ブログ「日々整体」

アニメと整体の感性と

正月ごろから放送している

「映像研には手を出すな!」

というアニメがあります。
NHKが放送しているのですが、これを見るためだけに受信料を払ってもいいと思えるぐらいに非常に面白いアニメです。タイトル自体は数年前から知っていて、その時はコミックが2巻まで発売されていたようなのですけど、

「もうちょっと貯まってから読もう。」

と考えて、ツバだけつけて温めてありました。それがアニメ化されてしまったという事で、自分だけが知っている隠れ家的な喫茶店が多くの人に知られてしまったというような気分に陥っています。

私はアニメを見るのは、気に入った奴だけを1人でみるという感じでした。
それが息子が成長するにつれてちょっと変化がでてきました。テレビのアニメは基本的には3ヶ月おきに入れ替わって放送されるのですが、その入れ替わりのタイミングで、

「次のシーズンはどれを見る?」

というのを息子と2人でチェックするのが恒例行事になっています。
そのせいで、見る量が一気に増えてしまっています。ただ、その中で先に紹介した「映像研には手を出すな!」は、放送される2週間ぐらい前から、

「おそらく今シーズンでもっとも面白いアニメのはずだ。」

と息子に宣言していました。

第1話が放送されたのは、私が東京へ出張している日です。
それで東京から帰って、視聴状況を確認したのですが息子は見ていないのです。我が家では、新たに録画された番組には『NEW』のマークがつくのですのが、そのマークが消えていません。

それで、息子が学校へいってから私は1人で見てみた訳ですが、予想通り非常に面白いのです。

「これ、面白いから見てみ。」

といってもまだ見ようとしませんでした。
どうやらタイトルとコンセプトイラストを見ただけでは全く興味が沸かなかったようです。仕方がないなぁということで、再三すすめてやっと見てみる気になったようです。それで見終わったときに、

「面白かっただろ?」

と聞いてみたら、


「むむむ。」


と返事をしていました。


ところで、今シーズンの放送で世間に広まってしまったのは喫茶店だけではありませんでした。
もう1つ、もうちょっとコミックが増えてから一気に読もうと温めていたものに空挺ドラゴンズというのがあってこちらも放送がはじまっています。こっちは隠れ家的なカレーショップでしょうかね。

それで、空挺ドラゴンズも息子は見ようとはしていませんでしたが、この時は、


「たぶん面白いから一緒にみよか。」


と見てみたら、やはり、


「むむむ。」

といっていました。

それで、

「この2本はタイトルを見ただけで面白いとわからなあかんわ。」

と言うと、なんでそれだけでわかるのかということをかなり不思議に感じたようです。


私がタイトルだけで面白いマンガやアニメを見分けることができる理由は簡単で、


「目が肥えているから。」


です。
本や雑誌なんかでも大体読む前にわかりますね。見たり読んだりしたら、期待はずれだった、あるいはその逆でダメだと思った物が実は面白かったという事は皆無ではありませんが、大きく外すことはそうありません。

私の場合だとサブカルに偏りますが、映画やドラマでわかる人もいるでしょうし、初めて会った人が優秀だとか、親切だとか、そういう事がわかる人もいるでしょう。目が肥えているとちょっとした情報だけでいろんな事がわかる事は普通にあるわけです。

さて、ここでちょっとした問題です。
「映像研には手を出すな!」を見たことがない息子に、このアニメが面白いということがどうしてタイトルを見ただけでわかったか?という事を説明して、理解してもらう事はできるでしょうか?

