ブログ「日々整体」

生きるとは何か:認知症の拡大と寿命の延長についての考察

認知症に対して整体師として意見を述べさせていただくと、認知症に対する治療や手当は根本的に間違っていると思います。2025年には5人に1人が認知症を発症する予測です。そして2060年には3人に1人が認知症を発症する見込みです。


認知症の人の推定人数・有病率の将来予測


このグラフは、生命保険文化センターというところが発表している認知症患者数と将来の予測をグラフにしたものです。棒グラフが認知症患者の人数で、折れ線グラフが認知症を発症する割合です。


一方で、こちらは厚労省が発表している平均余命と推移です。



この2つのグラフからのみで判断するのは早計です。

しかし、そんな悠長なことをいっている場合ではないということははっきりとわかります。女性は90歳、男性は84歳まで平均寿命が伸びる見込みです。2060年で80~90歳ということは現時点で45~55歳の人たちがそれにあたるのですが、実は私がちょうどこの年代です。


悪い方の予測を元に考えると、この世代が長生きした場合、30%の確率で認知症を発症するということです。そして、もし結婚していたら夫婦両方ともが認知症を発症していない確率は約44%です。数字がまろやかな予測を元に考えるにしてもその差は8%程度です。その差は、100人中33人が認知症になるか、25人が認知症になるかどうかの違いしかありませんから重要ではないといえるでしょう。


認知症を発症しないようにするノウハウというのは現在のところありません。また、カリフォルニア大学が発表している2050年までに達成される医学的な成果にも認知症の治療の成果はあがっていません。



自分が認知症になった時、


「家族、子供、親族が果たして自分を介護をする余力をもっているのか?」


と、考えてみてください。

ほとんどの人は、そんな余力はないだろうと思うのではないでしょうか。もし、そうであればこれはもう認知症と寿命についての認識を改めるべきではないでしょうか?


私は認知症について話をする時に、


「生きているとはどういうことかという定義を考え直す必要がある」


といつも話をしています。


私は生きているということはどういうことかというと、


「自分で考えて行動して、そして幸せを感じられる状態が人間が生きている状態である。」


と考えています。

そして、


「長生きすることに至上の価値を見出さない方がいい。死ぬまで精一杯生きることがもっとも幸せなことで、100歳まで生きたからといって100年分の幸せを享受できるとは限らない。」


と思うのです。

ところが、医療においては「心臓さえ動いていれば生きている。」という認識が根強く残っているように思います。そのため、私自身にも覚えがありますが、


「とりあえず心臓が止まるのを防いだから、あとはあなたの心の問題です。」


と言われてしまうことがよくあるように思います。

私の近所にも入院して帰ってきたら、認知症をかなり悪化させて完全な介護が必要な状態に陥っている人がいます。奥さんが世話をなさっていますが、ベッドの下などにへたり込んでしまったりすると、動かすことができず助けてほしいと頼まれることがしばしばあります。


昨年の出生数は80万人を下回っていました。

その世代が働き盛りの30代になったころの話になります。そのうちのどの程度の人がこのような老人介護の仕事に就いているのかデータをチェックするのは恐ろしいとはおもいませんか?ネットではすでに介護職の人手不足は深刻だという話をよく耳にするようになってきていますね。


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"自由意志"は本当に子供にとって最良の選択なのか?

ある日、よく知らない人間に批判されました。

息子の進路についての発言に対して、

「そんなことは親のあんたが決めることでなく、子供が自身の判断で決めることだろが。」

という指摘をされて、少し気分を害しました。
言われることは全くその通りのことなのですけど、

「そんなことはオタクに言われるまでもなくわかっている。」

と言い返したいところでしたが、黙ることにしました。
私は、自分自身が物事に対して他人とは異なった視点で見ていることが多いのです、だから、こういう意見に対してまともに返事をしてもコミュニケーションは成立しないことを知っています。私にとってこのような出来事は珍しくないのです。

自主性は単なるトレンドでしかない

自主性を大切に、子供の意思を尊重してという考えは単なるトレンドです。
このような考えは、大昔からあった人類の唯一絶対の正義ではなく、むしろつい最近になって生まれてきたものです。私の感覚からすると、ここ30~40年間で主流になってきたものですね。

