コロナウイルスの話
2020年03月24日
私のような人間でもこの新型ウイルス騒ぎに思考をほぼ全部引っ張られてしまって穏やかでいるのがなかなか難しくなってきています。そこで、ここら辺りで1回、頭の中の物を全部吐き出して捨ててしまおうと思います。
年が明けてからずっと、
「こうなって欲しくない。」
という事がいろいろ的中して、しかもそれが予想を上回っています。
「思った事が実現する。」
なんていう自己啓発とか自己実現とかでよく聞かされる言葉を、いままでずっと馬鹿にしていましたがどうやら本当の事だったのかもしれません。
これを機会に、
「政府というものがどういう役割と必要性によって作られたのか?」
というのを考えてみました。
政府の役割は、いくつかありますが、
「非常時において適切な対応をするため。」
というものがもっともしっくりきました。
例えば、戦争が起こったり、地震や台風で大きな被害がでたときに、個人の力では適切な対応をとることが非常に難しいのです。政府というのは、そのための必要性を感じて作られたというわけです。
今回のウイルス騒ぎは個人では対応が難しい非常の出来事といっていいでしょう。
それなのに政府はなんの対応もしませんでした。武漢が閉鎖されたのは、1月22日ですが、安倍首相は1月23日に、春節(中国の正月休み)に入った中国人たちに向けて、
「春節では、ぜひ日本にお越しください。」
というメッセージを動画を付けて公開しました。そしてこのメッセージは1月30日まで、1週間ずっと掲載されていたそうです。政府は武漢が閉鎖されるという状況を非常事態だとは考えなかったようです。
対称的に、アメリカはすぐさま中国人の受け入れ拒否を実施しました。
アメリカの政府は健全に機能しているのでしょう。日本が中国人の受け入れを正式に停止したのは、トランプ大統領が日本人も渡航禁止にするかもしれないと発言した後でした。トランプに尻を蹴られてそれに反応しただけで、やはり政府は何もしていないと言っていいでしょう。
この時期、私も東京に何回か出張していました。日本人には、不要不急の外出を控えるように指導しながら、外国人たちは好き勝手に町中を歩き回ってましたね。
中国人の受け入れを停止した場合、
「経済に深刻なダメージがでる。」
そういう政治判断が影響したのだったらまだよかったのです。しかし、すぐにそんな事は考えていない事が明らかになります。
大規模イベントの中止と学校の休校の要請がなされました。
パフュームの数万人の講演当日だったそうでが遠方からやってきて会場で中止を知った人が多くいたそうです。給食を作っている業者は何千万円もの損失になるそうですけど、その損失についての保証の話はいまだに聞こえてきません。これらの経済損失がいったいどれぐらいのものになるのか試算すらしてないのじゃないですかね?外国人のふところからお金を引き出すことばかり考えて、日本人のふところが痛むのは平気であるという事が理解できません。
3000人規模のコンサートを企画していたバンドグループの訴えが悲痛でした。
3000万円程度の費用をかけて1年前から準備していた初舞台を中止せざるをえなくなったそうです。その後の返金などの手続きを考えると損失はさらに大きくなることでしょう。今の政府の様子だと、要請を受けて勝手に自粛しただけですから保証などなされることはなさそうです。
また、整体にこられている人で、オーケストラで仕事をしている人がいるのですが、完全な失業状態だと言っていました。要請一つでどれぐらいの数の人間を失業させたかのはまったくわかっていないのじゃないでしょうかね?