おそらく不可能でしょう。
こういうやりとりは整体をしていても頻繁に起こります。


「体のここを押さえると何か違和感とか痛みがあるでしょ?それが不調の原因ですよ。」


なんて事を言う訳ですけど、


「ちょっと痛みみたいな物を感じますが、これは体の異常なのですか?」


という具合の返事が返ってきます。
その部分に変化が起こっても体の状態が変化するという事がまったく想像できないわけです。

こんな事をいう人には、きちんと説明されれば理解できると思い込んでいる人が多いように感じます。学問的に理詰めで詰めていけば、体のしくみはすべて解明できると考えているので、そう思うのかもしれません。

生命のしくみなんてわかっていないことの方が圧倒的に多いのです。
私の感覚では、学術的にわかっている事なんて生命についての1%ぐらいじゃないでしょうか?その1%の情報からあーでもないこーでもないと、残りの99%について考えるわけです。私の場合、触知で体の状態を確認するからもうちょっと情報量は多いですし、これまで何万という人の体を見てきているわけですからそれなりに目が肥えているはずです。でも、1%のヒントに何も感じることがない、気が付くことができない人に、残り99%について説明しても理解してもらうことは不可能だろうと思います。


アニメだったら見てみたら一発でわかりますから簡単です。
それじゃあ、体だったら?アニメと同じで考えるなら、体が変化して元気になればやっぱり一発で全部わかるんじゃないでしょうかね。
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専門家曰く日本人はみな軽躁社会

「専門家はろくな事を言わない。」

この事は、広辞苑とか国語辞典に銘記してもいいのではないかと思います。
先日、精神科医が書いているブログをみていました。おそらく、専門家になるために様々な事を学び、専門家になった後でも様々な事を学んだ事でしょう。しかし、その結果、発信される情報が、

「日本社会は軽躁状態だと推測される。」

というものでした。
有名YouTuberの状態を引き合いにだして説明するわけです。一応、彼は演技でやっているのだろうから、軽躁ではないと思われるだろうと補足していましたけど、大半は軽躁状態に陥っているとそんな事を述べていまいた。

軽躁状態というのは、簡単にいうとテンションがちょっと上がっているという事です。
物事を深く考えず安易な選択を行動する状態だと解説されていました。お調子者が、調子にのって馬鹿な事をやるのは軽躁状態だというわけで、この精神科医に言わせればお調子者は軽躁状態という事のようです。

もうちょっと砕いていきましょう。
YouTuberといえば、ヒカキンさんなんかはほとんどの方が知っていることでしょう。彼は普段は地味な生活をしているそうですが、動画では高めのテンションで明るく楽しそうに振る舞っています。そうなるのは、高めのテンションが求められるからで、それはYouYuberだけではなく、当然テレビでもそうですし、あらゆるシチュエーションで、


「高めのテンションが求められる。つまり軽躁状態である事が求めらている。」


と感じたそうす。
それで、自分もそのように振る舞わなくてはいけないのかと思うと、怖くなって引き籠もってしまいたくなったと、そういう考えに至ったそうです。


それで、これを読んだ私の感想は、

「お前のような精神科医は引き籠もってしまった方が世のため人のためだ。」

というものです。


精神科医がどのような立ち位置で仕事をしているかしりませんけどね。
今は、全ての科のあらゆる医師が、


「気持ちを前向きに病気とうまく付き合いましょう。」
「死ぬわけではないから、気にしない事が大切だ。」


なんて事を言っているのじゃないでしょうか?
私のところへ相談にこられる方は、ほぼ全員言われていますから多分間違いないと思います。これって、軽躁状態になりなさいということを、ちょっと遠回しにいっているだけですけど、どうしてそれに気が付かないのでしょうかね?


これらのセリフがどれだけの人間を引き籠もらせているのか?
それが自分自身に向けられて、実際に引き籠もりたくなったと感じているにも関わらず、自分らをはじめとする医療従事者がそれをかなり大々的ににやっている事に気がつかないわけですから、


「あなたは一体何を勉強してきたんですか?勉強してきたことを全く活用できていないのじゃないですか?」


とそんな質問を投げてやりたくなります。


この人はいったい何を勉強して、何のために精神科医になったのでしょうか?
人前にでるときに普段より少し高めのテンションになるのは当たり前の事です。YouYubeになるとインターネットという技術を使って接する人間が圧倒的に増えるわけですから、それに対する立ち居振る舞いというものが必要になってくるのは当然の事です。

