ブログ「日々整体」

辛い出来事に耐える方法

どこで読んだのか全く記憶にないのですけど、拷問に耐えるための訓練なんてものがあるそうです。
重大な機密を知っているCIAの諜報員や政治家なんかがその訓練を受けているとかなんとか。訓練を受けていないと拷問で苦しめられた上に極秘事項を暴露させられるなんていう事になります。そのため拷問が無意味にするため、そしてその効果が得られないようにするなんていう発想がでてくるのでしょう。

それで拷問に耐える訓練についてです。
実際に拷問を受けてそれに耐える訓練ではないそうです。本当なのかどうかは確認ができないのですが、自分をある特殊な状態にするという手法なのだとか。どういう事かというと、拷問を受けている間は、

「自分が拷問を受けている。」

という状態ではなく、

「拷問を受けている自分を眺めている。」

という精神状態にするのだそうです。
具体的には、拷問を受けている自分を部屋の天上だったり空中から眺めるという視点をもつのだとか。すると拷問を受けているのが他人事になるのでどんなに辛いとか苦しくても耐えられるそうです。

まぁ、こんな事を知ったからといっても、実際に試す機会などありませんから

「そんなので肉体の痛みを耐えられるようになるのだろうか?」

と思っていたのですが、この事はまったく違う方面からの知識から正解のようだと思われました。
インドだったかチベットあたりだったと思うのですけど、針を体に刺したり、剣山の上に座ったりしながらヨガのポーズをとっているの見たことがあります。それで、

「こういう修行って意味があるのだろうか?」

と、ずっとうっすら考えていたのです。
実際、釈迦はこういう修行をやっても真理には到達できないから意味がないといったそうですしね。それで、お坊さんがやっている修行の意味って何かというと、あらゆる物事に主観を挟まないで客観的に見るためのものだという事がいえます。それで、

「どうも自分を客観的にみる事ができるようになると、肉体のあらゆる苦痛に耐える事ができるようになるらしい。」

という事に気がついたのです。

この繋がりはちょっと唐突に感じるかもしれません。
ただ、書き始めるとかなり長大な文になってしまいます。また、ここらあたりの問題というかテーマは言語化してしまうと悟りの境地からはどんどん離れてしまうだろうと思われます。まぁ、私は悟りなんかには恐ろしくこれ以上は近づきたくないですし、ここを読む人に悟りを目指して修行をしていますなんていう人はいないと思います。だから、多少ぶっ飛んでいると感じられても私はそう考えているという具合に無理矢理に納得してもらう事にして述べてゆきます。

結局、苦行というのは自分を客観的に見るための訓練だという事です。

重要人物は秘密を守るために自分を客観視するためのノウハウを身につけ、修行僧は自身を悟りあるいは真理
に近づけるために体を痛めつけてそれに耐えるために自分を客観視する方法を修行する訳です。自分を客観的に見る視点を持つという点で苦行と拷問に耐えるためのノウハウがリンクした訳です。

ある日、突然に、

「なるほど。」

全く異なるいくつもの情報が私の中で1つに繋がりました。
こういう瞬間ってある種の独特の快感があったりします。もしかしたら、それが楽しみで私は変な知識を吸収しようとするのかもしれません。

さて、近年は、精神で体の反応を制御しなくてはいけないという考えが強いのです。
そのため、

「何事もプラス思考でなくてはいけない。」

みたいな馬鹿な事を考えている人があまりにも多いです。
辛いと思うことを、無理矢理に良いことだと、プラスにねじ曲げる事はとてもいびつな事です。ほとんどの場合において、健全な事ではないと理解した方がよいですね。こんな思考では自分を客観的に見ることなど不可能です。

辛いと感じる事があれば自分を俯瞰して眺めてみる事ですね。
自分を客観的に見る視点をもっていればプラスになるのでなく、プラスもマイナスもない冷静、平常な状態になるはずです。もしそれが可能になるようであれば、国家の安全保障を揺るがすほどの秘密を知ってもそれに心が揺れ動くような事はなくなります。

さぁ、

『辛い出来事に耐える方法』

がどのようなものか理解できたのでしょうか。
本当にそれができるようになろうと思うなら、普通の人間ではなくなる必要がありますね。それだったら、泣いたり叫んだりして苦しんでおく方が楽だし、人間らしいと私は思います。まぁ、どうしてもいうのであれば、体中に針でも刺して訓練してみたらできる人もいるかもしれません。
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ギックリ腰になる間抜け人間

「熱中症で死ぬ人間はただのマヌケだ。」

ひどい事をいうと思うかもしれませんけど、私の本心です。
もしかしたら私も寿命がつきたときがたまたま熱い日で、熱中症で死んだとか診断されるかもしれません。そうなると私は、

