ブログ「日々整体」

学術的研究の罠: あなたの健康行動を再評価しよう

運動をすると健康になる。
このことは、多くの人が認識していることでしょう。数多くの学術的な研究も行われていて、毎朝のラジオ体操、ジョギングやウォーキングで健康度があがるというレポートはほとんどの人が見たことがあるでしょう。

ところが、このような知識を得てしまった人の中には、運動をしなければ健康になれないという考えに陥ってしまう人がいます。中には、汗をかく運動が嫌いだという人もいたりして、そういう人は、

「自分は、もう一生健康な生活など送ることなど出来ない。」

などと言い出す人も実際に存在します。
しかし、運動というものはそこまで厳格に考える必要はありません。そのためには、

「運動とは何ですか?」

こういう根本的な部分を考えなおすとよいでしょう。そうすることで、運動の捉え方、考え方を改めて、効率的そして効果的に生活を送ることができます。

先に述べたような勘違いに捕らわれてしまうのには理由があります。
毎朝のラジオ体操や30分のジョギングが、学術的に運動として研究されるからです。そのようになってしまう理由は、計測をすることを容易にするからです。学術的な研究は最終的にはレポートや論文という形にしなくてはいけませんから研究の対象となるものは必ず数量化、計量できるものになります。

このことは学問においての大きな欠点です。
数量化できない要素は検討からはずれてしまうのです。その結果、計測できない行動は運動ではないと勘違いを起こしてしまう原因になります。だから、学術的な研究は、そのような欠点を持っているということを知っておくとよいでしょう。

具体的な例をあげてみましょう。
ある音楽家の方が、60歳を迎えて一生に一度ぐらいは医者というものに行ってみようと思ったそうです。すると、その時の医師は、

「あなたは運動不足ですので、運動をするようにしてください。」

と助言をしたのです。
そして、スポーツクラブへ通うようにしたら、腰が痛くなったそうです。それで、私のところへどうしたらよいだろうかと相談に来られました。その方には、

「楽器の演奏自体が運動になっているのです。だから、今までずっと元気に活動してこれたんです。そんな筋トレみたいな余計なことをしなくていいですよ。」

とアドバイスをしました。
この方は演奏さえしていればずっと健康でいられたのです。

このような勘違いを防ぐために、少し運動について掘り下げて考えてみるとよいでしょう。ただ、、こうした概念は少し難しいかもしれませんので、言葉を換えてみることを提案します。つまり、『運動』を『発散』というように表現を変えてみるのです。整体では、運動にあてはまる行動を発散と表現します。つまりエネルギーを消費する活動をすべて発散だと捉えるのです。つまり、ありとあらゆる行動のすべて発散となるのです。具体的には、汗をかくようなウォーキングやジョギングからはじまって、大きな声を出す、感動する映画を見てあるいは小説を読んで泣く、旅行する、ドライブする、おいしいものを食べる、料理を作るこれらすべてが発散です。将棋においてじっと座って次の一手を考えるのも発散ですし、難しい数学の問題を解くのも当てはまります。

ポイントはどういうことかというと、体が求めている行動をすることです。
ですから他人に言えないようなことすらも問題ありません。会社の憎たらしい上司や同僚の悪口を日記に書くことだって発散です。最近だったら、SNSやブログを使って発散している人は少なくありません。重要なのは、それをすることで体の中に溜まっているエネルギーを発散できるかどうかなのです。

多くの人にとっては発散できているかどうかというのはわかりにくいかもしれません。
もし、世間で言われているストレス解消みたいな行動を実際にやってみて、すっきりしていないのであればそれは発散できていないということだと考えてよいでしょう。

具体的にどうすればいいかわからない人には、大きめの書店へ行くことをおすすめしています。
ぐるぐると歩き回って、目に止まった書籍や雑誌を買ってみましょう。無意識に、目が止まるものはその内容が発散に最も向いている可能性が高いからです。あまり深く考えないで選択することで、自身の無意識や興味がどういうものに向いているのかを発見しやすくなります。

そして、実際にそこに書かれていることを実行してみましょう。
もしかしたら、最初はうまくいかないかもしれませんが、このような行動を繰り返していくうちになんとなく自分の嗜好や傾向がわかってくるはずです。そうやって最も自分が効率的に発散できることを生活に取り入れていけばよいのです。
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息子の未来: 技術の時代における進学と教育の考察