これは私のようにぶっきらぼうで乱暴な言葉を平気で使う人間でも同様です。
私の場合だと、それなりに影響を受けてもらってなんらかの変化を起こしてもらう事も想定して発言する事も多いわけです。ですから、その発言のやり方や、表現にはやはりそれなりに気を使わかなければいけません。

ところが、この精神科医は、それを


「軽躁だ。」


と病気扱いするわけです。

まぁ、最近は病気という言葉もずいぶん細分化されてきて、病気やそれに類する言葉なんかが定義されてきているようですから、

「病気ではない。○○といいます。」


なんていう、かなりどうでもいい理屈をもってきて反論する人もいそうな気もしますけどね。

話を戻します。
ヒカキンをみて軽躁だというこの精神科医がやっている事は、自分にはできない立ち居振る舞いや発言をする人間を病人扱いすることによって、


「自分は正常である。」


という事を主張しているだけですね。
おそらく十年、もしかしたら何十年とかけて培ってきた知識や経験を使って、健全な人間を病人にして、他人とうまく接することのできない、良好な人間関係を作ることのできない自分が健全であるという事を証明しようとしているのです。


この程度の人間が、


「精神科医でございます。」


なんて、白衣着てでかい顔をして仕事してても、元気になる患者なんぞいないと私は思いますけどね。


人間同士の関わり合い方には様々な方法や形があります。
テレビやYouTubeなんかで活躍している人たちの方法は確かに多くの人に受け入れられやすいものでしょう。でも、それができない人などいくらでもいますし、そんな風になる必要など全くないのは当然の事です。

書いていて、ある変わった夫婦を思い出しました。
ホームページを作るときに必要になるサーバを提供するサービスがあります。そのサーバは夫婦2人で経営をはじめたそうです。2人とも面と向かって人と話すのが苦手なので、全てがインターネット上で完結するので誰にも会わなくていいという事でこの仕事を始めたそうです。

この二人の面白いところは夫婦間であっても面と向かっては話をしないというところです。
自宅でずっと仕事をしているわけですが、それぞれ二人の部屋にはパソコンが設置してあって、そのパソコンを使ってチャット(ネットの上のライみたいなもの)で会話をするそうです。その方が、いろいろ話をしやすいのだとか。

実は、安価ということで私も利用している会社です。
何年か前に記事で読んだので今でも仲良くしているかはわかりません。ただ、少なくとも記事になったときにこの夫婦は良好な関係を築いていたわけですし、今の社会では別にそれを永遠不変のものにする必要もないでしょう。女性が主役になれる、活躍できるっていうのは、婚姻関係に頼らずとも男性も女性も自立できる社会の事でしょう。そう考えれば、この夫婦は時代の最先端を突っ走っているという言い方もできます。

そんな具合に、夫婦や仕事だって様々な形をしています。でも、この夫婦の事をこの精神科医に話したら、きっとありがたい病名をつけてくれるんじゃないでしょうかね。あ、病気じゃなくてなんとか症候群とかそんなんかもしれませんけどね。

ちなみに、私も多くの人と良好な関係を築くのはあまり得意ではありません。
だから、カメラに向かって明るく明朗にしゃべるなんてのは、まぁ、やろうと思えばできるようになるとは思いますが、やりたいと思える事ではありません。で、どうやっているかというと、日々、こうやって思った事を文章にして発信しているわけです。読んで反発する人も多いようですけど、東京へ行っても、名古屋へ行っても面白いと評価してくれる人もいます。


「ブログなんてオワコンだ。」


なんて言われて久しいですけど、別にテレビやYouTubeみたいに何万、何十万に発信する必要などありませんからこれで十分だったりします。


そして、私たちが生活していくのに何か発信をしなくてはいけないという訳でもありません。
母として、父として、主婦として、会社員として、フリーターとして、経営者として、友人として、恋愛対象として、自分がどのようにありたいかは、自分で決めることで、精神科医が決めるようなものではありません。

例えば、私が友人としてどうあろうかという事を紹介すると、


「何も言わずに300万円貸してくれ。」


と言われて、黙って出してあげることができる友人を3人作れば、結構いい人生になるんじゃないだろうか?
なんて事を20代の後半あたりに考えていたように思います。この考えについても、この精神科医が賛同してくれることはないのじゃないでしょうか。