「他人の事をマヌケだといったひどい人間がその報いを受けるような死に方をした。」

と貶されるかもしれません。
しかし、

「死んだあとの評判なんぞを気にして生きてられるかっ!」

と思います。
言いたいことを躊躇うなんてのは愚かな人間の生き方だと思うのでそれでよいのです。

熱中症で亡くなるというのはどういう事かというと、


『暑いのに気がつかなくて、気がついたら死んでました。』


という事です。
正常な感覚があれば、暑いと感じれば、日陰に移動する、窓を開ける、エアコンや扇風機のスイッチを入れる、冷たいものを飲む、逆に温かい物を飲むなどなど、様々な行動の中で、その時の体の状態にあわせたもっとも適切な行動をとることができるのが人間という生物です。

ここまでいってまだわからない人には、

「犬や猫が、日差しの強い暑い日にはどうしているか?」

と質問をしてみると、そこで理解できる人が多いですね。

そういう人たちに、

「元気である、健康であるという事はどういう状態か?」

と、続けて質問をぶつけます。
答えは、

『元気であるというのは暑さ寒さを適切に感じ取れる状態』

です。
これが理解できると熱中症でなくなるのはマヌケだといった理由がちょっとはわかるのではないでしょうか。

それで、先日、整体にこられ人に、

「仕事を頑張っているのでぎっくり腰で動け泣くのは困るのだ。」

と言われました。

私は、ぎっくり腰がどういうものか理解している人には会った事がありません。
ぎっくり腰ってのは、ある日、突然に腰が痛くなって動けなくなるものとほとんどの人が考えています。しかし、突然に理由もなく腰が痛くて動けなくなる事などありません。

簡単に説明すると、ぎっくり腰というのは心臓の動きが悪くなった状態です。
逆説的な言い方をすると、心臓を動かすために腰に大きな負担がかかっている状態だという事がいえます。だから、大抵のケースで根本的な問題として、不摂生というのがありますね。

それで、先にでたセリフ、

「仕事を頑張っているのでぎっくり腰で動け泣くのは困るのだ。」

というような事を言う人って、努力しているのだから暴飲暴食していい、努力しているから不眠不休でいい、努力しているから家族をないがしろにしていい、というような思考にはまっている事が多いのです。

私に言わせると、これは

『努力に逃げているだけ。』

という事になります。
努力しているから、頑張っているから、他は何をしても許されるとでもいうつもりでしょうか。それは、ちゃんと見なくてはいけない現実から目をそらしているだけの事にしかなりません。

生活をしていれば必ず直面する面倒くさい事から目をそむけているのがマヌケな状態です。つまり、ぎっくり腰になるなんていうのはただのマヌケなのです。
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正射必中と清く正しく美しく

弓道の言葉に、正射必中というのがあります。
弓道で出会ったカップルが、この正射必中についての考え方の差が理由で別れる事になったというので2020年に盛り上がっていました。その時に、この言葉を魚にして記事を書いた記憶があります。今回、再び書くにあたって何を書いたのか見返してみました。その記事は『正射必中と必中正射』というタイトルで残っていますが、その時は体の感性の違いについて書いていたようです。

正射必中という言葉を簡単に説明すると、

「正しい射(弓を射つの意)ができれば的にあたる。」

というような意味です。
私は常日頃、

「普段どのような事に気をつければいいですか?」

という質問にたいして、

「清く正しく美しく生活をする事が大切です。」


と答えている訳ですけど、これは正射必中という考えに通づるものがあると思います。


健康になる人間は、健康になるべく生活をしているし、健康を失う人は失うべくして失っています。
清く正しく美しくという言葉の中には、

『人の命には限りがあるのだから、そのことを踏まえて一日一日を大切に生きてましょう』

という意味が含まれていると思います。
ちなみに、野口晴哉師の表現になるとこの事を意味するのは『全生』という言葉になるでしょうね。


日本人の平均寿命は70とか80年とか、そう遠からず100歳を超えるんて言われています。でも、この考えは大きく誤っていると感じています。ポイントは2点あって、

一点目は、


『たいした理由もなく死んではいけないと考えている』


という事です。
人はいつか必ず死んでしまうのに、死んではいけないと言う人が大勢いるのです。

「死んではいけない。」

そう言うのであればどうして死んではいけないのかをちゃんと説明してくれればいいのですけど、どうして死んではいけないのかをちゃんと説明してくれる人は皆無です。

二点目は、


『長く生きたからといってその分幸せになる訳ではない』


という事です。
寿命が延びて10~30年長く生きたとしてその分味わう事のできる幸せの量が増えるのか?私は確信をもって増えないと考えています。

人間が一生に感じる事のできる幸福の量には上限があります。
日々、人の体を観察しているとそう確信をもっています。そして、その幸福をすべて味わいつくしたた時が寿命です。だから、10代で死んでも、70代で死んでもその人生で味わった幸福の量は同じです。

