はまだまだじっとしている時期のような気がしています。当然、じっとするといっても何もしないわけでもないのですけどね。たぶん、行動を起こす必要が生じるその時に備えてしっかりと準備をしておくことが大切なタイミングなのではないかと考えています。昨年末からはじめたジョギングなんかもその中の一つといえますね。


そんな訳で、今年もまだまだとろとろと整体という仕事を続けることになりそうです。

まぁ、今、体をみさせてもらっている人たちがしっかりと元気になってくればかなり忙しくなってくるとおもいますけどね。今年こそ、きちんとけりを付けて次の段階に上がる年にしたいと思っています。

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ジョギングをはじめました。

昨年末からジョギングをはじめています。 
自宅のすぐそばにグランドがあるのですけど、1周が250mほどでしょうか、そこをまずは5周走ってみました。一気に走るだけの体力はありませんから、1周ごとに休憩をいれながら、休み休みの5周です。 

翌日は1周追加して6周、という具合に毎日1周づつ増やしてゆきます。 
年末には10周をこえるようになりました。最初、1周目の後半でもう息があがっていたのですけど、いまでは息が上がることはほぼなくなってきました。 

私は運動をあまりすすめません。 
なぜなら、やりすぎる人が多いからです。だから、運動がやりたければある程度元気になってからはじめなければいけないと考えています。 

理由は、不調があると身体感覚がぼけてしまうからです。 
不調があるとどうしたって、 

「元気になるために頑張って体を動かす。」 

という意識が生まれてしまいます。 
その結果、運動の負荷がおおきすぎてかえって体を痛めてしまう人が多いのです。 

運動というものは体の欲求に従っておこなうことが理想です。 
ですから、元気になるためにやってしまうと負荷ややり方を間違えてしまうのです。簡単にいうなら、 

「走れば走るほど元気になる。」 

という勘違いをしてしまうわけです。 

しかし、現実はまったく反対です。 
運動を毎日やっているスポーツ選手と読書が趣味で外出はほとんどしませんという人ではどちらの方が怪我をしやすいか?考えるまでもなくスポーツ選手の方が怪我をする確率が高いのです。運動の負荷はあげればあげるほど怪我、ひいては病気を呼び込んでしまうということです。 

そういえば以前に、 

「走るのを辞めたら死んでしまうという走り方をしていますね。」 

と声をかけた人がいました。 
足の疲労の状態をみたらあきらかにオーバーワークだと感じたからです。 

すると、 

「辞めたら死んでしまう。」 

と本当に考えていたとおっしゃっていました。 
こういう具合に運動をすることで体がよくなるという考えにとりつかれてしまうわけです。こういう具合に、強迫観念にとらわれて体を痛めるような運動のやり方をしてしまう人がいる訳です。 

ジョギングをする人を頻繁にみかけます。 
でも、だいたいの人はあまりよいと思える走り方をしていません。 

『走ることが体に良い。』 

というような機械的な思考では長くはつづけられませんし、続けてもかえって体を痛めてしまいます。何を隠そう私自身も2年ほど前に同じようにジョギングをはじめていたのです。でも、足を痛めて辞めてしまいました。痛みは数ヶ月ほどつづいて、走ることが怖くなってしまったね。

余談ですけど、私の体は万全だと勘違いしている人が多いです。 
しかし、結構ダメな事になっています。実は昨年の中頃には、早ければ今年中に死んでしまうかもしれないと考えていたぐらいですから。 

それが変化したのが昨年11月ごろだったでしょうか。 
私が妙に辛そうにしていたのに気が付いた人もいましたけど、その時期に体の様子がちょっと変化しました。それで、たぶん今年死んでしまうことはないだろう思えるようになっています。長々と生きるつもりはありませんが、今、関わっている人たちにはきちんと元気に生活できる体になってもらって、それから死んでいかなくてはいけませんから、ちょっと運がよかったかもしれません。 

話を戻します。 

さて、 

「運動したいという人はどういう具合に運動するべきか?」 

なのですけど、やはり運動に関しては目標を持つべきでしょう。 
どのような体になりたいのか、どれぐらい元気なりたいのか?そういう目標でいいと思います。なぜ、目標を持つべきかというと、目標がなければ体を動かすことが目的になってしまうからです。 