私の最近の最大の関心は息子の進学についてです。
時間ができると、ずっとそのことばかり考えてしまっています。理想は、息子自身が自主的に自身の将来について考えるのがよいとは思うのです。そうすれば、何に取り組んでもモチベーションの持ち方が全く異なる物になるでしょう。しかし、社会経験のない学生に将来について自身で考えろというのはやはり無理があるようです。時間をかけて話合いをしましたが、自身がこれから先、どのような人生を送りたいのかということについて形にできるような考えを現時点で具体的にさせるのは不可能だと思えました。

これは以前にも書きましたが、世界が大きく変わるかもしれないタイミングだと考えています。
例えば、AIについての書籍を読んでいると、2014年の段階で今ある職業の47%が10~15年後には消失しているかもしれないという記述がありました。鵜呑みにする訳ではありませんが、そうならないという確信もありません。つまり、今の息子が大人になって成りたいものについて具体的な望みがあっても、当人が成人する頃には存在していない可能性も十分に考えられます。

すると、

「高度な柔軟性を保ちつつ臨機応変に対応する。」

という判断がもっとも適切なのかもしれません。結局、ぶっちゃけてしまうと何も決めずにとりあえず勉強だけしておこうかという結論にならざるをえません。

先日、進学を志望する高校へ個別相談にいってきました。
するとやはり、教師からは

「明確な目的意識をもって勉強に取り組まなければいけない。」

というような性質のことを言われました。
海外のカリキュラムを取り込んでいる学校ですので、日本の学校よりこういった考えはより強いのであろうと思われます。しかし、

「高度な柔軟性を保ちつつ臨機応変に対応します。」

なんていう返答をする訳にもいかず、お茶を濁したボケた受け答えになってしまいました。それで、消化不良の学校訪問になってしまったかもしれないと思っていました。

さて、話がちょっとそれます。

最近の学問の流行はクリティカルシンキングというそうです。
クリティカルという言葉は日本語にすると『批判的に』という意味です。このクリティカルシンキングという言葉についての私の感想ですが、

「アカデミー分野で実利のない、くだらない分野を作って学費を巻き上げようとする魂胆が見え透いている。」

と考えていたのです。
でも、もしかしたらちょっと違うかもと思った瞬間がつい先日ありました。

新聞の情報では、ウクライナから一方通行で発信される物ばかりで信頼に足る物がほとんどないという話をしていました。例えば、ゼレンスキーがロシアの支配地域への反抗の準備を整えている報道に対して、その反攻作戦がどういうものか、その作戦にどのように戦略的なものかを、地図をみて分析していくと明らかに違和感を感じる箇所がいくつもでてくるのですが、そういうことを説明してゆくわけです。

そういう事を繰り返していると、ある日、

「これってこういうことじゃないのか?」

ということを言い出したのです。
それは私から見ても鋭い指摘だと思えました。そしてその時、

「これがクリティカルシンキングか。」

と、気がついたのです。
教育者がこのような思考のできる人間を育成することを目標としているのはとてもいいことかもしれません。クリティカルシンキングとは、ジグソーパズルの一部分のみのパーツから、完成される絵を想像するようなものと言えるでしょう。言い換えると、すでにあるものをベースに、不足を補って目標を達成することを目指すのです。普段から、権威に対して喧嘩をふっかけるような論調でばかり発信をしているせいで、私は権威を疎かにしてしまっていたのかもしれません。

しかし、このように思考が進んでも

「高度な柔軟性を保ちつつ臨機応変に対応します。」

というのが正解のような気がします。
世の中では決めることが重要と考えられていますが、今は、決めることのリスクの方が高いということなのかもしれません。息子には、明日にでも、

「とりあえず世界平和でも目指しとくか。」

と話をしてみようと思います。
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医学の進歩と患者の置き去り--エビデンスと経験の狭間で

最近、整体に訪れた人が、

「最近の若い医師は、エビデンスがどうのこうのという話しかしない。」

と話していました。
私は医師と直接話をする機会などほぼありません。ですから新鮮な情報のように感じたのですが、その一方で、

「やっぱりな。」

という思いも沸き上がります。
医師がエビデンスしか語らないことについて不満を述べた人は、おそらく専門家としての立場から、自分の体の状態について意見を聞きたかったのではないでしょうか。それにも関わらず、研究ではこうで、こういう論文が発表されていると、エビデンスの話を延々と聞かされるのです。自分のことをきちんと診断してくれていないと感じるかもしれません。