きっと、


「帰ってくるはずのない金を出したらあかん。」

と言われて、私は、


「そういう問題じゃない。」


と答えることでしょう。
まぁ、そういう風に思える友人が、そんな事を言ってくる事はありえないという事に気が付いたのはずいぶん経ってからで、ずいぶんアホな事を考えていたと今振り返ると思いますけどね。


さて、とりとめがなくなってきたのでまとめましょう。
この記事、ヒカキンと、軽躁というワードを使っていることもあって目にとまるようで、それなりに注目を集めているようです。社会に溶け込めない人にとって、ヒカキンが異常で、自分が正常だと思いたい人にとっては非常に受け入れやすい内容なのでしょう。

しかし、人間って何らかの形で社会と関わっていないと生きていけない生き物じゃないでしょうか。
関わり方は、明るく楽しそうに振る舞ったり、誰とも会わずにパソコンに向かうだったり、人によって様々な形があります。どうしても無理だというなら、山奥にひっそりと自給自足で暮らすという選択もありでしょう。しかし、それだって先に紹介した夫婦のように、関わり合い方の一つでしかありません。

そういう事を踏まえてやっちゃいけないのは、


「自己肯定のための他者否定。」


なんじゃないでしょうか。書いている人間は、このことを一番理解していなければいけない立場のはずなんですけどね。


厄介なのは、白衣を着た人間は、まったく役に立たない事を最もらしく説得力を持たせて有害にしゃべるのが巧みだということでしょう。他人の人生に口を出す、度量も器量もないようなしょうもない人間に振り回される事がないように注意することです。
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アカスリ通い

「あなた骨が堅いね。サウナばっかり入っているでしょ?」

と、言われたのは昨年12月末の事です。
趣味の釣りの帰りの時の事でした。その日は、深夜出発で昼過ぎまで釣りをして、睡眠不足な状態だったので帰りの運転が危ないと感じたので、銭湯に寄って一休みしてから帰る事にしました。普段ならマッサージ、リラクゼーションを選ぶのですが、いろいろ体験してみようということで昨年の中頃からいろいろ体験するようにしています。

アカスリの事はかなり前から知ってはいました。
銭湯が好きであちこちいってましたし、大きめのところへいけばかならずありますからね。ただ、素っ裸でごりごりと体をこすられるというのは正直いって抵抗を感じていました。でも、年をとって羞恥心がなくなってきたのでしょうか。試してみたら、案外というか予想以上に体がすっきりしたので、以後、時々利用するようになっています。

それで、5~6回目の時だったでしょうか。


「サウナで安易に汗をかいてばかりいると骨が硬くなる。」


という事を指摘されたのです。
言われてみれば全くその通りだと思いました。言われてみるまで気がつけなかった自分の迂闊さを恥じ入るばかりです。


アカスリをしてくれる方はどこへいっても片言の日本語です。
韓国出身または在日の方だと思うのですが、この時の方は老婆といってもいいぐらいの年齢の方でした。その分、年期がはいっているのでしょう。


「あなたぐらい体が大きいと時間が足りないから10分延長ね。」


と言われて、考えるスキも余地もないぐらいすぐさま『ハイ!』と返事していましたね。


その方が言うには、私はかなり垢がでにくいとの事でした。
一応、何回か経験がありますから、アカスリ前には30~60分ぐらいお風呂に入ってしっかり温まってから受けるという事は知っていました。それで、ちゃんと段取りを踏んでいたのですがそれでも、かなり垢が出にくいとのことでした。

以前から垢がでにくいという事はほぼ毎回指摘されてはいました。
温まり方が足りないからだと思っていましたが、どうもそうではなく骨が硬いのが理由だとはじめて指摘されたわけです。そして、骨を柔らかくするには、ぬるめのお湯に10分以上使って、水風呂でしめて、またぬるめに入ってということを3回以上は繰り返せと教わりました。