宝塚歌劇団の話は私は一番ひどいと思いました。
考えられる最善の対応をして開演したら世論によって公演停止に追い込まれました。歌劇団の資金繰りが苦しいとは思わないですが、公演を再開しようとしたのは、公演しなくてはならない事情があったのだろうと思われます。例えば、収益の大半が舞台や衣装に費やされているとか、役者の育成に使われているとかで運転資金がそれほど潤沢ではなかったのだろうとか、
「貸し付けをしもらってもなんの問題解決にもならないし逆に厳しくなる。」
という状況はちょっと考えればいくらでも推察のしようがあります。
しかし、首相は自粛を要請するという方法で、自粛する事が善であるという世論を作りました。それで起こった事は、宝塚歌劇団のファンからの、
「中止するべきだ!」
という批判でした。
歌劇団の人たちは、ファンからのこの声を聞いた時にどういう気持ちになったでしょうね。政府の指示ではなくて、世論を操作する事によって講演を中止に追い込みました。宝塚歌劇団の経営が破綻しても安倍首相と政府は、
「要請しただけだし、命令したわけじゃない、政府の責任じゃありませんから知りません。」
なんて具合の事を、非常に残念そうに言うんじゃないでしょうか。
さらに、書いている途中にK1の試合が開催されたというニュースを聞きました。
こちらも大いに批判されているようです。
「知事が再三の中止要請にも関わらず強硬」
なんて具合の見出しに記事にでています。
世間の状況をみれば、中止するのが得策であるのはわかっている事でしょう。でも、中止にできない状況であったであろう事は簡単に察する事ができます。ネット上での意見をさらりと目を通したら、案の定、
「なぜ中止にしなかったのか。」
「これをきっかけに感染が大きく広まってしまったらどうするのだ。」
というものばかりでした。
もし、中止してK1を主催する団体が破綻したら、政府や知事はきっと
「彼らは日本国民たちのために犠牲になってくれたのだ。」
と言って涙を流すのでしょう。
ここではた気が付きます。
「終戦間際の特攻は、こういう空気でおこなわれたのか。」
自分だけが助かりたいという人たちの意見がまかり通ってしまうのです。たまたま、ちょっと前に、特攻隊に配属された人のコメントをみかけたのですけど、
「まともじゃない。」
といってました。
「社会のため、世の中のための犠牲になれ。」
そういうまともじゃない意見が正論になっているのです。
私たちは歴史からなにも学んでいなかったのでしょう。学校教育が薄っぺらで半端なものだということに大きな不満を感じていましたが、それはこういう時にでるのですね。
「中止して破綻して、それでも死ぬわけではない。」
とかいう人がいるのかもしれませんが、犠牲になるのが自分でなければきっとそう思えるのでしょう。
終戦の時に小学生だった人の話を思い出します。
当時の小学校には、国たのめに命を捧げる事を賛美する授業があったそうです。それで、戦争が終わってその授業をやっていた先生が授業で何を言うのか注目していたそうです。すると、
「平和と命が大切だ。」
と突然いいだしたそうです。
そして、その意見の切り替えについては何の説明もなかったそうです。新型コロナウイルスの存在を知らなかった時には、どういう事を考えていたのか振り返ってみるといいのでしょう。でも、こういう人たちはきっと過去のことは振り返らないのじゃないでしょうかね。
日本は今年オリンピックを開催する予定でした。
仕事を失っている人、民間団体に起こっている事が、政府にとって我が身の事として起こっています。
「安全と生命の事を優先してとっとと中止すればいい。」
というほど簡単な問題ではないことがわかっているはずなんですけどね。
政府の懐が痛むのは嫌だけど民間のだったらいいと考えているのか、オリンピックのような国際大会は民間でやるようなちんけなものではないと馬鹿にしているのか、日本国民の多くをを失業させて無一文にしてもオリンピックを開催すればすべて帳消しになると考えているのか、いったい何を考えているのかよくわかりません。
この状況でまともな開催ができるはずがないのはすべての人がわかっているでしょう。
しかし、オリンピック中止の決定ができないのは、おそらく、
「保証がない。」
という状況で、ババのなすりつけ合いをしているだけじゃないのですかね?
