べきを使いはじめる
2020年07月19日
禁句にしている言葉がいくつかあります。
その中の一つに、
「~するべき。」
「~であるべき。」
という具合に、『べき』というのがあるのですけど使い始めるようになってきました。
この事に気が付く人がいるとは思えませんが、最近、書いている文のところどころにでてきています。ただ、もしかしたら文の印象がちょっと変化しているかもしれません。
今までであれば頭に浮かんで来る事はありませんでした。
万一、浮かんできて打ち込んでも必ず書き直していました。それが、自然と『べき』を使うようになって、その事に違和感を感じることができず、むしろ適切な言葉を選んでいる感覚があります。
禁句にしたのは確か20年ぐらい前の事です。
自由な発想ができる人間でありたいと考えて、使用するのを禁止にしたように記憶しています。『べき』を使っていると、思考の幅が狭くなるという事に気が付いたからです。
それで、今、
「自由よりもっと大切な事がでてきたから使うようになったのか?」
というと、違うと思います。
自由でいたいから『べき』という言葉を使うようになりました。
自由でいるために禁止にして、自由でいるために解禁する。
一貫性がないといわれるかもしれません。しかし、私自身が変化したというより、周囲とか社会とか、そういうのが変化したので使う言葉が変化したのではないかと、そんな風に感じています。
それで、こういうのって言葉だけの問題ではないなと気が付きます。
食べものなんていうのがいい例でしょうか。必要になれば欲しくなりおいしいと感じるし、不要になればたべたくなくなりますし、食べてもおいしいとは感じなくなります。いかにおいしいうな丼であっても、2杯も食えば気分が悪くなるし、疲れて胃の働きが悪い時には重たすぎて食べたいと思いませんからね。
体の状態によって食べる物が変化するように、使う言葉は周囲の環境によって変化するのでしょう。
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