私は、お風呂は熱めを好み、熱いサウナでがっつりと汗をかくことを好んでいました。
どうもそれは体の反応が鈍い、つまり骨が硬いので汗がでにくくなっていたという事を意味していたわけです。そして、汗がでにくいという事は、当然アカもでにくいわけです。


ただ、でにくいとはいっても自分でみたらびっくりするぐらいのアカはでてはいます。
だから、


「これでアカがでていないと言われたら本格的にアカがでるようになったらどうなるのだ。」


と思っていました。


私が腑に落ちたというか素直に聞く気になったのは骨が硬いという表現だったからでしょう。違う言い方だったら、きっと素直に受け取ることができなかったかもしれません。


それで、


「それじゃあ、骨を柔らかくしてやろうじゃないか!」


と思った訳です。


この日を境に、熱いお風呂に入るのを一切辞めました。
サウナも厳禁です。サウナは短時間に大量の汗がでて爽快感があるのは確かです。しかし、そういう汗のかきかたを繰り返していると、強い刺激でなければ汗がでにくくなるという傾向がでてくるのは当然の事です。先ほども述べましたが、こんな当たり前の事にどうしていままで気が付かなかったのだろうかと思います。

自宅での風呂はぬるめにゆっくりつかり、週1~2回大きめの銭湯へ行ってぬるいお風呂に何回もゆっくりとつかるようにしてみました。


「骨が柔らかくなるまでにどれぐらいかかるだろうか?」


と思っていたのですが、3週間後、家の近所の銭湯にいきました。
アカスリも2~3度利用した事があるところです。で、アカスリをやってくれる方は私の事をちゃんと覚えていてくれて、


「今日はしっかり温まったんだね。しっかりアカでてるよ。」


と言われました。
自分で確認してみると、いままで2~2.5倍ぐらいの量の真っ黒なアカがでていました。


アカがでるようになっているという事は、多少は骨が柔らかくなっているのでしょう。
その結果、仕事での疲れ方がずいぶん楽になり、疲れが抜けるのもずいぶん早くなったように感じています。


「骨が変わるのはこんなにも早いのか。」


半年から1年かけてじっくり取り組むつもりでしたから、拍子抜けしています。まぁ、まだまだ上積みはあると思いますけどね。


入浴法として半身浴とかぬるいお湯に長くつかるなんていうのがあります。
それは今回私が体験したように骨が柔らかくするためのコツなのでしょう。とにかく汗をかけばいいんだろうみたいにあまり掘りさげて考えていなかったのはかなり具合が悪かったといえます。ただ、この入浴方法でも骨は柔らかくなってこない人もいますので、それはどういう訳なのかと掘りさげて考えるといろいろわかってくることもありそうです。


ちなみに、私の骨が硬い事をしてくれたのは和歌山県御坊市にある銭湯です。


「体がちゃんとするから週に1回来なさい。」


と言われましたが、高速道路を駆使して2時間ほどかかる場所なので通うのは厳しい距離感です。煙樹ヶ浜キャンプ場なんかが近くにありますね。遊泳は禁止ですが非常に気持ちのいい浜ですので、アウトドアがお好きな方でしたらキャンプがてら立ち寄られてみてもいいかもしれません。

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心ではなくまず体

知識や経験が増えてくると自分と意見が異なる人間を見たときに、その人を、

「こいつは馬鹿だ!」

と思うようです。

昨年、ニュースを見ていて韓国という国と人の考えがどうしても理解できませんでした。
私はどうしてそのような発想がでてくるのか気になりましたので、生まれてはじめて政治がらみの情報を積極的にとっていました。それで気が付いた事なのですけど、政治ネタ界隈にいる人たちは、わりと平気で他人を馬鹿する発言をしています。

さて、ある日、退屈しのぎにYouTubeの動画をみようとしたら、自律神経の学者が元大阪府知事の橋下徹氏に、

「6秒でできる心の落ち着け方。」

なんていうものの説明をして、橋本徹氏が絶賛したみたいな内容の動画を見つけました。

で、それを見かけたときに、

「こいつは馬鹿だな。」

と思いました。

登場しているのは私も知っていた人で、自律神経の専門家として結構な著名人です。
しかし、本が結構売れちゃったせいか、おかしな事をやりだしました。商業主義に走ったというか、自律神経にまつわる商品を提供しはじめたのですが、どう考えても役に立つとは思えない物ばかりです。