例えば、ダイエットをしている人が夜遅くに食べるとダメだとかいって、18時にバカ食いしてしまうなんていうことを防ぐためです。こういう具合に、目標がずれてしまう事に気が付かず、ただ闇雲に体を動かしてしまうと面白くありません。ダイエットならたいていの人がきがつくのでしょうけど、運動に関しては専門家でもおかしな事をいっているのを頻繁にみかけますからね。多くの人が勘違いをしてしまうのは仕方がないことです。 

私であれば、毎日グラウンド20~30周ぐらいでしょうか。 
まずは、それぐらいの運動を毎日つづけられるようになることが目標です。当然ですけど、仕事もしながらですから結構ハードな生活になってくるはずです。そのハードな生活をすいすいこなせるぐらいの体の状態を目指したいわけです。 

あと、ダイエットです。 
昨年の長期休みのあとかなり太ってしまいましたから、贅肉を落としてしっかりした体作りをしたいと考えています。そうでなければきちんと整体ができませんからね。まぁ、春頃にはそこそこのイケメンになっているはずですので乞うご期待というところでしょう。 

さて、こんな事を考えていたら、とある銭湯で箱根駅伝の放送を見しました。 
走り方をみているとやはり大半の学生はそれなりのフォームで走っているように見えました。ただ、一部の学生は明らかに誤った走り方をしていました。そういう学生でも上位にこれてしまうあたりが走るという運動のややこしいところです。誤った走り方をしても早い人、適切な走り方をしていても遅い人がいるというです。 

ついつい、速ければ速いほどいいなんて考えてしまいませんか? 
そこがそもそもの間違いだということなんですけどね。適切な体の動かし方をしたときに速くはしれるか?それは、やはり適切な体の使い方を理解して実践、その結果、どうなるかはやはり生まれ持ったものがでてくるだけの事だという事です。 

まして健康を考えて走るのであれば、速ければいいのでもありませんし、長く走れるのが言い訳でもありません。 


「どういう走り方が自分の健康に役立つのか?」 


そういうところから考えないと行けない訳です。 


「運動で体を変えるのは難しい。」 


いつもいっている事なのですけど、なかなかこのあたりの事は理解してもらうが難しいのですよね。
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プラス思考と耳鳴りとめまいと

「自律神経の働きを整える。」 

言葉にすると簡単に聞こえることでしょう。 
しかし、実際はかなり難しい事です。以前にもどこかで述べたように思いますけど、主体がどこにあるのかという事をほぼすべての人が勘違いしているからおかしくなるのかもしれません。 

「プラス思考になれば人生がバラ色になる。」 

確かに、現実を見ないでいれば頭の中だけは幸せかもしれません。。 
しかし、現実をきちんと見ることができない人間は必ずどこかでつまずく事でしょう。生きて生活していれば良いこともあれば悪いことも、必ず両方の出来事が起こるからです。 

多くの人が間違えているのは、 

「悪い出来事を良いことだと考える事がプラス思考だ。」 

と考えている事でしょう。 
何かに挑戦しようとした時に、問題が起こるとします。 
それに対して、 

「これは辞めとけというサインに違いない。」 

なんて言って辞めてしまうのをプラス思考とかいったりしている人がいます。 
新しい事に挑戦するときに何らかの問題が起こるのは当然の事です。そういう課題を1つづつクリアしていく事を挑戦というのです。

逆の例もよく見かけますね。 
あきらかな問題があって手を伸ばしてはいけないのに挑戦することをプラス思考といっていっている人がいます。知っている人がとある商品を輸入できる事になったのだけど、関税がかかるので値段があがってしまうと。それで、何を考えたのかとというと空港の職員を探して関税がかからないように空港を通り抜ける方法を探していました。たぶん、犯罪行為になってしまうのでうまくいっていないと思いますけどね。 

こういう具合に、様々な形でプラス思考という言葉が都合良く使われている訳です。 
だいたい医師なんかがプラス思考という言葉を使うときってどういう時かというと、 

「私には治せません。」 

という時です。 
適切な治療があって快方に向かうのであればこんな言葉がでてくるはずがありません。治せないという言葉を使うと自分の権威が傷つくとでも思うでしょうか。そのつまらないプライドを守るために、目の前にいる人を傷つけたり、苦しめて良心が痛まないのかと思いますけどね。 