整体師として意見を言わせて頂くと、医学と医療はとてもおかしな方向に突っ走ってしまっている。
その結果、患者さえ置いてけぼりにしてしまっていると感じることがしばしばあります。実際に聞いた話を1つ紹介しましょう。ある医師の集会で、患者の薬の消費量を増加させる方法についての講演した医師が拍手喝采を受けたそうです。具体的には、特定の病気は遺伝による影響があるから、その患者の家族、親族すべてに予防のための投薬をするべしという内容でした。そうすれば薬の消費量が現状の数倍以上になるという訳です。

論としはわからなくはありません。
しかし、特定の病気になりやすい遺伝子要素をもつ可能性が高いから予防のために薬を飲みなさいというのは無茶すぎるとは思わないでしょうか。実は、その講演で語られた病気はガンだったのですが、現在の日本人のどの程度がガンがなるかを国立がん予防センターが平成19年に発表したデータがあります。それによると、男性の二人に一人、女性の三人に一人がガンを発症するというデータがあります。これはつまり、そのガン患者の親族すべてと考えると、おそらく日本人全員にガン予防の薬を飲ませようという内容の講演だったと考えてよいでしょう。また、この話を直接聞いてきたのはとある整体師ですので、好意をもってその話を聞けるような人間ではなかったということも念のために付け加えておきます。

現在のところ、そのような薬物の開発は現実になったという話は聞いていません。
しかし、現状の健康保険の負担がどのような状況になっているかを踏まえて考えてみてください。おそらくそのような薬が開発されれば日本という国は、健康を維持させるために国家財政を破綻に導く可能性も十分にあるでしょう。補足で付け加えると、最近、ある病気に効果があるとされて開発された先進医療にかかる費用は1000万円を越えているのですが、そのような情報も知っていると理解が深まることでしょう。


エビデンスの積み重ねで医療は確かに進歩しているのかもしれません。
その進化がさらに進んで高度な医療が広く受けられる社会になる可能性もあるかもしれません。しかし、紹介した講演において拍手喝采の話を聞くと、医師や医学者たちは我々とは違う方向を向いているような気がしてなりません。もしかしたら、すべてのガンが予防できるかもしれないとうことに拍手喝采する人もいるかもしれませんが、私には今日の医師たちがそのような志をもっているようには思えないのです。

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断と生命:整体師から見た斬首の謎

江戸時代には、打ち首という処刑がありました。ほぼ全ての人が知っているでしょうが、あえて説明を加えておくと、人の首を切り落とす処刑方法です。

実は、この処刑を行うには達人といっていいほどの技量が必要です。

「刀を振り回せば、首なんて簡単に切れるだろう。」

と思う人もいるかもしれません。
しかし、頸椎3番と4番の間に正確に刃を当てないとうまく刀が通らないそうです。骨に当たると刃がはじかれますし、おそらく刃こぼれもしてしまうことでしょう。技量のない人間が斬首をしようとしても、うまく首を切り落とせず、相手を苦しめ、刀もダメにしてしまうのです。また、達人と呼ばれるような人でも失敗することがあったそうで、切り落とす動作は3回までと決められていたそうです。

打ち首をするのは特殊な地位の人間だったそうです。
繰り返しますが、刀の扱いに相当長けていなければいけません。ですから、処刑人としての役割を請け負うためだけに武芸の技を高める一族があったそうです。どれぐらいの人間が斬首を行っていたのかはわかりませんが、それほど多いとも思えませんからほんの一握りの人間が日本中の斬首を請け負っていたのかもしれません。ちなみに、私は歴史の勉強をしていて、そういう人がいたとういことを知りました。ちなみに、とんでもない高給取りだったそうですが、その収入の大半を首を落とした人の供養のために使っていたそうです。

そんなことを知ったときに、ふと、

「首が切断されるのはどのような感覚なのだろうか?」

ということを疑問に思いました。

首が落ちてもほんのちょっとの間は意識があって、その時に目を開いていたら目が見えていたりするのでしょうか。そして、その間には痛みや苦しみを感じるものなのでしょうか。