安倍晋三という人が政治家として無能であればよかったのです。
彼が無能だというだけであれば交代してもらえば事態が好転するはずです。しかし、そんな無能な人ではこんなに長く政権を維持なんてできるはずもありません。この状況は意図してそうなっているとして考えるのが正解でしょう。世論を操作して、国民の意見を割って、国民の意見として反対する勢力の人たちを叩く、そういう政治をやってきていたのじゃないでしょうかね。
今回に限って違うやり方なんてできるはずもありません。
結局、国民を使って、宝塚やK1を自粛させ、場合によっては潰してしまうというのが安倍晋三という政治家のやり方だという事なのでしょう。腐っていると国会で評する人がいまいしたが、案外、真実を言い表した言葉で、それを指摘されたせいでキレてしまったのかもしれません。
私はこの卑劣なやり方を容認することはできません。
一部の人に負担を押しつけてそれを良しとするのは政治とは言いません。問題が起こったら、みんなで一緒に背負って負担を軽くしましょう。ただ、どうしたって偏りがでるからそこにはちゃんとサポートしましょう。政治っていうのは、そういう当たり前のことをするだけのものです。それが難しいとかいうのだったら、政治家なんてやるべきじゃないし、辞めてしまえばいいですね。
なるべく多くの人がなるべく同じ方向を向いて、できればすべての人が起こった結果にある程度納得できるという落としどころを探る事が求められる状況です。それなのに、意見を割るような事をやって、反論を押しつぶして、その事に気がつけないでいると感じます。
政府の役割、存在意義が、
「非常時に適切な対応をする。」
という事であり、歌劇団やK1のような舞台イベントを中止させる必要があるという判断をするのであれば、中止できるようにしてあげるのが政府の果たすべき役割でしょう。
「新型コロナウイルスは危険ですので、職を失おうが、借金を背負おうが、落ち着くまで家の中に引き籠もっておとなしくしていてください。」
こんなことしか言えないのだったら、政府は機能してないと私には感じられます。
マスクを1万円で売る人に、我が身可愛さに他人の気持ちを推し量れない人たち、どこを向いて何を考えているのかわからない政府と役人、日本って昔からこんな国だったんですかね?
そんな事を考えていたら、小学5年生の時の事を思い出しました。
身内に病人がでて、両親が病院にかけつけて弟と二人で家に取り残された事があります。遊びに行ってて帰ってきたら家には誰もいなくて、近所の人に親が病院にいっているという事を知らされました。ただ、それ以外の状況がわからず、携帯電話なんかもありませんでしたから連絡のとりようもありません。確か私はその時、
「弟にまずちゃんと飯を食わせよう。」
そう思ってインスタントラーメンでも用意しようと考えていたように思います。
でも、準備をしていると、近所の人がやってきてくれて、
「あとでスパゲッティ持ってきてあげるからそれを食べなさい。」
と言ってくれました。
その後も、
「うちに食べに来たら良い。」
とやってきて言ってくれる方が二人も来てくれました。
今の世の中って、そういう風な事ができる人ってほとんどいないのじゃないでしょうか。昔は当たり前のように、自然にそんな事ができる社会だったんじゃないでしょうかね。明るいうちは、子供たちが遊んでいる声がずっと聞こえているような、私が子供のころはそういう世の中だったような気がします。
それで、そういう世の中であれば、今のこの状況って全然違う様子になっていたんじゃないかと、この発想の繋がりはうまく説明できませんけど、そんな事を思います。
私と、私たちは、なにかいろいろ考え違いをしてしまって、世の中をこんな風に殺伐としたものにしちゃったんじゃないでしょうかね?
目先の問題はあるにしろ、私たちはどうあるのが幸せなのか、日本という国がどういう国であるのが理想なのか?それを踏まえて、今、私たちはどうするべきなのかというのをもう1回考え直してみる必要があるのじゃないでしょうか。ババを引いた人だけが辛い思いをするような、そういう事をやっているから、おかしな事になってるんじゃないでしょうかね?
そんな訳で、なんにもまとまっていませんが、頭の中にあるモヤモヤをひとまず全部吐き出しました。
また、貯まったらやるかもしれませんがたぶんもうやりません。こういう事について、あれこれと発信するのは私のやることではないと思うからです。今回は、私自身が平常運転に戻るために必要だと感じたからやりました。これでかなりスッキリすると思うので、これから私が果たすべき役割というのをもう1度考え直してみて、できることをやっていこうと思います。
年が明けてからずっと、
「こうなって欲しくない。」
という事がいろいろ的中して、
「思った事が実現する。」
なんていう自己啓発とか自己実現とかでよく聞かされる言葉を、
これを機会に、
「政府というものがどういう役割と必要性によって作られたのか?