科学的な根拠を示せといわれても提示はできませんけどね。
下世話な例をあげるなら、年老いて、食事は自分で食べれない、排泄が自力でできない、家族の顔をみても誰だかわからない、みたいな状態になった時に、幸福を感じる事ができるか?と考えてみてください。周囲にそういう人がいるなら、

「幸せですか?」

と、聞いてみるといいでしょう。
生きているという事は幸せを感じる事ができる状態を意味しています。
だから心臓が動いていても生きているとはいえない状態もあります。医者とは異なった見解でしょう。しかし、自分の意思をもっているのかもはっきりしない状態を生きているといってしまうのは違うと考えています。

ちなみに、いわゆる植物状態にある人でも意思をちゃんともっていて、ある機器を使う事でコミュニケーションがとれるケースもあったりします。そういう人はちゃんと生きているといっていいでしょうね。

さて、こんな人生観をもっている私にとっての正射必中とはどういうものか?
というと、

『正しい生き方ができれば人生という矢はちゃんと的にあたる』

という事です。
的というのは、私にとっては死です。
たぶんあと5~7年ぐらいで死ぬ事ができれば理想的な人生なのだろうと思います。でも、私は器の小さな人間なので、清く正しくなんてのはできいいていないような気もしますし、下手をこいていてもうちょっと生きてしまいそうな気もしています。

人生なんて一発しか矢がないわけで、それを必中で放つ訳です。
弓道でいうと、今は弓を引いた状態で、矢を放つ直前というぐらいのタイミングでしょうか。手を矢から放してしまうともう取り返しがつかないわけで、それを怖いと感じるのが、

「死にたくない。」

という思いと同じなのだろうなぁとそんな事を考えました。

もう50年近く生きてきた訳で、今更、修正がきかない状態であるともいえます。
納得のできない無様な死に方をしてももう仕方がないでしょう。そんな事を思いつつ、そんな余計な思いは振り払ってただただ無心に矢を放つのが正射必中というのだろうなぁと。
そんな風に考えている訳ですが、たぶん、

「これはもうろくな死に方はしないだろうな・・・。」

と、自分の人生を振り返って思います。
私はこれから自分の人生のまとめをやっていかないといけないタイミングなのだろうなぁと思うのです。的に届かなかったり、大きくはずれても、仕方がないから、死んだ後に周りにかける迷惑は最低限度にするための準備をしておこうと思うのでした。
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死は罪なのか?

先日、唐突ある感覚に身を包まれました。
ゆっくりと眠るようにそして暗くなっていくというのが身体感覚として感じる事がができたように思います。そして、

「死ぬときってこういう感じなのだろうなぁ。」

と、そんな風に漠然とですけど、でも確信できたように思います。
正直いってかなり怖いとは思いましたけど、たぶん私が思う理想の亡くなり方ができるとそんな具合なのだろうと思いました。

最近、

「誰も死を味わっていないのに誰もが最大の罪であるかのように決めつける。」

なんて事をソクラテスが述べていたのを知りました。
私は、自分がソクラテスと同じような事を考えていたらしい事を知ってちょっと嬉しい気分になりましたね。

その人にとって理想的な生き方があるように、理想的な死に方があると考えています。
体には生きるための仕組みがあるのですけど、それと同時に死ぬための仕組みもちゃんともっていると考えています。別に詳しく実験で調べとかではなく、これまで学んだ様々な事に経験を付け加わったらそうとしか思えなくなっています。

生きているのはこの世界においてとても特殊な状態で、海から何かの衝撃で飛び上がった飛沫の粒のようなものだと感じられます。粒が飛び上がっているだけですから放物線を描いていつか必ず海に着水します。そして、その着水が死という事になります。

充実した人生を送るという事はキレイな放物線を描く事だと考えています。
生まれて成長し、歳をとっていけばいつかピークを越えてたら落下をはじめいつか命を全うするのです。こういう事が当たり前なのだとしか思えないのですよね。

逆に考えてみるとわかりやすいのではないでしょうか。
晩年において、自分はどのような存在でいたいのか?と問うと、ほぼ総ての人が、

「自立できている状態がいい。」

と答えるのです。
自立できていない、介護が必要な状態というのは飛び上がった飛沫の放物線の軌道が乱れている訳です。

このように思うのは私が人間の体について延々と考え続けているからでしょうね。
逆説的にいうと、このように考えられないという事は人間の体とその体の人生について何も考えていないからだとしか私には思えません。