それで、愕然としました。

「それがいいとか、正しいと信じている物や事があるときに人は他人を馬鹿にするようになるのか・・・。」

と気が付いたわけです。


整体にこられた時に、

「人間は心臓さえ動いていれば幸せになれますか?」

と、よく質問します。
たいていの方は違うと思うと答えられます。

このテーマをちょっと掘りさげるには、

「寝たきりの年寄りは日々幸せを感じて生きているだろうか?」

と考えてみればよいのです。
お年寄りによっては自分の意思など持っているとは思えないような方もおられます。昨年だったか、介護施設の職員が老人を虐待しているということで、その映像がニュースで流れているのをみました。その老人は、会話ができず、自分の力ではトレイができず、着替えもできず、食事もとることができない方でした。

私は、

「そのような存在に人として接するのは難しいのかもしれない。」

なんていう感想を持ちました。
介護職員が行った行為は、人として許容できる行為は明らかに逸脱しているとは思います。でも、自分の心に暗い部分、影みたいな物があった時に、

「介護する相手が自分の意思をまったく表明できない状態の時に、その人を尊重して接する事ができるだろうか?」

と自分に問いかけました。
最初のうちは大丈夫でしょうけど、何年も介護の仕事をつづけて慣れてきたときには、正直いって自信が持てませんでした。

この老人に、

「日々、幸せに生活できていますか?」

と聞いても、その問いを理解して答えるような力はすでに失われてしまっているとの事でした。
そんな人に対して、

「心臓はちゃんと動いていて生きていますから、後はあなたの心の問題です。」

と言ってしまうのは明らかに何かを間違えていると思われます。


「心のありようさえしっかりしていれば、人間は幸せに生きる事ができる。」

今の日本の社会は、そのように考えているじゃないでしょうか。
しかし、人間の体を日々、観察していると、幸せを感じる事ができる状態というのがちゃんとあると確信しています。

体がしんどくて、毎日が辛い生活をおくらなくてはいけない人に毎日のように何人も接していています。
医者に治らないと見放され、

「気にせず前向きに暮らせば幸せになれます。」

みたいな事を言われた人の気持ちはどういうものでしょうか。

一生この苦しみが続くのかという絶望を抱えて生きている人の気持ちがどういうものか私は十分に理解しているつもりです。

体が辛いときには、胸に大きな穴があいて、その中に暗闇がひろがって、光なんかなんも見えなくて、このまま死んでしまってこの世からいなくなりたいって、人間ってそういう風に思ってしまう生き物じゃないでしょうか。

そんな状態の人に、


「気にしなければ幸せになれる。」


とか言ったって気休めにもなりません。


だから、心ではなくまず体なのです。
体さえしっかりすれば、元気になりさえすればこんな事を考えなくて済むのです。そして、私はこの事をこれまでの勉強してきた事と経験を踏まえて絶対に、この考えは間違いないし達成できるものだと確信しています。

いつの間にやら私にもそんな信念みたいなものが芽生えていたようです。


すると、

「6秒でできる心の落ち着け方。」

みたいな気休めを言って、専門家でございますなんて名乗っている人をみると、殴りつけて、全身の骨をバラバラになるまで踏みつけて、ぐちゃぐちゃのねちょねちょにしてやりたいとか思ってしまみたいですね。まぁ、よほど面とむかって神経を逆なでするような事でもされなければ本当にやってしまう事はないだろうと思いますけど。
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才能というのは寿命を消費して発揮するもの

「モーツァルトが36歳という年齢で死んでしまったのは、その才能を発揮し尽くしたからだ。」.


