頑張っても元気にも健康にもなれない
2019年10月24日
20代の中頃だったと思いますが
「頑張ります。」
という言葉を2回ほど使ってみました。
仕事であることを任されて、どうしようかと思った時にまずは頑張ってみようと思ったのです。実は、この頑張るという事をやってみようと思ったのはこの時がはじめてでした。
10代の頃、それなりに熱心にバスケットボールに取り組んでいました。
毎日、朝6時に起きて7時には学校へいって1人で朝練をやっていましたかね。その時は、ただただ上達していくのが面白かったので頑張るという感覚はまったくなく、やりたいことをやっているというだけという感覚でした。
学業の成績なんかでもそんな具合でしょうか。
テスト勉強というのを一切やらなかったので学校での成績は底辺にいました。ただ、行きたい大学へいくためには受験勉強をやらないわけにはいきません。休みの日なんかは、1日12時間以上は机に座って日本全国の入試問題をやっていたりしました。
日本中の大学の過去5年分の入試試験を予備校でコピーして、全部の回答をノートにまとめていました。
志望は私学だったので国公立は含まれていませんけどね。寝るのは朝4時ぐらいというのが当たり前になっていました。起きている時間のほぼすべてを入試対策につぎ込むというような生活を半年程度つづけました。
この時もやはり、必要な事をやっているだけで頑張っているという感覚はありませんでした。だから、辛いとか苦しいみたいな感覚はなく、充実感に満たされている生活だったでしょうか、入試なんてゲーム感覚で取り組んでように思います。
入試テストの対策だってこれぐらいやっていればそれなりに面白くなってくるものです。
試験というものの性質が見えてくるから、何ができればいいかもわかってくるわけです。それで、近畿大学と、あと沖縄の大学だったと思うのですが、
「この2つの大学の入試問題は解答を作っても意味がない。」
と判断して飛ばしてやっていた記憶があります。
入試問題を見ていくとその大学の先生がどんな授業をやっているかがなんとなく透けてみえてくるんですよね。それで、行っても多分面白くないからいいやとなるわけです。それで、いくつかの入試を受けほとんど合格しましたが、近大は不合格でした。今はどうか知りませんが、近大は試験問題が意地悪なだけで、面白くもなんともなく、きっと性格の悪い人が先生をやっているのだろうと、そんな事を考えていましたね。
話を戻します。
そんな具合で20代中頃まで、頑張るというのを一切やった事がなかったのです。
それで、ちょっと頑張ってみたのですけど、
「これは駄目だな。」
と思ったわけです。
何が駄目かというと、頑張るという言葉に何も具体性がない事が気がつきました。
具体性がないから、何の成果が上がりません。それより何より、具体性がでてくると頑張る必要などなくなってくるのです。それで、
「頑張る。」
という言葉は、具体的な考えがない人間が仕事をしているフリをするために使う言葉なのだなぁと。そう考えて頑張るという言葉を禁句にすることにしました。
余談ですけど、夢という言葉にも似た匂いを感じます。
私が夢という言葉を使うのは、小学生1年の時に読んだ世界の怪奇現象という本に書いてあった黒犬獣プーカの話をする時だけです。14歳ぐらいまで1年に2~3回だったでしょうか、夢の中でずっとプーカに追いかけられていて、いまでもその怖い夢の事はたまに思い出します。
メンタルを病んでますなんて人に、
「頑張るのを辞めましょう。」
なんていうアドバイスを見かけることがあります。
でも、頑張らないというのと何もしないというのは全く意味が違うと思えます。人間は3年ぐらい何もしないでぼんやりしていれば元気が湧いてくるようになるでしょうか?休息が必要な人だったらそれでいいのでしょうけど、私が見渡す限り大半の人は休息を必要としているわけではないですね。
最近、
「元気になれそうな気がするので頑張ります!」
という人が3人ほど続きました。
「いやいや、元気だとか健康だとかいうものは頑張って手に入れるものではない。人間という生き物はほっておけば勝手に元気になる生き物で、頑張っているようではダメだ。」
なんていう話を繰り返していました。
多分、頑張る必要がない生き方というか生活をするのが一番いいのじゃないでしょうかね。
私は30歳のときに今後、『頑張る』という言葉を使っていいのは3回だけにしようと思いました。
そのうち1回はすでに使っていて、起業しようという友人に
「頑張れよ。」
と声をかけましたね。
残りはあと2回ですが、たぶん使わないで余らせて人生が終わりそうな気がしています。
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