ブログ「日々整体」

麻痺的健康

 茲(ここ)で私は治病と麻痺の区別を明らかならしむる必要を感じる。諸君が病気の本体だと思つてゐた病症なるものは、病気の本体ではなく病毒その他の刺戟によりて生ぜし抵抗作用であつたのである、と知るべきである。病菌に対抗すべく発熱したのである。熱そのものを病の本体なりと思考せるは誤りである、但し熱にも障辟作用強く抵抗作用弱きに発する事もあるが、弱きながらも抵抗するが為である。之を冷やしたらどうなる、抵抗作用益々鈍くなるは自明の理である。傷口の膿とても抵抗作用によるもの、膿そのものを病の本質なりと解するは誤解である。と、考へを進めていくと、吾々は今まで如何に抵抗作用を妨げて来たか、蓋(けだし)し思ひ半ばに過ぐるものがあらう。而(しか)もこの抵抗作用なるものは、使ひ働かし訓練すれば強く、廃動すれば萎縮するのである。然るに、薬物その他の力によりて、病菌の除去を図らうとのみ考へ行ひ、毫(すこし)も抵抗作用を顧みなかつた。之では抵抗作用が鈍り麻痺して行くのは致し方ない。 

(現代語訳) 
ここで私は病気が治るのと麻痺の区別をはっきりとさせる必要を感じます。 
多くの人が病気の原因だと考えている症状は、それが病気なのではなく病気の原因やその他の刺激に対して起こっている抵抗作用であるという事を理解しなくてはいけません。病気や細菌に抵抗するために発熱しているのです。 

発熱そのものを病の大元であると考えるのは誤りです。 
但し、障壁作用が強く、抵抗作用が弱いために発熱する事がありますが、弱いながらも抵抗しているのです。これを冷やしてしまうと、抵抗作用が弱まってしまうのです。傷口の膿も抵抗作用によって生まれるもので、膿そのものが病気であるという訳ではありません。 

このように考えをすすめてゆくと、私たちは今までどれほど抵抗作用の邪魔をしてきたのか?大いに後悔する事でしょう。しかも、この抵抗作用は、きちんと働いていればどんどん強靱に働くようになりますが、活用しないでいれば機能が低下します。つまり、薬の力を借りて、病や細菌の除去をして治したと考え、抵抗作用について一切考えないでいると、抵抗作用の働きが弱まって体が麻痺していくのは当然のことです。 

(障辟作用とは?) 
障辟という言葉、体の健全な働きを妨害する働き。障辟の辟に壁という字をあてるのであれば保護するためのバリアというような意味で使われる事が多いと思いますがここでは逆を意味しています。例えば、この記述にあるとおり、障辟作用が抵抗作用より強い場合は微熱が長く続くことが多い事でしょう。 


(注)
病気や怪我が治ったというのはどのような状態を意味するのか? 
そのことをよく考えなくてはいけません。私は、 

「病気や怪我の前より体が丈夫で強くなった。」 

という状態になってはじめて治ったと表現してよいと考えています。 
だから、人間は長生きすればするほど丈夫で健康になっていくのです。こういうと多くの人は違和感を感じるかもしれませんから、その答えを提示しておきます。 

『寿命と健康は分けて考える必要がある。』 

もちろん健康な人の方が長生きする傾向はありますが、健康であるから長生きするというのは誤った考えなのです。健康で生を全うした人と、体が麻痺した変態的健康者ではどちらが長く生きているかというと、実は変態的健康者の方が長く生きています。 

ただ、私は生を全うする全生という生き方以外の人生には価値がないと考えています。 
だから、寝たきりで食事やシモの世話を他人にやってもらっている状態を生きているとは思いません。寿命がつきているのに心臓が動いているだけの状態に価値があるとは考えていません。だから、寿命がつきたら、 

「あとは任せた。」 
「これから先の事は生きている奴らで考えろ。」 

といってとっとと死にたいと考えています。 
死についてちゃんと考えた事のない人には伝わらないかもしれせんから、 

「心臓が動いている時間を長くすることに価値を見いだしてはいない。」 

と言い換えてみましょうか。 
たいていの人は、寝たきりになりたくないというのですけど、同時に死にたくないと考えるから矛盾が生じてしまいます。だから、もうひとつ言い換えると、 

「私は死ぬために生きている。」 

という事です。 

本当は、50年ぐらいで死ねたらかなりいい人生になるはずです。 
でも、来年あたりに死ぬかというと、もうちょっと生きてしまいそうな感触です。たぶん、これまで半端な生き方をしてきてしまったせいで、もうちょっと長生きしてしまうのでしょう。 

それで、この文を書いていて、 

「ざまーみろ。」 

という言葉が浮かんできました。 
死ぬときに、ざまーみろって言ってやりたいのです。一体、何に向かってこういってやりたいのかわからないのですけど、そう言って死んでいくためには、もうちょっとやっとかなくてはいけない事がいくつかあります。

私にとって生きるというのはこういう感覚です。 
もし、多くの人がそうであるように、死なないようにする事を生きると考えているのであれば、 

「生きるとはどういう事か?」 

をよく考えてみることをおすすめします。 
別に、私のように死ぬために生きるみたいな極端な所までいく必要はないのです。ただ、死ぬときになんて言って死にたいのか?言葉も思いもなにもなく、 

「気がついたら死んでいました。」 

そういう人生の最後でよいのかを考えてみるとよいでしょう。 

ただただ心臓が動いて呼吸をしていたモノの動きが止まりました。麻痺的健康な人間が迎える死というのはそういうものになるはずです。
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