才能というのは寿命を消費して発揮するものです。芸術の分野でこの傾向は顕著なんですが、なじみやすい例であげるとマンガなんてわかりやすいかもしれません。

Dr.スランプ、ドラゴンボールの作者鳥山明はドラゴンボール以後マンガを描いていません。
多少は描いたりはしていましたけどあられちゃんやドラゴンボールなどに比べるべくもないものでした。何を描いたのか知らない人の方がおおかもしれません。そうなる理由は、描けなくなったと考えるとわかりやすいでしょう。


少年ジャンプの編集長をやっていた方に鳥島和彦という方がいて、


「ドラゴンボールを長引かせたのは失敗だった。そうすれば鳥山明はもう1本ぐらいマンガを描けたかもしれない。」


なんていう発言をしています。
Dr.スランプに登場するマシリトはこの鳥島さんががモデルなので知っている人もいるかもしれません。彼からみるとドラゴンボールで燃え尽きてしまった鳥山明はもう描けなくなってしまっているというわけです。それを無理矢理にでも書かせればどうなるのか?たぶん死んでしまうんじゃないですかね。


ジャンプには長期休みをはさみながら連載を続けているハンター×ハンターというマンガがあります。
私も1回は読んでみました。長期休みがはじまる直前までの話で想像とか才能を出し尽くしてしまったので、描けなくなっているのでしょう。

作者は冨樫義博という方なのですが、この方はハンター×ハンターの前に幽☆遊☆白書というマンガを書いています。興味深いのは、幽☆遊☆白書はとても中途半端な終わり方をしています。本人は、


「このままだとだらだらと続けらさせられそうになったので無理矢理終わらせた。」


というような発言をしています。
才能を枯渇させてを終わらせるのではなく、余裕がある状態で次につなげればハンター×ハンターという、前作を超えるような人気マンガがまた描けるわけです。


続きを楽しみにしている読者からは、


 「富樫仕事しろ!」


なんてよく言われていますが、無理矢理書いたら、おそらく死んでしまうのでしょう。
直感的にそういう事がわかるから、じっくり休養をとっているわけです。人気マンガの作者なんて、それぐらい命を削ってマンガを書いているということでしょう。


ちなみに、長く続いている漫画で私がぱっと思いつくものにゴルゴ13があります。
調べたら50年ほど続いているようです。本当かどうかはしりませんが、この作者は全部アシスタントに描かせて、自分は目しか描かないなんていう話があります。才能を消費することなく漫画を描くしくみを構築しているから長く続けられるわけです。


さて、こんな事を改めてまとめてみたのはリャナンシーという妖精の存在を知ったからです。
リャナンシーはアイルランドに伝わる女性の姿をした妖精です。厳密にいうと、アイルランドに住んでいたケルト人は文字を持たない民族だったらしいので、ケルト人の話を聞いたローマ人なんかが伝えてきた話らしいですけどね。

リャナンシーは、男性に求愛する妖精だそうです。
その求愛を受けた男性は、自分の精気つまり寿命と引き換えにして芸術の才能を手に入れます。ケルトの才能ある芸術家はみな短命だったらしいですね。そんなところから、芸術家たちはリャナンシーに命を差し出す見返りとして才能を手に入れ、素晴らしい作品を作り出しのだと考えられていたようです。


才能の量というのは生まれもったもので、それをすべて出し尽くした時に人は生きる力を失ってしまうという考えはある方の受け売りでなんですけどね。それがこういう古い伝承に残っているというのは、やはり間違った考え方ではないのでしょう。


こういう事を踏まえて、生きるということについて考え直してみると生き方がのヒントがみつかるのではないでしょうか。シンプルに考えるなら、


「才能を消費しなければ長生きできる。」
「才能を消費すれば寿命が減る。」


ということです


長生きできれば人生に満足できるわけではないと私は思いますね。
何を為すことも、何を残すこともなく、ただ生きて死んでいく人生に満足できるかと、1回ぐらいはきちんと考えてみてもいいんじゃないでしょうか。芸術だけでなく、スポーツの分野でも応用ができますし、才能を発揮するという視点から広げれば、日々の生活だって、仕事のやり方だった大きく変わってくるはずです。
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