先に紹介した、ソクラテスの、

「誰も死を味わっていないのに誰もが最大の罪であるかのように決めつける。」

という言葉について考えてみる事はよいヒントになるのではないでしょうか。

私はソクラテスの残した記述などほとんど読んだ事がありません。
無知の知という言葉ぐらいは知っていますが、この言葉自体も多くの人がその意味を誤って捉えているらしいというぐらいの事は知っているつもりですけどね。これを機会に近いうちに読んでみようと思います。

私は今回、理想的な死を掴む事ができたように思います。
今までずっと頭で考えてはいたのですけど、体の感覚として捉える事ができたように思います。だから、そのような死に方をしたいなぁと、多分、できるだろうと思うのでけどね。

ちなみに、

「我々のある所に死はない、死のある場所に我々はいない。」
エピクロス

「生は適切に活用すれば十分に長い。」
セネカ

なんて言葉もありますので、とっつきやすいところから考えてはじめてみるといいかもしれません。
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胃袋を無視するから自律神経失調症になる

「背中が痛いのですがこれはどういう事が原因なんですか?」

という具合の質問を頻繁に受けます。
実はあまり意味のない質問です。これまで何回も書いているように思いますが、何回も聞かれるので何回も書いているのでしょう。

わかりにくければ、恋愛を例に考えるとわかりやすいでしょう。
好きな異性がいたとします。交際をしましたが、ある日ふられて、傷つき気持ちが落ち込んで切り替える事ができなくなってしまいました。こういう時に、落ち込んだ原因を探って意味があるか考えてみるといいでしょう。


「好きになったのがいけなかった、もう恋愛をしない。」


なんていう結論にいたったとしても、問題解決がしたとはいえないでしょう。
また、


「新しい恋愛を探す。」


という心境になるためには失恋の原因を探しても意味がありません。清潔感がないとか、収入がないとか、そういう恋愛以前の問題があればまた話はかわってきますけどね。

実は、体の問題というのは恋愛と同じであると考えた方がうまくいきます。自分の体とどう付き合っていくのか?つまり、体と恋愛をしていると考えるといいでしょう。

欲求がすべて脳の働きからくるものだと考えているから間違えるのです。
例えば、体はミュージシャンをやりたいと欲求しているのに、頭は公務員で安定した収入を求めるなんていう状況を考えてみてください。そこで、趣味として仕事が終わってから仲間とバンドを組んで演奏をしているなんてやっていればいいのです。でも、結婚して子供ができたからと、嫁と子供のために趣味のギターを処分して仕事一辺倒の暮らしをしていると、病気になりやすくなり、怪我もしやすくなります。

こういう人が、病気になったり、怪我をして仕事を休んだとしましょう。
それは療養していれば治る訳です。それで、また仕事一辺倒な生活にもどったらどうなるか?答えは簡単で、しばらくすると再び病気や怪我をする事になります。

補足しますけど、ミュージシャンになってうまくいく人は、体から衝動してあがってくる欲求に従って音楽活動をする人です。異性にもてたいとか、ちやほやされたいとかいう考えでミュージシャンになろうとしたってうまくはいきません。確かに、レッドツェッペリンのように、『金儲けをしよう』といってバンドを組んで成功したケースもあって現実はそれほど単純ではありません。しかし、お金儲けするためになぜギターを持ち出したのかと考えるとうまくいった理由がわかるのではないかと思います。

こういう事を踏まえて最初の、


「背中が痛いのですがこれはどういう事が原因なんですか?」


という事について考えてみてください。

実は、今回、質問してきた方は、若いころに事故にあってその後遺症が残っているのでした。
だから、事故に会うような無謀な事をやってしまった事を十数年後の今になって反省して意味があるかというと全くありません。そして、その事故の後遺症は自力ではどうにもできないので私の所へ相談にきているのですから、


「体の事は私に任せて、どうすれば日々、元気に、快活に過ごせるかを考えるといいですよ。」


とお話しました。
元気に、快活に過ごすという事は、体から湧き上がってくる衝動をストレートに発散させるという事だからです。そういう生活ができていれば、健全で幸福な人生を全うできるのです。しかし、基本的に脳は現時点での損得勘定しかしていませんから体が求めている衝動について考慮することはほぼありません。

人の体は数え切れないぐらい多くの細胞その他が集まって成り立っています。
それらすべてが協力しあう事で私たちは元気に生きていけるのです。つまり、自分らしく、快活に、元気にいきるというのは、そういう細胞の集合体の意思を統一して生活をしていくことが大切になります。それが自律神経を健全に働かせるという事なんです。胃袋だけとか、肝臓だけとか、脳みそだけとか、なにか機関の1つに注目して振り回されてたらうまくいくはずがありません。簡単にいうなら、肝臓ばかりいたわって、胃袋のことを無視している状態が自律神経失調症だといえるかもしれません。
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