「ダーウィンの進化論では、生物の進化は説明できない。」
15年ぐらい前に読んだ本には既にそんな事が書いてありました。
ダーウィンの進化論では、生物の進化は偶然の起こる変化の中で環境に優位な個体が生き残って進化が起こるなんて説明されています。簡単な言葉でいえば、キリンの背が高くなったのはたまたま背がたかく生まれた個体が生き残る確率が高かった結果、キリンの背は高くなったという事です。
このような進化は、性が分かれて交配によって遺伝子を交換することによって起こります。
人間でいうなら男女が結婚して子供をつくることで、その子供の遺伝子に変化が起こるわけです。生まれてきた子供は両親の遺伝子、特徴を引き継いで新しい可能性を持ちます。そうやって生まれてきた可能性の中で優位な個体だけが生き残って遺伝子を残していくというのが、ダーウィンの進化論です。
ただ、進化論では新しく生まれてくる個体が優秀かどうか、環境に適応しているかどうかは運任せでしかありません。そんな偶然の繰り返しでゆっくり少しづつ進化してきたというのがダーウィンの考えです。私は学校で生物の進化についてはこのように教わりましたが、生物の進化についてこのダーウィンの進化論に異を唱えた人がいます。
遺伝子の変化によって起こる可能性というのは無限に存在します。
無限にあるもののなから偶然に優秀な個体が生まれてその個体の持つ特徴が主流になっていくというのは無理があるというわけです。砕けた言い方をしてみるなら、
「宝くじを的中させる人だけが生き残って子孫をのこしていけば、その子孫たちは全員宝くじを的中させるような個体になる。」
というような事です。
言われてみれば確かに変です。
例えば、ほかの多くの生物ももっていて、私たちにもある目という器官は偶然に生まれるでしょうか。最初に目として確認できる器官は、光を感じる事ができるものだったそうです。かなりうろ覚えですが、アメリカ大陸だったかどっかに、光を感じる事ができるアメーバみたいな生物が見つかっていて、どうもそれが目というものを最初にもった生物の子孫らしいなんていう話です。
明るさを感じる機能が偶然に偶然を重ねていけば色や形を明確に識別できるようなものに変化するか?町並み、人の暮らしと営み、自然の風景を見て美しいと感じる事ができるようなものがたまたま偶然生まれたものか?
整体で考えるなら目というのは脳の一部だと野口晴哉氏が説明しています。
ということは、明るさを感じる事のできる細胞が、生物として脳を持つという進化をしていく必要があります。遺伝子の数と、そこから生まれる可能性を計算してみた場合、目という器官が生まれてくる可能性はどういう確率になるのか?おそらく世界中のスーパーコンピュータを何台つないでも計算しきれないような数字になるはずです。つまり、生物の進化は偶然に起こるものではないという事です。そして、このことを裏付ける研究もすでになされていたりします。
私が知っているのはツバメの研究です。
あるツバメを調査したところ、その種には小型化が起こっていたそうです。そして、その変化はわずか2~3世代でした。
「どうもダーウィンのいうゆっくり少しづつというのは誤りで生物の進化は私たちが考えていた以上に急速に起こるものらしい。」
という事です。
考えてみれば、日本人だってその体型や見栄えは戦後あたりの人たちと、今の私たちではずいぶん変化しています。ちょっと前まで日本人は胴長で短足で小柄だったのが、足の長い長身の日本人は珍しくない程度にはみかけます。
実は、胴長になるのは腸が長いからです。
穀物主体の生活をしていると、腸が長くなります。穀物は消化吸収に時間をかける必要があるから腸が長くなるのです。一方、肉食主体だと腸が短くなります、肉が腸内に長く留まっていると腐敗して腸の働きに悪影響を与えるからです。
これはどういう事かというと、食生活の変化に適応、あるいは進化したということでしょう。その変化はやはりわずか2~3世代です。
また、こういう事を踏まえて考えると、環境保護という考えも非常にくだらないものだという事がわかってきます。どんな風に環境が変化しても私たちの子供や孫の世代はちゃんと環境に適応して進化していくのです。
ついでにいうと、二酸化炭素が増えると動植物にとっては都合が良い事の方が多いじゃないでしょうか。植物は二酸化炭素が多いほうが繁栄しやすいですし、植物が増えれば食物連鎖の底辺に厚みがでて動物たちにとっても生活しやすい環境になるはずです。二酸化炭素が増えて困るのは、今の時代を生きる我々だけで、そんな我々の都合を子や孫、子孫たちに残したって迷惑なだけだと私は思いますね。