それとも首が落ちた瞬間に意識がなくなるのでしょうか。
すると、刀が頸椎に到達して、首の神経を切断した瞬間に意識や思考が断ち切られてしまうということになるのでしょうか。そう考えると刀が首にから頸椎に至るまでのほんの一瞬は痛みを感じるのかもしれません。

そこまで考えて、自分が整体師だったことを思い出します。
整体という技術を通じての理解で答えを考えてみます。すると、正解は後者だとはっきりとと言えます。どういうことかというと、頸椎を通る神経が切断された瞬間に人間は生命体ではなくなるからです。生命の中にはプラナリアのような体を切断しても生命であることを保っていられる生物も存在していますが、多細胞生物である人間では事情が異なります。

人間という生き物は複雑すぎるのです。
その複雑さを保っているためには幾つかの要素があって、その中の一つが頸椎の神経が健全に繋がった状態であるということです。手や足なら切断されても生存は可能ですが、頸椎が切断されると生存は不可能です。

昔の人もそういう事がわかっていたから、首を切断するという処刑方法を採用したのではないでしょうか。
斬首というのは、日本だけでなく、西洋でもギロチンによる処刑というのが実際に存在していました。科学的な知識ではなく、経験や直感から人の命を確実に奪う方法を理解していたのでしょう。
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生きるとは何か:認知症の拡大と寿命の延長についての考察

認知症に対して整体師として意見を述べさせていただくと、認知症に対する治療や手当は根本的に間違っていると思います。2025年には5人に1人が認知症を発症する予測です。そして2060年には3人に1人が認知症を発症する見込みです。


認知症の人の推定人数・有病率の将来予測


このグラフは、生命保険文化センターというところが発表している認知症患者数と将来の予測をグラフにしたものです。棒グラフが認知症患者の人数で、折れ線グラフが認知症を発症する割合です。


一方で、こちらは厚労省が発表している平均余命と推移です。



この2つのグラフからのみで判断するのは早計です。

しかし、そんな悠長なことをいっている場合ではないということははっきりとわかります。女性は90歳、男性は84歳まで平均寿命が伸びる見込みです。2060年で80~90歳ということは現時点で45~55歳の人たちがそれにあたるのですが、実は私がちょうどこの年代です。


悪い方の予測を元に考えると、この世代が長生きした場合、30%の確率で認知症を発症するということです。そして、もし結婚していたら夫婦両方ともが認知症を発症していない確率は約44%です。数字がまろやかな予測を元に考えるにしてもその差は8%程度です。その差は、100人中33人が認知症になるか、25人が認知症になるかどうかの違いしかありませんから重要ではないといえるでしょう。


認知症を発症しないようにするノウハウというのは現在のところありません。また、カリフォルニア大学が発表している2050年までに達成される医学的な成果にも認知症の治療の成果はあがっていません。



自分が認知症になった時、


「家族、子供、親族が果たして自分を介護をする余力をもっているのか?」


と、考えてみてください。

ほとんどの人は、そんな余力はないだろうと思うのではないでしょうか。もし、そうであればこれはもう認知症と寿命についての認識を改めるべきではないでしょうか?


私は認知症について話をする時に、


「生きているとはどういうことかという定義を考え直す必要がある」


といつも話をしています。


私は生きているということはどういうことかというと、


「自分で考えて行動して、そして幸せを感じられる状態が人間が生きている状態である。」


と考えています。

そして、


「長生きすることに至上の価値を見出さない方がいい。死ぬまで精一杯生きることがもっとも幸せなことで、100歳まで生きたからといって100年分の幸せを享受できるとは限らない。」


と思うのです。

ところが、医療においては「心臓さえ動いていれば生きている。」という認識が根強く残っているように思います。そのため、私自身にも覚えがありますが、


「とりあえず心臓が止まるのを防いだから、あとはあなたの心の問題です。」


と言われてしまうことがよくあるように思います。

私の近所にも入院して帰ってきたら、認知症をかなり悪化させて完全な介護が必要な状態に陥っている人がいます。奥さんが世話をなさっていますが、ベッドの下などにへたり込んでしまったりすると、動かすことができず助けてほしいと頼まれることがしばしばあります。


昨年の出生数は80万人を下回っていました。

その世代が働き盛りの30代になったころの話になります。そのうちのどの程度の人がこのような老人介護の仕事に就いているのかデータをチェックするのは恐ろしいとはおもいませんか?ネットではすでに介護職の人手不足は深刻だという話をよく耳にするようになってきていますね。


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