この思想の変化のわかりやすい事例をあげるなら結婚がそうでしょう。
私の子供の頃は、見合いで結婚しましたという人を珍しくない程度に見かけた記憶があります。むしろ恋愛結婚したという人の方が珍しかったぐらいかもしれません。それが、恋愛をして本当に好きな人と結婚するのが幸福だという考えが主流になりました。我が家では、休日に「新婚さんいらっしゃい。」という新婚さんが登場してトークするテレビ番組をみるのが日常でしたから、この変化を生で実感したように思います。

内閣府が発表しているデータをみると

リンクはこちら

婚姻数は1973年をピークに右肩下がりの傾向が顕著です。
1990~2000年ごろに多少上向きがありますが、これはネットバブルと呼ばれる時期ではないでしょうか。なお、この表の意地悪なところは2019年までしか表示されていないところで、昨年の結婚数は50万件と、表示されている部分より大きく減少しています。

この減少の原因が、自身の主体性で婚姻するようになったことであると結論づけるのはちょっと短絡すぎでしょう。しかし、かつての日本では婚姻率が99%、ほぼ全員が結婚していたことを考えると少なくない影響があると考えるべきではないでしょうか。



こういうことを踏まえて、息子の進路についてすべて本人の考えと意思に任せてしまってよいのかというと違う、むしろダメだろうというのが私の考えです。自由意志による結婚が一般的になってしまった結果、未婚率が増えたのです。これを息子が成人した時の状況に置き換えると、自身で稼いで自立した生活を営むことができない、ということを意味するからです。

子供の自主性に完全に任せられない理由

ほかにも理由はいくつかあります。
そのなかで最も大きなものは、10年後の世界の様子が全く想像がつかないという一点です。

AIが実用化されていて、その能力が人間の知能を近々超えるかもしれません。
この地点をシンギュラリティポイントというのですけど、この言葉を聞いたことがある人も少なくないことでしょう。その場合、これまで高給取りであった頭脳労働者、つまりホワイトカラーが職を失う可能性が高いと言われています。実際、米ではその傾向がすでに表面化してきているという話も伝わってきています。

また、世界中で20から30代の若者は高齢者たちに搾取されているという意識が非常に強いようです。日本での健康保険や年金の扱いと同様のことが世界で起こっているというとわかりやすいでしょうか。

そのような意識が強い若者は、様々な名称で呼ばれています。
韓国ではMZ世代、中国ではタンピン、米国ではDoomer(ドゥーマー)、日本ではニートです。フランスでは、「犠牲にされた世代」と呼ばれ政治活動にまで発展したこともあります。

若者たちは搾取されていると感じているのです。
それ故に、将来に夢や希望が持てなくなっているのだと思います。おそらく大半の高齢者たちは悪意をもって若者に接してはいないでしょう。しかし、少なくない若者の現実は、毎月15~20万円程度の所得しか得られず、その所得が増える見込みが全く感じられない状態です。

先に述べた通り、大学で苦労して身につけた教養も役に立ちません。
その教養で取り組む仕事はAIにすでに奪われ始めているのです。少し前から奨学金を返済できなくて破産する若者のニュースを頻繁に聞くようになりました。奨学金の返済については、米国ではかなり深刻で、大統領選を左右する可能性もある問題として捉えられています。

このような世界の状況で、

「お前の好きなように生きていきなさい。」

というのはあまりにも無責任です。
未来に対して希望をもって、なにかに取り組むことができるようなガイドラインを示してあげなければいけないと思うのです。

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ストレスの正体:気持ちよく逃げるか、真面目に発散するか

「ストレスの発散が大事である。」


使い古されたセリフです。
しかし、この言葉はたいていの人は、都合のよい、あるいは便利な使い方でしか使っていない表現といえるでしょう。

具体的な例をあげると、

「1日1杯のビールは健康によい。」

といって毎晩のように晩酌をしている人にとって、飲酒はストレスの発散になっていないといえるのです。

一方で、先日、蒲田の駅前でギターを弾きながら歌を歌っている若者をみました。
私がこの人はストレスを解放しているなと感じました。彼は自分の歌を聞いてもらおうと一生懸命になっているように見えたのです。