だから、環境についてどういうこうい人がいたら、
「ダーウィンの進化論がもう石器時代の考えだという事はご存じですか?」
と質問してみるといいでしょう。
頭の中が古い人には未来の事を考えるのはちょっと難しいはずですから、そんな人の話は半分に聞いておくことです。
さて、話がまとまりを欠いてきましたのでポイントをまとめましょう。
ツバメは2~3世代で小型化しました。
その変化を観察した学者は、環境が変化したので小型化した方が都合がよくなったのだろうと考察していました。日本人は食生活が変化しましたが、その食生活の変化に対応するために内蔵と体型に変化がでてきました。
これは、
「生物には種全体としての明確な意思がある。」
という事を意味しているといえます。
『目という器官を持つ』という種の意思が働き、その上で、どのような進化をすれば目という物を見る能力を得る事ができるか、可能性の模索が行われた結果、今の私たちは目を持っているのです。そして、私たちの体は目だけではありません。私たちは、心臓、肺、肝臓といった五臓、血管、神経、筋肉、皮膚、血液、そして脳、様々な働きをもつものが集合して生きているわけですが、
「こんなんでましたけどー。」
みたいな偶然の産物だと思うでしょうか?遺伝子の可能性は無限に広がっている事を思えば、私たち人間をはじめとする様々な生物が偶然に生まれるはずがないのです。
「ダーウィンの進化論が生物誕生、そして世界生成の秘密だ!」
と考える人にはちょっとぶっ飛んだ考えにきこえるかもしれません。
ただ、15年ぐらい前に読んだ本にはそういうことが書いてありました。そして生物学だと、こういう考えが主流になっているなんて話も聞いたこともあります。
こういう具合に学問が進んでいるのにそれに私達がついていけていないなんて話はいくらでもありますね。
歴史だと4大文明なんて言葉を社会で習いますが、現在では同じ時期に10ぐらいの文明があったことがわかっているそうです。恐竜は爬虫類で肌がつるつるだと教わりましたが、羽毛をもっていて鳥類は恐竜から進化したのだというのはすでに常識になっていたりしますね。
種としての意識というのがどういうものかはまだまだ議論して研究をする必要があるとは思います。ただ、学校で教わったことでは説明できないことがいくつも確認されているという事ぐらいは知っておいてもいいのじゃないでしょうかね。
整体というのはこの種としての意識に思に働きかけた時にもっとも効果的になります。だから、生物の進化に種としての意識というものが存在しているという考えは私には割と受け入れやすい考えだったりはします。
具体的にやろうと思うと、まっさきに頭に浮かんだのはインディアンという言葉は差別用語になったんでしたっけ?北米の先住民族たちがやっていたサンダンスです。酒飲んで3日ぐらい踊りつづければ、そういう種としての意思みたいなものにアクセスできるような気はします。太古において、医療や治療が神事やまじないだったのはそういう事なのだろうと思えます。
ただ、このあたりの事を掘り下げるのは、
「この考えにはかなりときめきを感じるけど、私にはちょっと無理そうなのでごめんなさい。」
という感じがするので、もうちょっと優秀になってくるであろう2~3世代後の人たちに任せたいと思います。
最も大切な事は、
「私たちは、今の時代、社会に、環境にちゃんと適応している。」
という事を理解することです。
ストレス社会であるならそのストレスに耐えられるように進化していますし、環境が変化しているのであればその変化に応じて進化しています。私たちをはじめとすると地球に生きている生き物はそうやって進化することで38億年も生きてきたのです。霊長類に限定して考えても700万年も生きてきたのですからね。昨日、今日、ちょっと変化が起こったぐらいで病気になって生活もままなりませんなんて事になるはずがありません。
しょーもないことをいう人がいたら、
「ダーウィンの進化論についてどう考えていますか?」
と聞いてみればいいでしょう。
そして、
「生物を、人間を、そして私を舐めるなっ!」
と、言ってやればいいのです。
「私たちは強い。」
これは間違いないの事実です。
私たち人間がどのような進化、歴史を経て今を生きているのか?そのことを振り返って考えてみれば疑いようなどありません。生き物の、人間の、そして自分の強さはもっと自信をもって大丈夫です。