というのを考えてみました。
政府の役割は、いくつかありますが、
「非常時において適切な対応をするため。」
というものがもっともしっくりきました。
例えば、戦争が起こったり、
今回のウイルス騒ぎは個人では対応が難しい非常の出来事といって
それなのに政府はなんの対応もしませんでした。
「春節では、ぜひ日本にお越しください。」
というメッセージを動画を付けて公開しました。
対称的に、
アメリカの政府は健全に機能しているのでしょう。
この時期、私も東京に何回か出張していました。日本人には、
中国人の受け入れを停止した場合、
「経済に深刻なダメージがでる。」
そういう政治判断が影響したのだったらまだよかったのです。
大規模イベントの中止と学校の休校の要請がなされました。
パフュームの数万人の講演当日だったそうでが遠方からやってきて
3000人規模のコンサートを企画していたバンドグループの訴え
3000万円程度の費用をかけて1年前から準備していた初舞台を
また、整体にこられている人で、
宝塚歌劇団の話は私は一番ひどいと思いました。
考えられる最善の対応をして開演したら世論によって公演停止に追
「
という状況はちょっと考えればいくらでも推察のしようがあります
しかし、首相は自粛を要請するという方法で、
「中止するべきだ!」
という批判でした。
歌劇団の人たちは、
「要請しただけだし、命令したわけじゃない、
なんて具合の事を、非常に残念そうに言うんじゃないでしょうか。
さらに、
こちらも大いに批判されているようです。
「知事が再三の中止要請にも関わらず強硬」
なんて具合の見出しに記事にでています。
世間の状況をみれば、
「なぜ中止にしなかったのか。」
「
というものばかりでした。
もし、中止してK1を主催する団体が破綻したら、
「彼らは日本国民たちのために犠牲になってくれたのだ。」
と言って涙を流すのでしょう。
ここではた気が付きます。
「終戦間際の特攻は、こういう空気でおこなわれたのか。」
自分だけが助かりたいという人たちの意見がまかり通ってしまうの
「まともじゃない。」
といってました。
「社会のため、世の中のための犠牲になれ。」
そういうまともじゃない意見が正論になっているのです。
私たちは歴史からなにも学んでいなかったのでしょう。
「中止して破綻して、それでも死ぬわけではない。」
とかいう人がいるのかもしれませんが、
終戦の時に小学生だった人の話を思い出します。
当時の小学校には、
「平和と命が大切だ。」
と突然いいだしたそうです。
そして、
日本は今年オリンピックを開催する予定でした。
仕事を失っている人、民間団体に起こっている事が、
「安全と生命の事を優先してとっとと中止すればいい。」
というほど簡単な問題ではないことがわかっているはずなんですけ
政府の懐が痛むのは嫌だけど民間のだったらいいと考えているのか
この状況でまともな開催ができるはずがないのはすべての人がわか
しかし、オリンピック中止の決定ができないのは、おそらく、
「保証がない。」
という状況で、
安倍晋三という人が政治家として無能であればよかったのです。
彼が無能だというだけであれば交代してもらえば事態が好転するは
今回に限って違うやり方なんてできるはずもありません。
結局、国民を使って、宝塚やK1を自粛させ、
私はこの卑劣なやり方を容認することはできません。
一部の人に負担を押しつけてそれを良しとするのは政治とは言いま
なるべく多くの人がなるべく同じ方向を向いて、
政府の役割、存在意義が、
「非常時に適切な対応をする。」
という事であり、
「新型コロナウイルスは危険ですので、職を失おうが、
こんなことしか言えないのだったら、
マスクを1万円で売る人に、
そんな事を考えていたら、小学5年生の時の事を思い出しました。
身内に病人がでて、
「弟にまずちゃんと飯を食わせよう。」
そう思ってインスタントラーメンでも用意しようと考えていたよう
でも、準備をしていると、近所の人がやってきてくれて、
「あとでスパゲッティ持ってきてあげるからそれを食べなさい。」
と言ってくれました。
その後も、
「うちに食べに来たら良い。」
とやってきて言ってくれる方が二人も来てくれました。
今の世の中って、
それで、そういう世の中であれば、
私と、私たちは、なにかいろいろ考え違いをしてしまって、
目先の問題はあるにしろ、私たちはどうあるのが幸せなのか、
そんな訳で、なんにもまとまっていませんが、
また、貯まったらやるかもしれませんがたぶんもうやりません。
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