体運動の構造をもう一度読みかえそう
2018年01月17日
毎年、年の最初に思うことは基本に戻ろうということです。
毎年思うけど、すぐその基本から離れてしまうのですから悩ましいものです。
「初心わするるべからず。」
なんていう言葉がありますが、こんなものは努力目標としか私には思えませんね。はじめて経験も知識もなにもない頃の状態に戻ることなど不可能です。
ドラゴン桜というマンガで知識や経験をつむということは、スポンジが水を吸収するようなものだと表現していました。まさしくその通りと思えますね。初心のころのスポンジは柔らかく乾いていますからいくらでも水を吸収できるわけです。
スポンジは、水分を吸い込んでいくといつか飽和状態になって吸収が悪くなります。
そんな状態になっているときに、初心に戻るということは水分を絞り込んでしまうということだといえることでしょう。
で、こんな事を考えているとキャッツアイというマンガを思い出しました。
キャッツアイとういのは美術品の泥棒とそれをおいかける刑事の話です。ただ、その刑事の恋人の瞳という女性がその泥棒でした。もちろん、刑事さんはそのことをしりませんけどね。瞳はある日、恋人の刑事に、
「もし、私がキャッツアイだったらどうする?」
と質問します。
すると、刑事はこんな風に答えました。
「すべてを忘れて最初の出会いからまたやり直そう。」
その後、自分がキャッツアイであったことを告白して別れてしまうのですが、瞳は別れた後、ある病気によって記憶を失ってしまうのでした。2人にとってお互いの気持ちを確認してみたという程度の会話が本当になってしまったわけです。
「初心をわするるべからず。」
なんていうのを、恋愛に置き換えてみたらこれぐらいの事が起こらないと、出会った頃の気持ちになんて戻れないだろうと私は思うわけです。
整体の勉強をはじめたころの気持ちに戻る事はもう不可能です。積んできた経験と知識を全部失うというのもかなり具合の悪い話ですしね。
そうであれば、考えなければいけないのは、
「スポンジの容量を大きくしてゆく。」
ということです。
まぁ、そんなわけで今年はもう一度野口晴哉氏の体運動の構造という本を読み返して見ることにしました。1年間こればかりずっと読んでいたという年もあったんですが、今振り返ると意味も理解せずにひたすら言葉の羅列を眺めていただけという気がします。今、もう一度読むことでスポンジの弾力が増してこないかなぁと考えたわけです。
ただ、今年は読むだけでなく注を付けながら読んでみようと思ったわけです。体運動の構造というタグを付けながら、1年間書き続ければ何か得られるものがあるかもしれませんからね。
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