プラス思考という言葉、自分の都合や気分によって使い分ける人たちが非常に多いのでは私はとても嫌いです。 

「辛いのは穴がマイナス思考だからだ。」

なんていう医師に出会ったりしたときには蹴飛ばしてやればいいですね。


でも、それでも多くの人はあえてプラス思考とか前向きという言葉が好きなようです。 
ですから、この言葉は 

「悪い出来事をプラスに転じるにはどうすればいいか。」 

と考えるための思考であると定義しておくといいのではないでしょうか。 
そう考えると、めまいや耳鳴りで辛いなぁ、 

『しんどいなぁと感じているのを気にしない。』 

というのはプラス思考でもなんでもりません。 
気にしないというのは、さっき述べた現実を見ないという事です。家で家事が起きれば火を消すか、逃げるかしないとまずいのです。いつか消防士がやってきて火を消してくれるというのはプラス思考でもなんでもありません。 


ちょっと話がそれます。 
最近知ったのですけど、仏教を開いた釈迦は、 

「体の感覚を大切にしよう。」 

という事をうたっていたそうです。 
これ偶然にですが、私の考えと同じです。 

「釈迦と同じような事を考える俺って、もしかしたらすごい奴なんじゃないか。」 

という気持ちになるぐらいです。 
でも、たぶん、幸せに生きようとか、楽しく生活しようとか考えていたらたぶん多くの人がこの考えにいたるのじゃないでしょうかね。なぜなら、幸せとか楽しいとかいう気持ちや感情は体で感じるものだからです。 

映画館にいって映画をみる、ディズニーランドで乗り物に乗る、嵐やAKBのコンサートに参加する、こういう体験が頭の中だけで完結すると考えてしまうか?そういう風に考えてもらうと半数ぐらいの人にはわかってもらえるのじゃないかと思いますけどね。 

そういや4DXという体験型の映画館での話です。 
映画の主人公が胸の大きなヒロインに後ろから抱きつかれるシーンがあったそうです。その時に、シートからドンと背中を押されたのですが、 

「これが彼女の胸の感覚か!」 

とか思ったそうですけど、そんなはずがありませんよね。 

話を戻します。 

耳鳴りの音がやかましい事や、めまいでまともな生活を送れない事をプラスに転じるのはかなり難しいと思います。現実的に考えて不可能だといっていいでしょう。 

例えば、今、とあるカフェでこれを書いている訳ですが、窓から外をみると背中を丸めた冴えないおっさんがポケットに手を突っ込んで歩いています。そのおっさんを、 

「実はイケメンだ!」 
「実はこのおっさんは存在しない。」 

と思い込んでもイケメンに見える事はありませんし、消え去る事もありません。 
なぜなら、そのおっさんは現に存在していますし、それが私の目に写って認識されているのです。認識してしまった以上、消える事はありません。 

そして、このおっさんがどうしても不愉快に感じたとしましょう。 
この時、どう考えるのがプラス思考といえるでしょうか。気にしない、存在しないものとするのは無理でしょうね。できると思うのであればやってみてください。目の前に人がいる状態で、 

「この人は存在しない。」 

と思い込めばその人は消えるのか? 

気になるから不愉快に感じるのです。 
だから、そういう時にはどうするかといえばカフェを変えるというのが正解じゃないでしょうかね。まぁ、幸いにして、目にとまっても不愉快ではありませんでしたし、気にもならず、すぐさま通り過ぎて視界から消えていきましたけどね。 

ここまでいくと何がいいたいかわかってもらえることでしょうか。 
耳鳴りやめまいをすでに感じてしまっているのです。それを、 

「気にしない。」 

というのは無理、不可能です。 
ですから、幸せに暮らしたいと思うのであれば、 

「めまいや耳鳴りをしっかり感じてどう生きていくのか?」 

と考えるのが正解でしょう。 
よい解決方法で1つ例をあげるのであれば、一昔前のヨーロッパの神父には、 

「地球の自転の音が聞こえる。」 

という人がいたそうです。 
たぶん、耳鳴りがなっていたのでしょう。だから、前向きに生きていきたい、プラス思考になりたいと思うのであれば彼を参考にすればいいでしょう。めまいなんかも同じ要領でいけるのじゃないでしょうかね。 

ただ、この考え方は普通の人には無理だと私は思います。 
実際、めまいも、耳鳴りもかなり辛いものです。じゃあ、どれすればいいかといえば簡単です。 

「ちゃんと止めてしまえばいい、治してしまえばいい。」 

たった、それだけの事なんです。 

あなたにプラス思考にとか、前向きに生きろとかいう人間がいたら、 

「辛さも苦しさも解っていないくせに、聖職者みたいな人間になれとか簡単にいうな!」 

と言い捨てて、その人とは縁を切ってしまえばいいでしょう。これが本当のプラス思考、前向きな考えじゃないでしょうかね。
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