野口晴哉の全正論について
2021年11月06日
全生 ── 生を全うするの道を示すものである。生命力の強い現れである。即ち寒暑に冒さるゝことなく、粗衣粗食を厭うことなく、労して疲るゝことなき積極的な意味を有してゐる。寒暑を避け、飲食に恐れを懐きて、その質を選びその量を量るが如き、着るに暖衣を以てし、労するを憂ひて生を衛が如き消極的の意味を含まぬ。所謂衛生なるものとは、その性質を異にする。
全生 ── 生を全うするの道は、健体を創造し彊心を保持して、之を活用することである。
然るに現今行われつゝあるところの体育、衛生、医術などは、果たしてこの意義に副えるや否や。思うに真の目的に逆行して、却って心身を虚弱ならしむる現象を呈してゐるのではないか。之何故なるか、その誤り何処にありや。
本誌『全生』は先ずその欠点、欠陥を指摘して一般の誤りを正し、而して諸君の前に全生の大道を開示せんとする。
所謂(いわゆる)
彊心(きょうしん) 強い心の意
これは野口晴哉師が全生論として書き始めた文の書き出しです。
野口晴哉著作全集 1巻の最初に掲載されているものですが、書いたのは昭和5-6年とあります。それから100年ほど経過している訳ですが、世の中の医という物に対しての考え方はこの頃から全く変わっていないという事がわかります。
当時、全生という雑誌を発行してたようです。
おそらく今でも整体協会が発行しているのではないでしょうか。整体協会の今の考えは
「自分の事は自分で面倒をみなさい。」
という事のようだと感じています。
しかし、今、目の間にいる人が、
「辛くて体が起こせません。」
といっている時に、
「自分の事は自分で面倒をみなさい。」
と突き放す事は私にはできませんでした。
もしかしたら違うのかもしれません。実は、勉強をさせてもらおうと通った事もありましたが歓迎されるという雰囲気はなくで邪険に扱われたという印象しか残っていません。たぶん、参加している人たちがすべて自分の事しか考えなくなってしまっているのでしょう。全生という事を最大の目的とすると、それが正しいあり方だとは思うのですが、他人に気を配る事を辞めおろそかにしてしまうのは違うと感じました。
それで、私は他で整体を学びました。
整体を学ばせてもらった所では、野口晴哉師の著述についてはあまり語られる事はありませんでした。そこで野口晴哉師は神様のように扱われていたとは思います。しかし、野口師の発言や考えについてはあまり掘り下げて語られるような事はありませんでした。これまた不思議なもので、
「今、目の前で困っている人を助けよう。」
と思う整体の技は、野口師の言葉からかけ離れたものになってしまうようです。
救うことが第一の目的になってしまうと、整体師は医術の発想に近寄っていくことになるようです。
生を全うするの道は、健体を創造し彊心を保持して、之を活用することである。
『全生、生を全うするとは、健康な体と精神で、人生を創造することである。』
現代風に表現するならこのようになるでしょうか。
そして、野口師は、
医術などは、果たしてこの意義に副えるや否や。思うに真の目的に逆行して、却って心身を虚弱ならしむる現象を呈してゐるのではないか
と、医術を批判していいます。
これは私が普段からよく口にする、
『医学、医療は人を虚弱にしてしまって、幸せから遠ざけている。』
という事と同じ意味だと考えるとわかりすいでしょう。
私は基本に帰ろうと思います。
その基本とは、
『全生』
です。
全生とは、幸せな人生の事だと私は思います。
長生きしたら幸せなのか、早く死んだら不幸なのか、病気になったら不幸なのか、健康診断で異常がみつからなければ幸せなのか?こんな事柄は、全生、我々の人生の幸福にはまったく関係がない事だとは思いませんか?
アレを食べてはダメ、これをしちゃいけない、こういう運動がいい、こういうことを積み重ねていても生を全うして幸せになる事はできません。
では、どうすればいいのか?
健体を創造し彊心を保持して、之を活用することである
という事を目標にしなくてはいけません。
健全な体と精神を創造してそれを活用したときに人は幸せになれるのだと思います。
今後、このような形で野口晴哉師が残したものに注釈をいれてゆきます。
そうすることで整体についてさらに理解を深めてゆくことができると思います。実は、かなり前からこの考えはあったのですが、なかなか手をつけられずにいました。どうも私は、自分の知識や技術に対して自信がなかった、あるいは足りなかったようです。でも、今ならそれなりの内容にできるのではないかと考え始めることができるようになったと感じています。
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