毎晩のように晩酌をする人と、駅前で歌を歌っている若者の違いを説明するのは簡単です。
その行動がエネルギーの発散を行っているかを考えてみるのです。すると、酒を飲む人はアルコールを自分の体で分解することにエネルギーを消費しているだけで、真のストレス発散にはなっていないと言えます。体の中に溜め込んだフラストレーションをアルコールと一緒に分解しているのですから、この行動をストレス発散としてしまうのは不適切なのです。それに対して、歌う若者は歌に自分のエネルギーをのせて放出しているのです。そのエネルギーは、学校や社会に対する不満かもしれませんし、将来に対する夢や希望かもしれません。

さて、あることに気がついた人もいるかもしれません。
ストレスというものは、歌う若者にとってはエネルギーと呼んでよいものです。そのように考えると、発散するストレスは本来はエネルギーだということです。

「ストレスを溜め込んではいけない。」

というのはよく聞く言葉です。
しかし、発散することができるストレスは本当はエネルギーなのだからどんどん溜めてゆけばよいのです。このように考えると、ストレスの発散がどのようなものか明らかになります。
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飲酒が好きな人と酔いたいだけの人:あなたはどっち?

飲酒をする人によく見かけるパターンとして、

「毎日の晩酌は体によい。」
「1日1杯はストレス解消のために絶対に必要。」

といって毎日のように飲酒をする人がいます。

しかしながら、最近では「飲酒の量がゼロが理想だ」という研究結果も発表されています。
その研究は多くの人々に信じられており、実証的なエビデンスもあるようです。ですから、きっとお酒は体に悪いのでしょう。すると毎晩のように晩酌をする人は体によいと思いこんで体に悪いことをずっと継続していることになります。

しかし、違う視点から考えてみてください。
好きなものを好きなだけ食べてその結果病気になって若くして亡くなった人がいたとします。この人の人生は不幸だといえるでしょうか。私自身は、本当に好きなのだったら悪くない人生だったのだろうと思います。

1日1杯の缶ビールはストレス解消のために絶対に必要だと考える人は、今を大切に生活しているという意見でしょうか。しかし、病気になって余命幾ばくもないという状態になったら意見を変えそうな気がします。結局、ほとんどの人は飲酒についてそれほど深く考えていないようだというのが私の感想です。

整体的な視点で飲酒について説明してみます。
整体の考案者である野口晴哉は上手にお酒を飲むことができれば体を緩めることができるとその著書で述べています。具体的には、上手にお酒を飲むということは、酔わないように飲むということです。酔わないようにお酒を飲むことができれば睡眠が深くなり、その結果、しっかりと疲労を回復することができます。高齢になるほど、回復が遅くなる傾向があるので効果的で、一方、若い人には十分な回復力があるのでほとんど不要です。これが理想的な飲酒だと考えると、お酒を飲んだ翌朝に、すっきり快活な朝を迎えられるような飲み方をしているかという考えでもよいかもしれません。

本当にお酒が好きな人は酔わないようにお酒を飲んでいます。
なぜかというと酔っ払ってしまうと味覚が鈍くなってお酒の味がわからなくなるからです。舐めるように飲むという言葉がありますが、お酒が好きな人は味覚を鈍らせないようにちょっとずつ口に含んで味わってお酒を楽しんでいます。余談ですが、そういうことを知っていると、ごくごくと喉越しを楽しむような飲み方をするビールを酒好きが好まない理由も理解できることでしょう。酒が本当に好きな人は日本酒やウイスキーといった蒸留酒を好む傾向があるのです。

このことを知っていると「毎日の晩酌は体によい。」といって酔っ払うためにお酒を飲んでいる人は実は酔っ払うのが好きなだけで、お酒が好きなのではないということも理解できることでしょう。ストレスを溜め込む方が病気につながるかもしれませんから、別にそれはそれでよいかもしれません。ですから、言い訳しないで酔っ払うために飲みたいのだと主張するほうが潔いのにとは思ってしまいます。

当然ですが、幸福の捉え方は人によって異なります。
長生きすることこそが人間にとって最大の幸福だと考える人にはお酒の飲み過ぎで短命に終わった人は不幸な人生だったといえることでしょう。一方で、自分の欲望や欲求を満たすことこそが人生において最も重要だと考える人にとっては幸福な人生だという意見になるかもしれません。結局、お酒なんて深く考えないで好きなように飲めばいいのではないかということになってしまいますね。

なお、私自身の考えも添えておきましょう。
私が酒を飲むのは数年に1回程度、なんらかの集まりのあるときに付き合いで少し飲む程度です。日々の生活の充実度をあげるために現時点では飲酒が不要で、こような考えを持っているとお酒を飲みたくなるということが全くありません。生活習慣と考え方で飲酒のスタイルなど大きくかわってくるということでしょう。
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臥薪嘗胆から現代へ少子化日本と勾践の教訓(閑話休題)

紀元前500年頃の中国の越という国の勾践(こうせん)という王が、人口増加のための政策として子供を出産した家庭にお酒と肉をプレゼントしていたという話を聞きました。

いきなり話がそれますが、勾践という人は臥薪嘗胆の語源となった人です。
勾践はある戦争に破れたのですが、その時の悔しさを忘れないようにするために自室の天井に胆を吊るして毎日舐めていたそうです。それは非常に苦いもので、その苦味を味わうことで復讐心が途絶えないように努力をしました。これが嘗胆の由来です。

せっかくなので臥薪も説明しておきましょう。
勾践を戦争で破ったのは隣国の王である夫差(ふさ)です。夫差は勾践に攻められ、王が死亡した後、夫差が王を引き継いだのですが、先王の悔しい気持ちを託されました。その先王の遺言を忘れないようにするために、寝床の下に薪をおいて寝ていたそうです。それが臥薪と言葉の由来となりました。

2つの言葉を合わせて臥薪嘗胆です。
何かに対して悔しい、あるいは恨みに思う気持ちは時間とともに消えていってしまうものです。その屈辱を消し去らないために、自分自身に苦しさを思い出させつづける必要があるというのが語源です。そこから転じて、成功するために苦労に耐えるという意味になったようです。しかし、夫差も勾践も自身の恨みは晴らしましたが、その後、幸福な人生を送ったとは思えまえん。屈辱をバネに何事かを為すというと聞こえはよいですが、あまりよい生き方とは私には思えません。

それで、勾践の多産政策についてです。
男子が生まれれば酒と犬肉を、女子が生まれれば酒と豚肉とプレゼントしていたそうです。犬肉というと驚く人もいるかもしれませんが、中国では犬の肉はお祝いのときに食べるものという習慣があったそうです。三国志や水滸伝などの小説を読んでいると頻繁に肉料理として登場しますので知っている人もいるでしょう。漢王朝を建てた劉邦の義弟のはんかい(漢字が表示できません。)という人は、劉邦が旗揚げする前までは犬の屠殺を生業としていたのではなかったかと思います。なお、犬肉の供給が途切れないように犬の牧場もあったそうです。

犬肉は当時は贅沢な品で、身分の高い人でなければ食べられなかったと考えられます。それが出産して男子が生まれれば食べることができたのです。一般庶民にとっては考えられないぐらいのご馳走だったのではないかと思います。

勾践に男子の出産を祝う気持ちがあったのは間違いないと思います。
屈辱を晴らすためには自国の人口を増やして軍事力を増強しなくてはいけないからという邪な理由ではありましたが。しかし、たとえ女子であったとしても豚肉と酒が支給されるのですから、心の底から力を高めたいと考えていたのでしょう。だから、赤ん坊が誕生したら、それを国をあげて祝っていたということです。

それに引き換え、現在の日本はどうだろうかと考えてしまいました。
調べていたら日本の少子化が目に見える形になって現れるのは2040年ごろのようです。それまでは現状維持はかろうじて可能なようです。これは今年生まれた赤ん坊が成人に達するのは20年後だからという簡単な理由です。日本の少子化はもう絶望的といえますね。
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